kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日3月6日 1948菊池寛死去、ほか写真wikipedia中国戦線作家部隊当人右2人目

3月6日

20260306金曜日旧暦1月18日赤口(16番己卯つちのとうキボウ)月齢 16.6

丙午ひのえま年 辛卯かのとう月 己卯つちのとう日 年末まであと300日

吉方位 陽遁日 己卯つちのとう日

https://ja.wikipedia.org/wiki/3%E6%9C%886%E6%97%A5

3月6日の出来事
1821年 – ギリシャ独立戦争が始まる。

時             1821年2月21日 – 1829年9月12日

(8年6ヶ月3週間)

場所        オスマン帝国領ギリシャ(現在のギリシャ)

結果        ギリシャの勝利[# 1]

領土の

変化       

ギリシャの独立

損害:合計死傷者数240,000人以上

ペロポネソス半島、サロニカ諸島、キクラデス諸島、スポラデス、大陸ギリシャがギリシャに割譲 クレタ島がエジプトに割譲

1836年 – テキサス革命: アラモの砦が陥落し、アラモの戦いが終結。メキシコ軍がテキサス分離独立派に勝利。

戦争:テキサス革命(対メキシコ)

年月日:1836年2月23日 – 3月6日

場所:テキサス州サンアントニオ

結果:メキシコ軍の辛勝

損害:メキシコ政府軍 1600人中 400人戦死 アラモ砦軍250人 全員戦死
1943年 – 布袋座火災: 北海道虻田郡倶知安町で映画会開催中に火災が発生、208人が死亡。

1948年 – 菊池寛[8]、小説家(* 1888年)享年60歳。
1975年 – ケネディ大統領暗殺事件を撮影した8ミリフィルム「ザプルーダー・フィルム」が初めてテレビ放映される。

2001年 – 室蘭女子高生失踪事件が発生。事件から23年が経過した2024年時点でも未解決事件となっている[7]。
2002年 – 北九州監禁殺人事件で、事件発覚の発端となる少女の監禁事件が明るみに出る。事件化された死亡者は7人。

2019年 – 金融商品取引法違反などの罪で逮捕された日産自動車の前会長カルロス・ゴーン被告が、保釈保証金10億円を納付し、東京拘置所から保釈された。

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1821年 – ギリシャ独立戦争が始まる。

時             1821年2月21日 – 1829年9月12日

(8年6ヶ月3週間)

場所        オスマン帝国領ギリシャ(現在のギリシャ)

結果        ギリシャの勝利[# 1]

領土の

変化       

ギリシャの独立

損害:合計死傷者数240,000人以上

ペロポネソス半島、サロニカ諸島、キクラデス諸島、スポラデス、大陸ギリシャがギリシャに割譲 クレタ島がエジプトに割譲

1836年 – テキサス革命: アラモの砦が陥落し、アラモの戦いが終結。メキシコ軍がテキサス分離独立派に勝利。

戦争:テキサス革命(対メキシコ)

年月日:1836年2月23日 – 3月6日

場所:テキサス州サンアントニオ

結果:メキシコ軍の辛勝

損害:メキシコ政府軍 1600人中 400人戦死 アラモ砦軍250人 全員戦死

1943年 – 布袋座火災: 北海道虻田郡倶知安町で映画会開催中に火災が発生、208人が死亡。
布袋座火災(ほていざかさい)は、1943年(昭和18年)3月6日に北海道虻田郡倶知安町にあった映画館「布袋座」で発生した火災である。死者208名を出す惨事となり、単独の火災では日本史上最悪の水準である。

1948年 – 菊池寛[8]、小説家(* 1888年)享年60歳。

菊池 寛(きくち かん、旧字体:菊池 寬、1888年〈明治21年〉12月26日 – 1948年〈昭和23年〉3月6日)は、日本の小説家、劇作家、ジャーナリスト。本名:菊池 寛(きくち ひろし)。実業家としても文藝春秋社を興し、芥川賞、直木賞、菊池寛賞の創設に携わった。帝国芸術院会員。

生家は高松藩の儒学者の家柄。幼少期より旺盛な読書家であった。京大英文科卒。芥川龍之介などの『新思潮』に参加。

著作に『屋上の狂人』(1916年)、『父帰る』(1917年)などの戯曲のほか、『忠直卿行状記』(1918年)、『藤十郎の恋』(1919年)(のち脚色)などの小説がある。人生観や思想を基盤とした明快な主題を打ち出した、いわゆるテーマ小説が特徴である。『真珠夫人』(1920年)のヒット後は通俗小説で健筆を揮った。

公職追放、急死

終戦後の1947年(昭和22年)、GHQから寛に公職追放の指令が下される。日本の「侵略戦争」に文藝春秋が指導的立場をとったというのが理由だった。寛は「戦争になれば国のために全力を尽くすのが国民の務めだ。いったい、僕のどこが悪いのだ。」と憤った[22]。その年の暮れには横光利一が死去。翌年1948年(昭和23年)1月、苦難を共にした、元文藝春秋社専務の鈴木氏亨が急逝。気力の衰えた寛は、2月に胃腸障害で寝込む。回復すると3月6日に近親者や主治医を雑司が谷の自宅に集め、全快祝いを行ったが、好物の寿司などを食べたあと、2階へ上がったとたん狭心症を起こし、午後9時15分、急死。享年59歳。息子を呼ぶ「英樹、英樹」が最期の言葉だった[23][24][25]。その際、夫人の手を握りしめていたという[26]。

告別式は音羽の護国寺で行われた。葬儀委員長は久米正雄。参列者7千人の中には当時首相だった芦田均もいた。家族が発見した寛の遺書が当日公表された。

私は、させる才分なくして、文名を成し、一生を大過なく暮しました。多幸だつたと思ひます。死去に際し、知友及び多年の読者各位にあつくお礼を申します。ただ国家の隆昌を祈るのみ。

— 吉月吉日 菊池寛

エピソウド

・1977年(昭和52年)9月の座談会「戦争と人と文学」(平凡社『太陽』第174号)における巖谷大四や井伏鱒二の発言によると、菊池は着衣のあらゆるポケットにクシャクシャの紙幣を入れており、貧乏な文士に金を無心されるとそれを無造作に出して、1円当たる人もいれば5円当たる人もいたという。菊池と旅先で出会った井伏と尾崎士郎は、「金ならあります」と言っているのに「金がないんだろう、金やろう」と紙幣を押しつけられそうになった。

・両性愛者の傾向があった。

旧制中学時代に4級下の下級生の渋谷彰に同性愛的思慕を持っていた。この渋谷に宛てた愛の手紙が多数現存する[39]。2人の文通はその後も続き、菊池が京大卒業後も文通はあるが、この頃は渋谷へ翻訳の仕事を与えようとするなど通常の手紙になってきている[40]。

また、正妻以外に多数の愛人を持ち、その内の1人に小森和子がいた。小森はあまりに易々と菊池に体を許そうとしため、菊池から「女性的な慎みがない」と非難されたという。
1975年 – ケネディ大統領暗殺事件を撮影した8ミリフィルム「ザプルーダー・フィルム」が初めてテレビ放映される。


2001年 – 室蘭女子高生失踪事件が発生。事件から23年が経過した2024年時点でも未解決事件となっている[7]。
2002年 – 北九州監禁殺人事件で、事件発覚の発端となる少女の監禁事件が明るみに出る。事件化された死亡者は7人。
2019年 – 金融商品取引法違反などの罪で逮捕された日産自動車の前会長カルロス・ゴーン被告が、保釈保証金10億円を納付し、東京拘置所から保釈された。

チャットgpt先生の3月6日のエッセイ

3月6日という日 ― 炎と独立、そして映像の記憶

3月6日は、歴史のなかで「終わり」と「始まり」が交錯する日だ。

1821年、この日をもって始まったとされるギリシャ独立戦争。長くオスマン帝国の支配下にあったギリシャの人々が、独立を求めて立ち上がった。8年半に及ぶ戦いは多大な犠牲を払いながらも、最終的にギリシャの独立というかたちで結実する。独立とは、地図の上に線を引き直すことではなく、人々が「自分たちの物語」を取り戻すことなのだと、この戦争は語りかけてくる。

同じく3月6日、1836年。アラモの戦いが終結する。舞台はサンアントニオ。テキサス革命のさなか、アラモ砦は陥落し、守備側は全滅した。戦術的には敗北。しかし「アラモを忘れるな」という言葉が象徴するように、その敗北は後の勝利への精神的支柱となった。歴史には、勝敗とは別の次元で意味を持つ瞬間がある。散っていった命が、後世の人々の決意を形づくることもある。

だが3月6日は、戦場だけの日ではない。

1943年、北海道倶知安町で起きた布袋座火災。映画上映中の火災で208人が亡くなった。娯楽の場が一瞬で惨事へと変わる。戦時下という時代背景もあり、十分な安全対策が難しかった現実もあっただろう。華やかなスクリーンの裏で、多くの家族の日常が断ち切られたことを思うと、歴史の数字の重さに言葉を失う。

1948年のこの日には、作家菊池寛が世を去った。『真珠夫人』などの大衆小説で一時代を築き、文藝春秋社を興し、芥川賞・直木賞の創設にも関わった人物である。戦後、公職追放を受け、不遇のなかでの急逝だった。彼は遺書に「多幸だったと思う」と記したという。激動の時代を生き、毀誉褒貶を受けながらも、自らの人生を「多幸」と総括したその言葉には、作家としての矜持と覚悟がにじむ。

1975年には、ケネディ大統領暗殺事件を記録したザプルーダー・フィルムが初めてテレビ放映された。事件から12年。白黒の粒子の荒い映像は、国家的悲劇を「目撃可能なもの」に変えた。映像はときに歴史を固定し、ときに議論を再燃させる。私たちは映像を通して過去を見るが、同時にその映像に、現在の価値観や疑問を映し出してもいる。

さらに2000年代に入っても、3月6日は重い出来事と結びついている。未解決の室蘭女子高生失踪事件、そして凄惨な北九州監禁殺人事件。歴史は遠い過去の戦争だけでなく、今なお解決されない痛みや、記憶のなかで問い続けられる事件によっても形づくられる。

そして2019年、日産自動車前会長のカルロス・ゴーンが保釈されたニュースもまた、グローバル企業と司法、権力と責任をめぐる現代的な物語として記憶される。

こうして眺めると、3月6日は「自由を求める日」であると同時に、「記憶を問い直す日」でもあるように思える。独立を求めた民衆、砦に立てこもった兵士、炎に包まれた観客、筆を握り続けた作家、フィルムを回し続けた市民。彼らは皆、それぞれの立場で時代の只中にいた。

歴史は特別な誰かだけが動かすのではない。無数の選択と偶然、勇気と過ちが折り重なって、今日という一日を形づくっている。

3月6日。
それは、失われた命に黙祷しつつ、それでもなお人が自由や真実を求め続けることを思い出させる日である。