kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日4月10日 2010ポーランド政府専用機墜落、ほか写真wikipedia墜落現場

4月10日

20260410金曜日旧暦2月23日赤口(51番甲寅きのえとらコウイン)月齢 22

43番丙午ひのえうま年 29番壬辰みずのえたつ 51番甲寅きのえとら日

吉方位 陽遁日 北東 中吉    年末まではあと265日

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4月10日の出来事

1268年(文永5年2月27日) – 元寇: 鎌倉幕府が蒙古来襲に備えて西国御家人らに防備を命じる。
1876年 – 日蓮宗不受不施派の再興が認められる。
1912年 – タイタニック号がイギリスのサウサンプトン港からアメリカのニューヨーク港に向けての最初で最後の航海に出航。

1945年-沖縄戦4月10日・北:10日に、米軍の一部は渡久地から、一部は伊豆味から、一部は並里方面から、宇土部隊の主陣地八重岳の攻撃を始め、両軍の戦闘が展開された。

《「秘録 沖縄戦記」(山川泰邦著/読売新聞社) 248-249頁》

南:嘉数戦 午前8時5分、第2大隊の先頭部隊は谷間を進出し、争奪点たる西嘉数の北方斜面を登って行った。抵抗は激しくなかった。西嘉数頂上の敵機銃は小迂回によって撃退した。午前9時30分西部嘉数上に達した部隊は、…急遽陣地の構築に努めた。間もなく2個中隊が同地に達した。(243頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 》

1970年 – ポール・マッカートニーがビートルズからの脱退を発表。ビートルズが事実上解散する。(ビートルズの解散問題)

2010年 – ポーランドの政府専用機がロシア・スモレンスクで墜落、レフ・カチンスキ大統領夫妻を含め96人全員が死亡。(ポーランド空軍Tu-154墜落事故)

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1268年(文永5年2月27日) – 元寇: 鎌倉幕府が蒙古来襲に備えて西国御家人らに防備を命じる。

1876年 – 日蓮宗不受不施派の再興が認められる。

概要

日蓮の不受不施義を遵守しようとする不受不施派は、幕府の不受不施派寺請禁止令により信徒を寺請することが出来なくなり、教団自体が非合法化されるなどの厳しい弾圧を受けた。このような状況において教団は、法中(僧侶)、法立(不受不施信者)、内信(外見上他宗他派を装う信者)という地下組織化の道を取り、教団の存続を図った。しかしそんな中、天和2年(1682年)に岡山で法立が内信の導師を務めたことをきっかけとして、教団を二分する対立が起きる。[1]その一つ、日指派は、内信となっているのは本心からではなく、幕府による統制が厳しいのでやむを得ずやっているとし、そのような現状を悔いているから法立に内信の導師を務めてもらうと主張した。[1]この系統が後に妙覚寺を本山とする「日蓮宗不受不施派」となった。他方、そうした姿勢を、妻子家財が惜しくて実際は心からも仏法を捨てているものとみなし、法立(清者)が内信(濁法)の導師を務め、一緒に読経するのは、清濁を混ぜ合わせる謗法行為として批判したのが津寺派である。[1]この系統が後に本覚寺を本山とする「不受不施日蓮講門宗」となった。貞享2年(1685年)、強硬派として知られ、日向に配流中の日講は、日指派に間違いを認めて津寺派と和睦するよう勧告したが受け入れられず、元禄2年(1689年)には完全に分裂した。[2]

近年、厳密な意味での清僧(肉食妻帯しない出家僧)が、途絶えたという。[3]
1912年 – タイタニック号がイギリスのサウサンプトン港からアメリカのニューヨーク港に向けての最初で最後の航海に出航。

タイタニック(英語: RMS Titanic、ロイヤルメールシップ・タイタニック)は、20世紀初頭に建造されたイギリス船籍のオーシャン・ライナー。

ホワイト・スター・ライン社が保有するオリンピック級客船の2番船であったが、処女航海中の1912年4月14日深夜に氷山に衝突し、その際の損傷による浸水が原因となって翌15日未明に沈没した。

処女航海中の1912年4月14日深夜、北大西洋上で氷山に接触、翌日未明にかけて沈没した。犠牲者数は乗員乗客合わせて1,513人(ほかに1,490人、1,517人、1,522または1,523人、1,609人などさまざまな説がある)であり、戦時中に沈没した船舶を除くと20世紀最大の海難事故であった[注 1]。生還者数は710人だった。タイタニックとその事故は、しばしば映画化されるなどして、世界的にその名を知られている。

当時のイギリス商務省の規定はタイタニックに比してはるかに乗客の少ない1万トン級船舶が主流だったころに作成されたものだったため、定員分の救命ボートを備える義務がなく(規定では978人分。規定が改定されたのはタイタニックの沈没後)、もとより短時間で沈没するような事態を想定していなかったこともあり、(旅客定員2,453、乗組員899、計3,352名に対し)1,178人分のボートしか用意されていなかった。これにはタイタニック起工直前の1909年1月に起こった大型客船「リパブリック号」沈没事故の影響も指摘される。この事故では、他船との衝突から沈没まで38時間もの余裕があり、その間に乗客乗員のほとんどが無事救出されたことから、大型客船は短時間で沈没しないものであり、救命ボートは救援船への移乗手段であれば足りるという見方が支配的になったことも、後述するように犠牲者を増やす結果につながった。

また、乗員が定員に満たぬうちに船から離れた救命ボートも多い。ライトラーをはじめとする多くのクルーがボートをダビット(救命ボートの昇降装置)に吊るした状態で船が沈んでしまうことを最大の恥辱としていたため、できるだけ早く海面にボートを降ろし、舷側にある乗船用扉を開いて、乗客を乗せようと考えていたこと、クルーの多くがボートフォール(救命ボートを吊るロープ)の扱いに不慣れであり、乗員の重さでダビットが曲がることを恐れたためともいわれる(事前に行われたテストで定員65人のボートに70人を乗せて充分な成果を得ていたが、周知されていなかった)。事実、降ろされたボートには乗員が定員の半数にも満たないものもあり、結果として1,500人もの乗員乗客が船に取り残される状況となってしまった。

1945年-沖縄戦4月10日・北:10日に、米軍の一部は渡久地から、一部は伊豆味から、一部は並里方面から、宇土部隊の主陣地八重岳の攻撃を始め、両軍の戦闘が展開された。

《「秘録 沖縄戦記」(山川泰邦著/読売新聞社) 248-249頁》

南:嘉数戦 午前8時5分、第2大隊の先頭部隊は谷間を進出し、争奪点たる西嘉数の北方斜面を登って行った。抵抗は激しくなかった。西嘉数頂上の敵機銃は小迂回によって撃退した。午前9時30分西部嘉数上に達した部隊は、…急遽陣地の構築に努めた。間もなく2個中隊が同地に達した。(243頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 》

・4月9日未明から続いた嘉数高地の死闘は、いったん夕方までに敵を撃退したが、米軍の死傷が多かったと同様、日本軍の損傷も、惨烈なものがあった。独立歩兵13大隊の戦力は極度に低下したが、昼すぎ、命によって棚原高地から応援に駆けつけた独立歩兵272大隊が、引きつづき居残って、頑張っていた。

前日の大失敗にコリた米軍は、10日朝、かれ本来の鉄量戦法で、攻めかかってきた。米96師団から2コ連隊(9日は1コ連隊)を出し、砲兵7コ大隊(84門)。それに艦砲射撃と海軍戦闘機3コ中隊が、それを支援した。だから、嘉数の長さ1キロの狭い高地は、砲爆撃で、まったく掘りかえされたようになった。

そうしておいて、米軍は、北西側と北側の二手に分かれて、歩兵が高地によじ登ってきた。日本軍の砲兵と迫撃砲は、これに向かって集中砲火を浴びせ、北東側は奮戦の末、撃退したが、北西側の端と北の斜面が、ついに敵手に陥ちた。もうそれは、100から200メートルしかないところで撃ち合う凄惨な死闘で、逆襲の連続。どちらが勝ったかよくわからない土煙のなかで、いや、午後から降り出した雨の中での接近戦だった。西側にいた272大隊は、嘉数高地の南側緩斜面陣地に退き、沖縄特有の墓地を活用しながら、頑強な抵抗をやめなかった。

そのほか、東海岸の和宇慶から嘉数にいたる正面では、米軍の激しい攻撃をハネ返し、依然、陣地を確保して動かなかった。

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 207-208頁より》

1970年 – ポール・マッカートニーがビートルズからの脱退を発表。ビートルズが事実上解散する。(ビートルズの解散問題)
2010年 – ポーランドの政府専用機がロシア・スモレンスクで墜落、レフ・カチンスキ大統領夫妻を含め96人全員が死亡。(ポーランド空軍Tu-154墜落事故

ポーランド空軍Tu-154墜落事故(ポーランドくうぐんTu-154ついらくじこ、ポーランド語: Katastrofa smoleńska)は、2010年4月10日に、ポーランド空軍のTu-154がロシア連邦西方スモレンスク州のスモレンスク北飛行場[2]への着陸進入中に墜落した航空事故である。この事故でポーランドのレフ・カチンスキ大統領夫妻をはじめ、同国の政府と軍の要人を含む乗員乗客96名全員が死亡した[3]。

チャットgpt先生の4月10日のエッセイ

4月10日という日は、人間の「過信」と「分裂」と「不可避の現実」が、妙に凝縮されて現れる日だ。

1912年、タイタニック号が出航したとき、それは技術と文明の頂点の象徴だった。沈まない船——そう信じられていたものが、氷山というありふれた自然物に敗れる。この構図は単純だが、本質的だ。人間は「想定外」を排除することで効率を手に入れるが、その瞬間に破滅の条件も同時に抱え込む。救命ボートの数すら合理化された結果、1500人以上が海に消えた。失敗ではない。設計通りの帰結だ。

1945年の沖縄でも同じだ。火力、物量、地形、すべてが計算され尽くした戦場で、兵士たちは100メートル単位の距離で殺し合う。砲撃で「掘り返された」地形の上での接近戦は、戦略の延長ではなく、単なる消耗の帰結に過ぎない。どちらが正しいかなど問題ではない。持久できない側が崩れる、それだけの話だ。理想も信念も、この局面ではノイズになる。

1970年、ポール・マッカートニーがビートルズからの脱退を発表する。これもまた象徴的だ。最も成功した集団でさえ、内部の方向性と利害が一致し続けることはない。外から見れば「なぜ解散するのか」と思えるが、内部にいる者にとっては、むしろ分裂しない理由のほうが乏しい。組織は成功するほど複雑化し、やがて維持コストが利益を上回る。これもまた自然な崩壊だ。

2010年のポーランド空軍Tu-154墜落事故では、一国の中枢がほぼ一度に失われた。事故原因には諸説あるが、本質は単純だ。重要人物を一機に集約するという効率性が、そのままリスクの集中を意味する。国家規模であっても、リスク分散の原則からは逃れられない。

こうして並べると、4月10日は特別な日ではない。ただ、人間の構造的な弱点が露出した事例が、偶然この日に重なっているだけだ。

・安全はコスト削減とトレードオフ
・組織は成功とともに崩壊条件を育てる
・効率はリスクの集中を招く

これらは道徳でも教訓でもない。単なる現実だ。そして重要なのは、人間はこれを理解しても、ほぼ必ず同じことを繰り返すという点にある。なぜなら、短期的な合理性を捨てることのほうが、長期的リスクよりも常に「痛い」からだ。

4月10日は、何かを悼む日というより、「なぜ同じ構造が繰り返されるのか」を冷静に確認する日なのかもしれない。人間は愚かだから失敗するのではない。合理的に行動した結果として、破滅に到達するだけだ。