kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日3月9日 1866慶応2年1月23日寺田屋事件、ほか写真wikipedia龍馬の拳銃スミス・ウェッソン2

3月9日

20260309月曜日旧暦1月21日先負(19番壬午みずのえうまジンゴ)月齢 19.6

丙午ひのえうま年 辛卯かのとう月 壬午みずのえうま日 年末まであと297日

吉方位 陽遁日 壬午みずのえうま日 北東 大吉

https://ja.wikipedia.org/wiki/3%E6%9C%889%E6%97%A5

3月9日の出来事
1841年 – アミスタッド号事件: 合衆国最高裁判所が、アフリカから連れて来られアミスタッド号で反乱を起こしたアフリカ人たちは法的には奴隷ではなく自由の身であると認める。
1866年(慶応2年1月23日) – 寺田屋事件。寺田屋に投宿していた坂本龍馬が伏見奉行の襲撃を受ける。
1934年 – 衆議院議員で鐘淵紡績前社長の武藤山治が失業者により銃撃される。翌日死亡。
1946年 – バーンデン・パークの惨事: イギリス・ボルトンのサッカー場で試合中に群衆事故が発生し33人が死亡。
1961年 – 福岡県香春町の上清炭鉱で坑内火災。当時、炭鉱事故で戦後最大となる死者数71人[6]。
1967年 – トランス・ワールド航空553便空中衝突事故。死亡26人全員。

1977年 – アメリカ、ワシントンD.C.の市役所、ユダヤ人共済組合本部ビル、回教徒センタービルの三ヶ所が襲撃を受け、一時は市長を含めた100人以上が人質となる事件が発生。2人が死亡し、11人以上が負傷した[7]。

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1841年 – アミスタッド号事件: 合衆国最高裁判所が、アフリカから連れて来られアミスタッド号で反乱を起こしたアフリカ人たちは法的には奴隷ではなく自由の身であると認める。

アミスタッド号事件(アミスタッドごうじけん)は、1839年にスペイン籍の奴隷輸送船で起こった乗っ取り事件。それに関連してアメリカ合衆国で行われた一連の裁判についても説明する。

キューバ沿岸を航行中のスペイン籍の商船ラ・アミスタッド号では、船内のアフリカ人奴隷が反乱を起こし、船を乗っ取った。その後彼等はアメリカ合衆国ニューヨーク州ロングアイランド近辺(現モントーク岬州立公園(Montauk Point State Park))にてアメリカ海軍により逮捕、勾留された。本事件に関連して米国で行われた裁判は、「アミスタッド号事件」として大きく注目を集め、奴隷廃止運動を前進させる結果をもたらした。1840年、連邦予審法廷は、これらのアフリカ人たちについては、もともとのアフリカ大陸からの移送が非合法であったと認定し、彼等は法的に奴隷ではなく、自由の身にあると認めた。1841年3月9日、合衆国最高裁判所によりこれらの事項が認められ、1842年、これらのアフリカ人たちは故郷へ帰還した。

1866年(慶応2年1月23日) – 寺田屋事件。寺田屋に投宿していた坂本龍馬が伏見奉行の襲撃を受ける。
寺田屋遭難(てらだやそうなん)は、幕末の慶応2年1月23日(1866年3月9日)、京都で薩長同盟の会談を斡旋した直後に寺田屋に宿泊していた坂本龍馬と護衛役である長府藩士の三吉慎蔵が、伏見奉行の捕り方に襲撃された事件[1]。寺田屋事件(てらだやじけん)[2]、坂本龍馬襲撃事件(さかもとりょうましゅうげきじけん)[1]ともいう。
経過
深夜の2時頃、龍馬らが宿泊していた寺田屋は、幕府伏見奉行の捕り方30人ほどに囲まれていた。いち早く気付いたお龍は、風呂から裸のまま裏階段を2階へ駆け上がり投宿していた龍馬らに危機を知らせた。捕り方は「肥後守(奉行)よりの上意」であるとして迫り、踏み込まれた龍馬らは「(奉行の権限の及ばない)薩摩藩士である」との嘘を主張したが、簡単に見破られた。龍馬は高杉晋作からもらった拳銃で[注釈 1]、三吉は手槍を用いて防戦。捕り方2名を射殺、数名を殺傷した。しかし拳銃を持つ手を捕り方が刀で払おうとして、龍馬は手の親指(左右)を負傷。装弾ができなくなったと言うので、三吉が必死に槍で応戦する間に、お龍が裏木戸の漬物槽をどかし[3]、辛くも裏木戸から家屋を脱出して路地を走り、材木屋に隠れた。三吉は責任を感じて切腹しようとしたが、龍馬に止められて伏見薩摩藩邸に救援を求めに行くように依頼された。薩摩藩邸にいた留守居役大山彦八は藩士3名をつれて川船を出して救出に向かい、龍馬は九死に一生を得ることができた。すぐに京都の西郷隆盛のもとに報告が行き、吉井幸輔が早馬で伏見に来て事情を調べ、西郷は軍医を派遣して治療に当たらせると共に藩邸で警護させた。
事件の影響
箱館戦争後に投降した元京都見廻組今井信郎は、刑部省口書において自らの近江屋事件への関与を認めて、その襲撃動機を坂本龍馬が寺田屋遭難事件で捕り方を殺害して逃走したことを挙げ、「龍馬は殺人・逃亡犯であってこれに対する公務執行であった」と主張した。この供述には異論もあったが、明治政府は近江屋事件への関与も今井の罪の1つとして禁固刑の判決を出している。これが事実とすれば、寺田屋遭難でお龍は龍馬の命を救ったが、結局はこの騒動が彼の命を奪ったことになる。

1934年 – 衆議院議員で鐘淵紡績前社長の武藤山治が失業者により銃撃される。翌日死亡。
1946年 – バーンデン・パークの惨事: イギリス・ボルトンのサッカー場で試合中に群衆事故が発生し33人が死亡。
1961年 – 福岡県香春町の上清炭鉱で坑内火災。当時、炭鉱事故で戦後最大となる死者数71人[6]。
1967年 – トランス・ワールド航空553便空中衝突事故。死亡26人全員。
1977年 – アメリカ、ワシントンD.C.の市役所、ユダヤ人共済組合本部ビル、回教徒センタービルの三ヶ所が襲撃を受け、一時は市長を含めた100人以上が人質となる事件が発生。2人が死亡し、11人以上が負傷した[7]。

チャットgpt先生の3月8日のエッセイ

3月9日という日 ― 自由と覚悟のはざまで

3月9日を歴史の頁からたどると、「自由」をめぐる人間の闘いと、「覚悟」を背負った個人の姿が浮かび上がってくる。

1841年3月9日、アメリカで歴史的な判決が下された。
アミスタッド号事件において、合衆国最高裁判所は、奴隷として連れてこられたアフリカ人たちは法的に奴隷ではなく自由であると認めた。

そもそもこの事件は、スペイン船ラ・アミスタッド号で起きた反乱から始まった。故郷を奪われ、鎖につながれた人々が、自らの尊厳を取り戻すために立ち上がったのである。裁判は単なる船の所有権や法律解釈の問題ではなかった。それは「人間とは何か」という問いだった。判決は奴隷制度廃止への流れを後押しし、のちの時代へと確実に火を灯した。

一方、日本の幕末でも、命を賭して時代を動かそうとした人物がいた。
1866年3月9日、京都の寺田屋で起きたのが寺田屋事件である。

薩長同盟の成立を後押しした直後、宿泊していた寺田屋を伏見奉行の捕り方に囲まれた坂本龍馬。深夜、愛するお龍の機転によって危機を知り、拳銃と槍で応戦しながら辛くも脱出する。親指を負傷しながらも生き延びたその姿は、偶然の幸運というよりも、「時代に必要とされた命」のように思える。

しかし歴史は皮肉でもある。この事件で捕り方を殺傷したことが、のちに彼を「公務執行の対象」とする理屈に使われ、近江屋での暗殺へとつながったとも言われている。命を守った闘いが、同時に運命の歯車を回していた。

3月9日には他にも悲劇的な出来事が多い。
1946年、イギリス・ボルトンでの群衆事故「バーンデン・パークの惨事」。
1961年、福岡県香春町の上清炭鉱火災。
1967年、トランス・ワールド航空553便の空中衝突事故。
1977年、ワシントンD.C.での人質事件。

それぞれに無数の人生があり、日常があった。歴史の年表では一行でも、当事者にとってはかけがえのない時間だった。

こうして見ると、3月9日は「人間の選択」が濃く刻まれた日だと感じる。
自由を求めて立ち上がる選択。
理想のために危険を引き受ける選択。
不運な事故や暴力によって断ち切られた未来。

歴史は大きな流れのように見えるが、その一瞬一瞬は、名もなき誰かの恐怖や決意、祈りでできている。

3月9日は、春の足音が近づく頃。
寒さが緩み、光が少し柔らぐ季節に、私たちはふと未来を考える。自由とは何か。守るべきものは何か。自分はどんな選択をするのか。

遠い海で鎖を断ち切った人々も、京都の宿で銃を握った志士も、皆「生きる意味」を懸命に探していた。

歴史の中の3月9日は、静かに問いかけている。
あなたは、何のために立ち上がりますか、と。