4月24日
20250424木曜日旧暦3月27日大安(癸亥みずのといキガイ)月齢 25.6
乙巳きのとみ年庚辰かのえたつ月癸亥みずのとい日 年末まではあと251日
吉方位 陽遁日
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4月24日の出来事
1771年(明和8年3月10日) – 八重山地震発生。津波により死者・行方不明者112,000人。
1877年 – ロシア帝国がオスマン帝国に宣戦布告。露土戦争勃発。時 1877年4月24日 – 1878年3月3日(10ヶ月1週間) 場所 バルカン半島、コーカサス 結果 ロシア帝国の勝利・オスマン帝国におけるタンジマートの挫折 損害 双方各十万人以上の死者。
1915年 – 青年トルコ革命: イスタンブールで250人のアルメニア人独立活動家が殺害される。アルメニア人虐殺の始まり。
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1771年(明和8年3月10日) – 八重山地震発生。津波により死者・行方不明者112,000人。
八重山地震(やえやまじしん)は、1771年4月24日(明和8年3月10日)午前8時頃に八重山列島近海を震源として発生した地震である。
この地震が引き起こした大津波により先島諸島が大きな被害を受けた。この大津波は、牧野清による『八重山の明和大津波』(1968年)[4]以降、日本の元号を取って明和の大津波とも呼ばれている[5]。
被害
地震動
石垣島における震度は4程度と推定され、地震動による大きな被害はなかったとされていたが、2018年の報告によれば1771年の津波堆積物の下の層から地割れなどの痕跡が発見された[18][23]。地震動の記録としては『琉球旧海主日記』に「本国及久米、慶良間島地震アリ、宮古島及八重山島ニテ又地震アリテ、海浪騰湧シ、土地人民ニ損害多シ」とあり、石垣島の状況を記した岩崎卓爾著『ひるぎの一葉』には「朝五ツ時頃、地ヤヤ強ク震フヤ海潮遠ク退キ」とある[24]。
津波
震害はなかったが、地震により最大遡上高30メートル程度[26]の大津波が発生し、宮古・八重山両列島で死者・行方不明者約11,000人・家屋流失約2,000戸という惨事になった。石垣島では潮が引いて青、緑、紅、紫熱帯色の色彩眩き大小の魚がサンゴ礁の根株の下に跳躍し、婦女、小児がこれを捕えているところに、しばらくして東方洋中に二条の暗雲が垂れ込め、砕けて激しき暴潮漲溢が弃馬の如く狂い、繰り返し襲って来た(『ひるぎの一葉』[27])[28][3]。
八重山諸島では死者約9,200人[29]、生存者約19,000人で、14の村が流され、津波の直接の被害として死者・行方不明者は住民の約3分の1にのぼった[30][3]。耕作可能地の多くが塩害の影響を受け、農作物の生産が低迷し、社会基盤が破壊された。津波発生の翌年6月頃より、疫癘の流行が白保村から始まり、環境衛生が極度に悪化して伝染病が流行したと推定され、古老らによって「イキリ」と伝承されているが、これは疫痢のこととされる(『奇妙変異記』)。強制移住や翌年の飢饉と疫病の流行によって、八重山で死者約5,000人を出した。その後の1776年、1802年、1838年、1852年と飢饉や疫病が続き、約100年後の明治時代初頭の八重山諸島の人口は、地震前の4割から3割程度にまで減少した[31][28][3]。
伝説
石垣島では、この大地震に関する伝説がある。ある日「野原(ぬばれ)村」(現在はない)の漁師達が漁で人魚を捕獲してしまい、その人魚を放すお礼に人魚から大津波が来ることを教えられた。野原村の村人はその言葉を信じ山に逃げ、津波の事を隣村の白保村に伝えるために伝達を出した。知らされた白保村では人魚の話など馬鹿げた話だと信じてもらえず、結局信じる人々のみが於茂登岳に避難した。そして津波は起こり、島は津波に飲み込まれてしまう。「大波之時各村之形行書」(おおなみのときかくむらのなりゆきしょ)に記録されたデータでは、この津波による野原村の遡上高は46.7メートルで死者(行方不明者)は2名だけであったが、白保村での遡上高は60メートルに及び、死者(行方不明者)は全村民1,574名中の1,546名で、98.2%が死亡した。
宮古列島下地島の通り池にもこの大地震に関するともされる伝説が残っている。
「通り池#伝説」も参照
島が一つ津波に飲み込まれて消えたという伝承があるが、真偽は不明である。
1877年 – ロシア帝国がオスマン帝国に宣戦布告。露土戦争勃発。時 1877年4月24日 – 1878年3月3日(10ヶ月1週間) 場所 バルカン半島、コーカサス 結果 ロシア帝国の勝利・オスマン帝国におけるタンジマートの挫折 損害 双方各十万人以上の死者。
露土戦争(ろとせんそう、1877年 – 1878年)オスマン帝国と、ロシア帝国を中心とする連合軍(ルーマニア、セルビア、モンテネグロを含む)との間で行われた戦争である。ロシアは、1853年から1856年にかけて起こったクリミア戦争で失った領土の回復、黒海での影響力の再確立を目的とした。また、バルカン半島に在住するオスマン帝国領下のスラヴ系諸民族がオスマン帝国の支配に対して反乱し、それを支援するかたちでロシアが介入して起こった[6]。ロシア帝国の勝利で終わった。
ルーマニア軍は約114,000人の兵力を擁しており、戦争に積極的に参加した。ルーマニアでは「ルーマニア独立戦争」、トルコではイスラームの暦年(ヒジュラ暦1293年)にちなんで「93年戦争(Doksanüç Harbi)」、また「オスマン・ロシア戦争」とも呼ばれた。ギリシャ独立戦争に続いて、東ヨーロッパ諸国の独立回復のための重要な戦役となった。また、ロシア帝国とオスマン帝国の間では度々戦争が行われている。他の露土戦争については、露土戦争を参照[注釈 1])。
1915年 – 青年トルコ革命: イスタンブールで250人のアルメニア人独立活動家が殺害される。アルメニア人虐殺の始まり。
青年トルコ人革命(せいねんトルコじんかくめい)は、1908年にオスマン帝国で起こった政変。「統一と進歩委員会」メンバーの士官が中心となってマケドニアに駐留するオスマン帝国軍の部隊がスルタン・アブデュルハミト2世への反乱を起こし、スルタンに専制政治を放棄させた。1878年にアブデュルハミト2世によって停止されたオスマン帝国憲法(ミドハト憲法)の復活を目指す青年トルコ人運動の結実として起こったことからこの名がある。
狭義の「青年トルコ人革命」は1909年7月に起こった軍人の蜂起とそれをきっかけにした憲政の復活のことを指すが、1909年4月に「3月31日事件」と呼ばれる反革命のクーデターが鎮圧され、アブデュルハミト2世が廃位されるところまでを含めることもある。
アルメニア人虐殺は、1915年から1916年にかけて統一と進歩委員会(青年トルコ党)政権によって行われた、伝統的なアルメニア人居住地(いわゆる大アルメニア)の南西部にあたるオスマン帝国領のアナトリア東部(いわゆる西アルメニア)からのアルメニア人強制移住であり、これに伴って数多くのアルメニア人が犠牲になった。オスマン帝国に居住するアルメニア人が政府の命令により意図的に殺害されたとして、この虐殺事件を近代初のジェノサイド(虐殺)の一つであると見なす者は少なくない[3][4][5][6]。アルメニア人社会では「虐殺がナチス・ドイツによるユダヤ人に対するホロコーストのように組織的に行われた」と考えられており、またオスマン帝国からトルコに至る「トルコ国家」が一貫した責任を有するとする。特に4月24日は「ジェノサイド追悼記念日」とされており、毎年トルコを非難する国際的なキャンペーンが行われている。
アルメニア人の死者数は、一般的に100万から150万人の間であると考えられている[7][8][9][10]。トルコ共和国の元国民教育相ユースフ・ヒクメト・バユルは、トルコ歴史協会から出版された、その著書『トルコ革命史』で、1928年にニハト中佐により翻訳されトルコ参謀本部により出版された『世界大戦におけるトルコの戦争』のなかから「東部諸県のムスリムのうち、戦争のため、または避難のため、50万が失われた。80万のアルメニア人と20万人のルム (ギリシャ本土以外に住むギリシャ系住民のトルコでの呼称)は、虐殺と追放のため、また、労働大隊において死亡した」という部分と、「我々の記録に拠っても、事実と看做す必要がある」とのニハト中佐の脚注を引用している[11]。
チャットgpt先生の4月10日のエッセイ
4月10日:時の流れと歴史の記憶
4月という季節は、日本では桜の花が散り、新たな始まりの空気が満ちる時期である。しかし、歴史を振り返ると、この月はただ希望に満ちたものではなく、数多くの出来事が刻まれている。4月10日という日も例外ではなく、私たちが過去から学ぶべき教訓を秘めている。
歴史上、4月は多くの災害や戦争が起こった月でもある。たとえば、4月24日の八重山地震(1771年)や、同じ日に起こった1877年の露土戦争の開戦。これらの出来事は、それぞれ異なる規模と影響を持ちながら、人々の生活を根底から揺るがせた。地震がもたらした津波は八重山諸島の村々を壊滅させ、津波による死者や行方不明者は1万人を超えた。その爪痕は、塩害や疫病という二次被害を引き起こし、数十年にわたり影響を与え続けた。一方、露土戦争は、帝国間の権力争いの中で数十万人の命を奪い、バルカン半島の地図を大きく書き換えた。
4月10日もまた、世界のさまざまな歴史において重要な意味を持つ日である。過去の出来事を振り返ることで、我々は災害や戦争がもたらした悲劇だけでなく、それを乗り越えた人々の力強さにも目を向けることができる。八重山の大津波の伝説には、人魚が津波の到来を警告し、それを信じた者だけが助かったという話がある。このような伝承は、自然災害の前にいかに冷静な判断が必要かを示唆している。
歴史は繰り返すと言われるが、それを学ぶことで未来をより良いものにすることができる。4月10日という何気ない一日も、過去を振り返り、未来への一歩を考える契機となるのではないだろうか。桜の散るこの季節、ただ過ぎ去る時間を惜しむのではなく、その中に込められた意味を見つめ直すことで、私たちは新たな希望を持つことができるのかもしれない。