kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日3月6日 1948菊池寛死去、ほか写真wikipedia中国戦線作家部隊当人右2人目

3月6日
20250207木曜日旧暦2月7日友引(甲戌きのえいぬコウジュツ)月齢 6
乙巳きのとみ年己卯つちのとう月甲戌きのえいぬ日 年末まであと300日
吉方位 陽遁日
https://ja.wikipedia.org/wiki/3%E6%9C%886%E6%97%A5
3月6日の出来事
1943年 – 布袋座火災: 北海道虻田郡倶知安町で映画会開催中に火災が発生、208人が死亡。
1948年 – 菊池寛[8]、小説家(* 1888年)享年60歳。
1975年 – ケネディ大統領暗殺事件を撮影した8ミリフィルム「ザプルーダー・フィルム」が初めてテレビ放映される。
2001年 – 室蘭女子高生失踪事件が発生。事件から23年が経過した2024年時点でも未解決事件となっている[7]。
2002年 – 北九州監禁殺人事件で、事件発覚の発端となる少女の監禁事件が明るみに出る。事件化された死亡者は7人。

2019年 – 金融商品取引法違反などの罪で逮捕された日産自動車の前会長カルロス・ゴーン被告が、保釈保証金10億円を納付し、東京拘置所から保釈された。

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1943年 – 布袋座火災: 北海道虻田郡倶知安町で映画会開催中に火災が発生、208人が死亡。
布袋座火災(ほていざかさい)は、1943年(昭和18年)3月6日に北海道虻田郡倶知安町にあった映画館「布袋座」で発生した火災である。死者208名を出す惨事となり、単独の火災では日本史上最悪の水準である。

1948年 – 菊池寛[8]、小説家(* 1888年)享年60歳。

菊池 寛(きくち かん、旧字体:菊池 寬、1888年〈明治21年〉12月26日 – 1948年〈昭和23年〉3月6日)は、日本の小説家、劇作家、ジャーナリスト。本名:菊池 寛(きくち ひろし)。実業家としても文藝春秋社を興し、芥川賞、直木賞、菊池寛賞の創設に携わった。帝国芸術院会員。

生家は高松藩の儒学者の家柄。幼少期より旺盛な読書家であった。京大英文科卒。芥川龍之介などの『新思潮』に参加。

著作に『屋上の狂人』(1916年)、『父帰る』(1917年)などの戯曲のほか、『忠直卿行状記』(1918年)、『藤十郎の恋』(1919年)(のち脚色)などの小説がある。人生観や思想を基盤とした明快な主題を打ち出した、いわゆるテーマ小説が特徴である。『真珠夫人』(1920年)のヒット後は通俗小説で健筆を揮った。

公職追放、急死

終戦後の1947年(昭和22年)、GHQから寛に公職追放の指令が下される。日本の「侵略戦争」に文藝春秋が指導的立場をとったというのが理由だった。寛は「戦争になれば国のために全力を尽くすのが国民の務めだ。いったい、僕のどこが悪いのだ。」と憤った[22]。その年の暮れには横光利一が死去。翌年1948年(昭和23年)1月、苦難を共にした、元文藝春秋社専務の鈴木氏亨が急逝。気力の衰えた寛は、2月に胃腸障害で寝込む。回復すると3月6日に近親者や主治医を雑司が谷の自宅に集め、全快祝いを行ったが、好物の寿司などを食べたあと、2階へ上がったとたん狭心症を起こし、午後9時15分、急死。享年59歳。息子を呼ぶ「英樹、英樹」が最期の言葉だった[23][24][25]。その際、夫人の手を握りしめていたという[26]。

告別式は音羽の護国寺で行われた。葬儀委員長は久米正雄。参列者7千人の中には当時首相だった芦田均もいた。家族が発見した寛の遺書が当日公表された。

私は、させる才分なくして、文名を成し、一生を大過なく暮しました。多幸だつたと思ひます。死去に際し、知友及び多年の読者各位にあつくお礼を申します。ただ国家の隆昌を祈るのみ。

— 吉月吉日 菊池寛

エピソウド

・1977年(昭和52年)9月の座談会「戦争と人と文学」(平凡社『太陽』第174号)における巖谷大四や井伏鱒二の発言によると、菊池は着衣のあらゆるポケットにクシャクシャの紙幣を入れており、貧乏な文士に金を無心されるとそれを無造作に出して、1円当たる人もいれば5円当たる人もいたという。菊池と旅先で出会った井伏と尾崎士郎は、「金ならあります」と言っているのに「金がないんだろう、金やろう」と紙幣を押しつけられそうになった。

・両性愛者の傾向があった。

旧制中学時代に4級下の下級生の渋谷彰に同性愛的思慕を持っていた。この渋谷に宛てた愛の手紙が多数現存する[39]。2人の文通はその後も続き、菊池が京大卒業後も文通はあるが、この頃は渋谷へ翻訳の仕事を与えようとするなど通常の手紙になってきている[40]。

また、正妻以外に多数の愛人を持ち、その内の1人に小森和子がいた。小森はあまりに易々と菊池に体を許そうとしため、菊池から「女性的な慎みがない」と非難されたという。
1975年 – ケネディ大統領暗殺事件を撮影した8ミリフィルム「ザプルーダー・フィルム」が初めてテレビ放映される。
2001年 – 室蘭女子高生失踪事件が発生。事件から23年が経過した2024年時点でも未解決事件となっている[7]。
2002年 – 北九州監禁殺人事件で、事件発覚の発端となる少女の監禁事件が明るみに出る。事件化された死亡者は7人。
2019年 – 金融商品取引法違反などの罪で逮捕された日産自動車の前会長カルロス・ゴーン被告が、保釈保証金10億円を納付し、東京拘置所から保釈された。
チャットgpt先生の3月6日のエッセイ
3月6日という日は、歴史の中でさまざまな出来事が刻まれてきた。

1943年のこの日、北海道虻田郡倶知安町にあった映画館「布袋座」で大規模な火災が発生し、208人が亡くなった。映画という娯楽を楽しむはずの人々が、一瞬にして悲劇に巻き込まれたことを思うと、運命の無常さを感じずにはいられない。

また、この日は日本文学史においても重要な意味を持つ日である。1948年、作家・菊池寛が急逝した。文藝春秋を創設し、芥川賞や直木賞を立ち上げた彼の功績は計り知れない。文壇の支柱として活躍しながらも、戦後は公職追放を受けるなど、その人生は波乱に満ちていた。彼の最期の言葉が「英樹、英樹」と息子の名を呼ぶものだったというのは、偉大な文豪であっても家族を想う心は変わらなかったことを示している。

この日には、歴史を揺るがす映像も世に出た。1975年、ケネディ大統領暗殺事件を記録した「ザプルーダー・フィルム」が初めてテレビ放映された。この映像は、世界の人々に衝撃を与え、真実とは何か、歴史とは何かを問い続けることとなる。

また、2001年には北海道で室蘭女子高生失踪事件が発生した。2024年現在も未解決のまま残るこの事件は、時間が経ってもなお真相が明らかにならないことの不条理を浮き彫りにしている。

さらに、2002年には北九州監禁殺人事件の一端が明るみに出た。この事件では計7人の死亡が確認され、日本社会に大きな衝撃を与えた。人間の心の闇と、それがどれほど残虐な形で表れることがあるのかを思い知らされる。

歴史を振り返ると、3月6日は多くの痛ましい事件や悲劇が刻まれている日である。しかし、同時に菊池寛のように文学や文化に貢献した人々の足跡も残っている。悲劇と偉業が交錯するこの日に、私たちは過去を振り返りながら、未来に何を残せるのかを考えるべきなのかもしれない。