3月31日
20260331火曜日旧暦2月13日友引(41番甲辰きのえたつコウシン)月齢 12
丙午ひのえうま年 辛卯かのとう月 甲辰きのえたつ日 年末まであと275日
吉方位 陽遁日 甲辰きのえたつ日 西 大吉
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3月31日の出来事
1727年 – アイザック・ニュートン、科学者(* 1643年) 84歳没。
1814年 – 1814年 – ナポレオン戦争: ウェリントン公爵率いる英国軍が、フランスの首都パリを陥落させる[1]。
第六次対仏大同盟がパリに入城し、ナポレオン戦争が終結、ナポレオンが捕えられる。年月日:1803年 – 1815年 場所:ヨーロッパ、大西洋、ラプラタ川、フランス領ギアナ、インド洋、北アメリカ 結果:対仏大同盟側の勝利 ウィーン会議の開催。ウィーン体制の成立 フランス第一帝政の終焉。復古王政の始まり 損害:300万人から600万人とされる。
1877年 – 西南戦争: 大分県中津で西郷軍に呼応した士族が叛乱。年月日:1877年1月29日 – 1877年9月24日 場所:熊本県、宮崎県、大分県、鹿児島県 結果: 明治政府(新政府軍)の勝利 損害:明治政府軍 10万人中 戦死6400人 私学校軍 3万人中 戦死4800人。
1944年 – 第二次世界大戦: 海軍乙事件で古賀峯一日本海軍元帥が殉職。(*思考実験にて海軍甲事件も乙事件もロンメル死事件の可能性ある故に記す)
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1727年 – アイザック・ニュートン、科学者(* 1643年) 84歳没。
サー・アイザック・ニュートン(英: Sir Isaac Newton、ユリウス暦:1642年12月25日 – 1727年3月20日[注 1])はイングランドの自然哲学者、数学者、物理学者、天文学者、神学者である。主な研究業績としては、現在「ニュートン力学」とも称される古典力学や微積分法の創始があげられる。物質にはたらく力として万有引力の考え方を提唱し、これは天文学を含む古典力学において長く中核的な役割を果たすことになった。現在の国際単位系 (SI)における力の計量単位であるニュートン(英: newton[注 2]、記号: N)は彼の名に因む。また、光学の発展にも貢献した。
アリストテレス以来のスコラ学の運動理論や自然観は思弁的で、言葉で論ずるばかりで実験を行わず運動の定式化(数式化)も行われておらず、その状態はジャン・ビュリダンの14世紀のインペタス理論やデカルトが17世紀に刊行した自然哲学の教科書的な書物『哲学原理』で公表した渦動説でも同様であった。先人ガリレオ・ガリレイが実験を行い、位置・速度・時間など量と量の関係を数式を用いて定式化(en:Formulation)することに成功し自然哲学を一歩前進させたものの、まだ「月下界」(地球上)と「天界」を別の世界と考え別々の理論で説明するという過ちを犯す状態にとどまっていた。ニュートンは同時代人のロバート・フックと競争しつつ、天界でも地球上でも「同一の力」(万有引力)が働いて運動しているにすぎないと見抜き、宇宙全体を「ひとつの法則」や「ひとつの数式」で統一的に説明する理論体系を築き、近代科学へと繋がる道を示した。
また造幣局長等にも任じられ、通貨偽造犯を逮捕・処刑するために辣腕をふるい、イギリスの通貨を護り、1717年にはニュートン比価および兌換率を定めた。これはナポレオン戦争による兌換停止を経た後も、1821年5月にイングランド銀行により再開された。
生前に公開されていた活動ではないが、ニュートンは個人的には錬金術などの研究も行い、当時のイギリスでは異端とされる聖書解釈も独りで熱心に探求した人物であり、20世紀後半ころからは「最後の魔術師」と評されたり、ケインズからは「片足は中世に置き、片足は近代科学への途を踏んでいる」[1]と評されている人物である。
1814年 –1814年 – ナポレオン戦争: ウェリントン公爵率いる英国軍が、フランスの首都パリを陥落させる[1]。
第六次対仏大同盟がパリに入城し、ナポレオン戦争が終結、ナポレオンが捕えられる。年月日:1803年 – 1815年 場所:ヨーロッパ、大西洋、ラプラタ川、フランス領ギアナ、インド洋、北アメリカ 結果:対仏大同盟側の勝利 ウィーン会議の開催。ウィーン体制の成立 フランス第一帝政の終焉。復古王政の始まり 損害:300万人から600万人とされる。
概要
ナポレオン戦争はフランス革命戦争後の混乱期に始まった。フランス軍を率いたナポレオンは一時期ヨーロッパの大半を征服したが、スペイン独立戦争とロシア遠征で敗退し、ワーテルローの戦いにおいて決定的敗北を喫した。1815年11月20日の第二次パリ条約の締結をもって戦争は終結し、ナポレオンは失脚した。
1792年に開始されたフランス革命戦争から断続的に戦争状態が続いていたため、一連の戦争を合わせて大フランス戦争(だいフランスせんそう、Great French War)とも呼ぶ。ドイツでは対仏大同盟戦争(たいふつだいどうめいせんそう、Koalitionskriege)、1813年以降のドイツ解放の戦いを解放戦争とも呼ぶ。大同盟戦争以来100年以上にわたって続いた英仏間の対立関係を第二次百年戦争とみる見方もある。
フランス革命戦争とナポレオン戦争との間をどこで区切るかについては、1803年5月のアミアンの和約の破棄を境界とする見方が一般的ではあるが、他にも1796年3月のナポレオンによる第一次イタリア遠征の開始を境界とする見方、1799年11月のブリュメールのクーデターを境界とする見方などがある。本項目では革命戦争の途中である1796年3月以降の戦役について述べる。
ナポレオン戦争ではヨーロッパ大陸に加えて世界各地の植民地も戦場となった。このため七年戦争に続く2度目の「世界大戦[要曖昧さ回避]」であると言われる場合もある。
1877年 – 西南戦争: 大分県中津で西郷軍に呼応した士族が叛乱。年月日:1877年1月29日 – 1877年9月24日 場所:熊本県、宮崎県、大分県、鹿児島県 結果: 明治政府(新政府軍)の勝利 損害:明治政府軍 10万人中 戦死6400人 私学校軍 3万人中 戦死4800人。
概要
西南戦争は1877年(明治10年)1月に勃発し、官軍に鎮圧され同年9月に西郷が自決して終結した[3][4][5]。
西郷隆盛は征韓論に敗れると参議を辞し、1873年(明治6年)10月に鹿児島へ帰郷したが、これに従って桐野利秋、篠原国幹、別府晋介ら鹿児島出身の官僚や軍人約600人も帰郷した[3][6]。鹿児島では将来の一大事に備えて集まる場所がほしい、あるいは将来のために学校を設けて教育をしたいという要望があり、西郷の了承を得て1874年(明治7年)6月に鹿児島城厩跡に私学校が設立されたが、学校といっても銃隊学校と砲隊学校からなる士族向けの兵学校であった[3]。
一方、秩禄処分や廃刀令への士族の不満は大きく、1876年(明治9年)には熊本で神風連の乱、萩で萩の乱も起きていた[3]。また不景気と豊作が重なって米の値段も下落していたため、各地で農民一揆が発生していた[3]。
1877年(明治10年)1月下旬、鹿児島での反政府的な動きを心配していた新政府側は、鹿児島の草牟田の弾薬庫から弾薬等を深夜に密かに搬出したが[3]、この動きに反発した一部の私学校徒が施設を襲撃して1月29日夜から2月1日にかけて武器弾薬を奪取する事件が発生した[7]。
遊猟中の根占から帰った西郷は、私学校幹部が提案した率兵上京を承認し[3]、2月15日に西郷隆盛らの本隊(1・2番隊)総勢1万3千人が鹿児島を出発した[6][8][7]。
北上の際に通過する熊本にある熊本鎮台の司令官は谷干城が務めており、西郷は軍勢を通過できるようにしてほしいと要請したが、既に新政府側から抗戦するよう命令を受けていた谷は西郷の要請を拒否して籠城した[3][6]。新政府側は小倉から乃木希典少佐が率いる第14連隊を派遣し、2月22日には熊本城を包囲する西郷軍と一部が衝突した[8]。乃木隊は主力部隊の到着まで食料も確保できる高瀬(玉名市)まで退却していたところ、西郷軍の追撃を受けて戦闘となった(2月25日 – 2月27日、高瀬の戦い[4]、高瀬の大会戦[9])[10]。
その後、戦場は田原坂に移った[10]。熊本城の北に位置する田原坂は大型の大砲が通れる唯一の道で、政府軍はここを通る必要があった[6]。政府軍は3月3日に田原坂方面の西郷軍に攻撃を開始し、政府軍第2旅団による3月11日の田原坂総攻撃は失敗に終わったものの、3月20日には田原坂を制圧した[8](3月3日 – 3月20日、田原坂の戦い[4][9])。
他方、政府軍は長崎から海路で軍勢を熊本の南の八代に送り[3]、3月18日から3月19日にかけて上陸させ、熊本城に向かって北上し南側からも進撃した[7]。熊本城を包囲していた西郷軍は4月13日から退却を開始し、4月15日には全軍が退却を開始[8]。熊本城内には黒田清隆の率いる政府軍第1・第2旅団が入った[8]。
大分県では状況を見極めていた増田宗太郎(増田宋太郎)が、3月31日に中津士族を率いて蜂起し、中津支庁などを襲撃[8][11]。南下して大分県庁を包囲したものの失敗に終わった[8]。その後、4月6日に増田と士族の一部は中津隊として西郷軍の指揮下に入った[11]。
鹿児島では精鋭部隊が出払っており[3]、3月7日から3月17日にかけて政府軍の艦隊が鹿児島湾に入り、滝ノ上火薬製造所の火薬・製造機等を搬出・処分したため西郷軍は銃弾不足に陥った[7]。さらに4月27日から4月28日にかけて政府軍は別動第1旅団を中心とする部隊を鹿児島に上陸させ、約2カ月間の戦闘の結果、6月26日までには鹿児島城下一帯から西郷軍を撤退させ占領した[7]。
熊本城撤退後も西郷軍は熊本平野東部に約20キロの戦線を展開したが[7]、4月19日から20日にかけての城東会戦で敗退[9][7]。4月下旬に西郷軍は人吉に本営を移したが、6月1日までに人吉も陥落した(人吉攻防戦)[9][12]。一方、政府軍は大分県側からも南下しており[3]、5月20日には豊後竹田で西郷軍と政府軍とが交戦し、5月29日に西郷軍は豊後竹田から敗走した[8]。
この間、5月には佐野常民と大給恒によって博愛社(のちの日本赤十字社)が設立されている[9]。
6月末には大隅半島で激しい戦いとなったが、7月24日に都城が陥落したため北に敗走し、7月31日には宮崎からも撤退した[7]。さらに延岡も8月14日に政府軍によって占拠され、西郷軍は8月15日には延岡市の北方で包囲された[7]。そのため8月16日に西郷の指示により解散令が出され[4][8]、党薩諸隊は相次いで降伏した[12]。
8月18日、西郷ら300人(軍夫等を合わせると400人)の軍勢が可愛岳を突破して政府軍の包囲網を破り、9月1日に鹿児島の城山を急襲して立て籠もった[7][12]。
河野主一郎と山野田一輔が西郷の助命のため山を下り、9月23日に政府軍の川村参軍と会見[7]。同日午後5時までに投降するよう山野田に伝えて返したが、西郷は「回答の要なし」と告げた[7]。9月24日午前4時に総攻撃が開始され、西郷は自刃し、別府晋介により介錯された[7]。村田新八や辺見十郎太らは岩崎口の堡塁で奮戦していたが、午前7時には陥落して戦争は終結した[7]。
1944年 – 第二次世界大戦: 海軍乙事件で古賀峯一日本海軍元帥が殉職。(*思考実験にて海軍甲事件も乙事件もロンメル死事件の可能性ある故に記す)
チャットgpt先生の3月31日のエッセイ
3月31日という日は、歴史の中で「終わり」と「転換」が静かに重なり合う日である。
まず思い浮かぶのは、1727年に亡くなったアイザック・ニュートンだろう。彼の死は、一人の偉人の最期という以上に、一つの時代の区切りを象徴している。ニュートンは、それまで言葉や思弁に頼っていた自然理解を、数式と実験によって統一した。天と地を同じ法則で説明するという発想は、世界を分断していた見方を根底から覆し、「世界は一つの秩序で動いている」という近代の感覚を生み出した。彼の死は、その新しい世界観が確立された後の静かな幕引きでもあった。
それから約一世紀後、1814年の3月31日。ナポレオン戦争の中で、連合軍がパリに入城し、時代の覇者だったナポレオン・ボナパルトの支配が崩れ始める。革命の理想と軍事的才能によってヨーロッパを席巻した人物も、やがて歴史の大きな流れの中で押し戻される。ここでもまた、一つの時代が終わり、ウィーン体制という新しい秩序が生まれる。人間の意志と野心がどれほど強くても、歴史は常に再編され続けることを示している。
さらに1877年、日本では西南戦争のさなか、大分で士族の蜂起が起こる。中心にいた西郷隆盛は、維新を成し遂げた側でありながら、新しい時代の中で居場所を失っていった人物でもある。ここには、革命の担い手が次の時代に適応できず、逆に抗う側に回るという歴史の皮肉がある。近代国家の形成は、理想だけではなく、痛みと断絶を伴って進んでいった。
そして1944年、太平洋戦争の中で起きた海軍乙事件により、古賀峯一が命を落とす。巨大な戦争の中では、個人の意思や能力を超えたところで運命が決まっていく。ここでもまた、「終わり」が次の局面への移行として現れている。
こうして並べてみると、3月31日は単なる年度末というだけでなく、「一区切り」の象徴のような日であることに気づく。科学の時代の確立、帝国の崩壊、近代国家の痛み、そして戦争の転換点。いずれも、何かが終わり、その終わりが次の始まりを準備している。
私たちの日常でも、3月31日は多くの場合、区切りの日だ。仕事や学業、生活の節目として「終わり」を意識する。しかし歴史を振り返ると、その終わりは決して消滅ではなく、次の構造への移行にすぎない。ニュートンの死後も科学は発展し、ナポレオンの失脚後もヨーロッパは再編され、西郷の敗北の後に日本は近代国家として形を整えていった。
終わりとは、静かな始まりの別名なのかもしれない。
だからこそ、3月31日に感じるわずかな寂しさは、同時に未来への余白でもある。歴史が何度も示してきたように、区切りの先には必ず新しい秩序や可能性が待っている。そのことを思い出させてくれる日、それが3月31日なのである。

