kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日3月5日 1966BOAC機空中分解事故、ほか写真wikipedia1962事故機

3月5日
20250305水曜日旧暦2月6日先勝(癸酉みずのととりキユウ)月齢 5
乙巳きのとみ年己卯つちのとう月癸酉みずのととり日  年末まであと301日
吉方位 陽遁日
https://ja.wikipedia.org/wiki/3%E6%9C%885%E6%97%A5
3月5日の出来事
741年(天平13年2月14日) – 聖武天皇が国分寺・国分尼寺建立の詔を出す[1]。
1929年 – 治安維持法に反対していた山本宣治・元衆議院議員が右翼団体「七生義団」の黒田保久二により刺殺される。
1933年 – ドイツ国会1933年選挙。ナチ党・国家人民党の与党が過半数を獲得。
1940年 – 米坂線雪崩直撃事故: 国鉄米坂線で荒川橋梁が雪崩に遭い橋桁が落橋。雪崩直後に通過した列車が荒川に転落し、乗客15名が死亡、30名が負傷した。
1966年 – BOAC機空中分解事故: 英国海外航空911便(ボーイング707 G-APFE)が富士山上空で山岳波により空中分解。乗員・乗客124名全員が死亡した[7]。
1992年 – 市川一家4人殺害事件: 千葉県市川市行徳のマンションに、当時19歳の少年が窃盗目的で侵入する。少年は翌6日に逮捕されるまでの間に、同室の住民である一家4人を殺害した。

2022年 – 栃木県那須町にある「殺生石」が経年のひびにより2つに割れる[17]。

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741年(天平13年2月14日) – 聖武天皇が国分寺・国分尼寺建立の詔を出す[1]。

備考
仏教政策について
飯沼賢司は聖武天皇およびそれ以降の仏教政策について以下のように解説した。

聖武天皇の治世の前期、行基を中心とする集団が弾圧されたが、当時の朝廷は仏教は天皇やその周辺の支配層のためのものだという考え方があり、その政策の基調を作ったのが天皇の外祖父で光明皇后の実父でもある藤原不比等であった。ところが、聖武天皇は次第に行基や知識の活動に関心を抱き始め、河内の知識寺訪問や行基との対面を得て、紫香楽宮での大仏造立を決意した。しかし、行基集団や知識の力を借りて民衆を巻き込んだ大仏造立を進める天皇と、国分寺や国分尼寺建立政策などを通じて父・不比等の路線を継承した皇后の間に、次第に仏教観を巡る対立が生まれ、最終的に国分寺の総本山である奈良の東大寺で大仏が造立された(飯沼は、光明皇后の念頭にあったのは唐の則天武后が国家主導で造立した奉先寺の大仏であったとする)。天皇と皇后の仏教観の対立は、行基亡き後に僧綱の中心にあった行信の配流事件や朝廷の政治的対立にも影響を与え、やがて皇后の甥にあたる藤原仲麻呂が政権を取ったことで皇后側の優位に終わったかと思われた。だが、天皇と皇后の娘であった孝謙天皇(後に称徳天皇)は両親の死後に弓削道鏡の補佐を受けて父・聖武の路線を継ぐことを明確にし、窮地に立った仲麻呂は藤原仲麻呂の乱で滅亡する。そして、優れた仏教者・菩薩であれば、身分を越えて国王になれるという国家観に辿り着いた称徳天皇は、道鏡を皇位につけるべく宇佐八幡宮神託事件を引き起こしてしまう。その後、桓武天皇が平安遷都による仏教勢力の影響力排除や最澄・空海の庇護、一連の対立に関わった八幡神の神仏習合の推進(八幡大菩薩の誕生)を行うことで、聖武天皇の鎮魂と共に事態の収拾にあたったとする[10]。

1929年 – 治安維持法に反対していた山本宣治・元衆議院議員が右翼団体「七生義団」の黒田保久二により刺殺される。
山本宣治
生年月日 1889年5月28日
出生地 日本の旗 日本・京都府京都市[1]
没年月日 1929年3月5日(39歳没)
死没地 日本の旗 日本・東京府東京市神田区
出身校 東京帝国大学理学部動物学科卒業[1]
前職 大学講師 所属政党 (労働農民党→)日本共産党 配偶者 山本千代
黒田
黒田は獄中で、「共産主義者を殺すのだから、もちろん無罪で、十万円もらえるということだったのに、こんなところにぶちこまれてしまった」とこぼしていたという(報酬については別の発言もある。後述)。つまり山本暗殺の実行犯である黒田の背後に、黒幕がいたということである。警視庁の有松は、黒田ら七生義団の団員と面識があり、酒席を共にしたこともあった。そのため、有松自身が黒幕の一人であったとも指摘されている。ちなみに、松阪検事は山本と面識があった。

黒田は6年の服役で、残余の刑を免除され出所した。これは殺人犯としては異例の厚遇であった。黒幕であった人物を頼ろうとしたが、相手にされなかった。その後朝鮮から満州に渡り、特務機関などで働いていた。

日本が第二次世界大戦に敗北すると引き揚げ、七生義団に戻り、その本部がある門司で、続いて小倉で日雇い生活をしていた。労働組合は、全日自労建設農林一般労働組合(建設一般、現在の建交労)に加入していた。同僚の組合員は元町長や植民地の警察部長などがおり、「よき日」の思い出に花を咲かせていたが、黒田は過去を聞かれても黙して語らず、ただある時「わしは人に言えんことをしているから」と答えた。瀬川負太郎によれば、1952年ころ、脳梅毒で精神病院に入院していた黒田に、人づてに質問したところ、黒幕は戦後代議士になった「えらい人」であったと示唆していたという。それによれば、150円と「いい身分」を成功報酬として約束されたが、逮捕後は1度面会に来ただけで、その後は相手にされなかったと答えたという。山本の研究者・本庄豊によれば、警察組織は右翼テロにも警戒していたから、直接山本暗殺を企図したわけではないと推測している。その上で、戦後に国会議員となった元特別高等警察官僚54人の中から、山本に対し「特別の反感や怒り」を抱いた人物を絞り込んだ結果、大久保留次郎が黒幕ではないかと結論づけている。

その後まもなく、精神病院で死去したという。
1933年 – ドイツ国会1933年選挙。ナチ党・国家人民党の与党が過半数を獲得。
1940年 – 米坂線雪崩直撃事故: 国鉄米坂線で荒川橋梁が雪崩に遭い橋桁が落橋。雪崩直後に通過した列車が荒川に転落し、乗客15名が死亡、30名が負傷した。

1966年 – BOAC機空中分解事故: 英国海外航空911便(ボーイング707 G-APFE)が富士山上空で山岳波により空中分解。乗員・乗客124名全員が死亡した[7]。

英国海外航空機空中分解事故(えいこくかいがいこうくうきくうちゅうぶんかいじこ)は、1966年(昭和41年)3月5日に英国海外航空(BOAC-British Overseas Airways Corporation、現ブリティッシュ・エアウェイズ)のボーイング707型機が富士山付近の上空で乱気流に巻き込まれ空中分解し墜落した航空事故である。

1992年 – 市川一家4人殺害事件: 千葉県市川市行徳のマンションに、当時19歳の少年が窃盗目的で侵入する。少年は翌6日に逮捕されるまでの間に、同室の住民である一家4人を殺害した。
2022年 – 栃木県那須町にある「殺生石」が経年のひびにより2つに割れる[17]。

チャットgpt先生の3月5日のエッセイ
3月5日という日は、日本や世界の歴史においてさまざまな出来事が刻まれた日である。その出来事の中には、政治的な事件や自然災害、航空事故、さらには文化や宗教に関する重要な出来事まで多岐にわたる。今日はその一部を振り返りながら、歴史の重みについて考えてみたい。

まず、741年のこの日、聖武天皇が国分寺・国分尼寺の建立を命じた。この政策の背後には、仏教を国の基盤とし、民衆を統治しようとする意図があった。しかし、その仏教観は、天皇と皇后の間で微妙に異なっていた。聖武天皇は、行基をはじめとする僧侶や民衆の力を借りて大仏建立を進めた一方で、光明皇后は唐の影響を受けた国家主導の仏教政策を推進した。この対立は、やがて後の天皇の治世にも影響を与え、宗教と政治が密接に絡み合う時代を形作っていった。

また、1929年には、治安維持法に反対していた元衆議院議員の山本宣治が右翼団体によって暗殺される事件が起こった。彼は社会主義運動を支持し、労働者や農民の権利向上に尽力したが、その思想を危険視した勢力によって命を奪われた。この事件は、当時の日本における言論の自由や政治的弾圧の現実を示しており、現代においても、異なる意見を尊重し合う社会の重要性を考えさせられる。

さらに、1966年には英国海外航空911便が富士山上空で空中分解し、乗員乗客124名が死亡する悲劇が起こった。この事故は、山岳波という自然現象が航空機に与える影響を改めて浮き彫りにし、航空安全の分野において貴重な教訓となった。

また、2022年には、栃木県那須町の「殺生石」が自然の経年劣化によって二つに割れた。伝説によれば、この石には妖狐・玉藻前の怨念が宿っているとされ、その割れた姿は新たな時代の始まりを象徴するかのようだった。科学的には単なる風化現象だが、古くからの伝説が息づく日本では、こうした出来事が歴史や文化と結びつき、特別な意味を持つことも少なくない。

こうして3月5日の出来事を振り返ると、宗教、政治、自然、文化といったさまざまな要素が絡み合い、歴史を形成してきたことがわかる。それぞれの出来事が持つ意味を考えることで、私たちは過去から学び、未来へと生かしていくことができるのではないだろうか。