kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日3月30日 1941世界初のジェット戦闘機He280飛行、ほか写真wikipedia He280

3月30日
20250330日曜日旧暦3月2日仏滅(戊戌つちのえいぬボジュツ)月齢 0.6
乙巳きのとみ年己卯つちのとう月戊戌つちのえいぬ日  年末まであと276日
吉方位 陽遁日
https://ja.wikipedia.org/wiki/3%E6%9C%8830%E6%97%A5
3月30日の出来事
1492年 – アラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャ女王イサベル1世が、カトリックへの改宗にかかわらず、スペインからユダヤ人を追放することを宣言する。
1867年 – アメリカ合衆国の国務長官ウィリアム・スワードにより、アラスカを720万ドル(1エーカー・約4047平方メートル当たり2セント)でロシア帝国からアメリカ合衆国に売り渡す契約が締結される。当時は「スワードの愚行」などと呼ばれ、良い評価は受けなかった。(アラスカ購入)
1941年 – ドイツで世界初のジェット戦闘機He280が初飛行。

1949年 – 名立機雷爆発事件発生。多数の小中学生を含む63人が死亡

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1492年 – アラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャ女王イサベル1世が、カトリックへの改宗にかかわらず、スペインからユダヤ人を追放することを宣言する。
1867年 – アメリカ合衆国の国務長官ウィリアム・スワードにより、アラスカを720万ドル(1エーカー・約4047平方メートル当たり2セント)でロシア帝国からアメリカ合衆国に売り渡す契約が締結される。当時は「スワードの愚行」などと呼ばれ、良い評価は受けなかった。(アラスカ購入

3月30日午前4時にアメリカがアラスカをロシアから購入する条約が調印された[1]。購入価格は720万USドル(2016年現在の貨幣価値で1億2300万ドル[2]。1871年 円-USドルの為替が開始した時の相場は1ドル1円)で、面積単価は約2セント/エーカー(1エーカー=約4047平方メートル)だった。

購入の影響

アラスカ購入に使用された額面720万USドルの小切手[2]

この条約は4月9日にアメリカ合衆国上院で批准されたものの、当初スワードは「巨大な保冷庫を購入した」などとアメリカ国民に非難された[3][4]。

しかし、1896年にはアラスカで金鉱が発見されるなど資源の宝庫であることが判明したほか[5]、1957年に大型油田が発見されたことで州として自立することが経済的に可能とみなされ、1959年にアラスカ州となる。更に1967年末には世界屈指の巨大油田であるプルドーベイ油田が発見されている。また、軍事上においてもアラスカの位置がベーリング海峡や北極海を挟んでロシアや日本と直接国境を接することから、特に第二次世界大戦ではアッツ島を占領され、ダッチハーバーを爆撃されるなど痛手を負うが日本と、冷戦期ではソ連との間で発生した軍事衝突では極めて重要な役割を果たすなど、スワードのアラスカ購入に関する評価は上がっている[6]。

1941年 – ドイツで世界初のジェット戦闘機He280が初飛行。

概要

He280のイメージ図

He 280の三面図

ハインケル He178によってジェット機の世界初飛行を成功させたハインケル社は引き続き、世界初の実用ジェット戦闘機を目指したハインケル He 280の開発にとりかかった。機体は大型化に伴って二発のジェットエンジンHeS 8を両翼にさげたエンジンポッドに収納する形となった。武装として20mm機関砲3門を余裕のできた機首部分に装備した。

1941年3月30日、ジェット推進による初飛行に成功。

ハインケル社の自信作であったが、本機の採用を阻んだ最大の障壁はエンジンの実用化に手間取ったことにある。初期の実験飛行ではエンジンの燃料漏れによる火災を恐れたためカウリングを外して飛行した記録写真も残っている。HeS 8は推力不足と信頼性向上を一向に果たせないままであった。何より、HeS 8の稼動保証時間は実にたったの1時間に過ぎず、使い捨ても同然のエンジンであった。これでは1942年当時の空軍の評価が得られなかったのも当然と言える。(さらに、当時は戦局が広域に広がり過ぎた上に消耗戦状態にあり、得体の知れない新型機よりも一機でも多くの在来機が必要とされていた)。

ついにハインケルはHeS 8を見限ってBMW 003に、さらにその開発が滞っている状況を見てJumo 004へと搭載エンジンを切り替えた。しかし、Jumo 004は遅れて開発されたメッサーシュミット Me262にも搭載されるエンジンであった。He 280はJumo 004が実用化されるのを待ってしまったため、開発で先行していた優位を失いMe 262と直接比較されてしまうことになる。Me 262は本機よりも優れた性能を示し、本機の制式採用は見送られ、試作のみに終わった。また、空軍はハインケル社を厚遇せず、戦闘機開発に関しては特に冷遇していた点も見逃せない。

なお、機体のスタイル自体はレシプロ機と代わり映えしないが、圧縮空気による射出座席や以降のジェット機のスタンダードとなる前車輪式を試作1号機の時点ですでに備えていたなど、コンポーネント構成の面ではMe 262を圧倒しており、後の時代を先取りする機構を採用していたことは特筆に価する。

1949年 – 名立機雷爆発事件発生。多数の小中学生を含む63人が死亡

経過

太平洋戦争終結から4年後の1949年(昭和24年)3月30日、名立町小泊(こどまり)の海岸に国籍不明の機雷が漂着した。この日は、風もなく海は穏やかで、大人たちは漁と畑仕事に出かけ、代わりに集落では春休み最中の元気に遊ぶ子供たちの姿が見られた。

ドラム缶のような形状の赤黒い機雷は、岸から300メートルほどの位置に浮遊しているところを午後4時頃に出港した漁師に目撃されていたが、機雷とは認識されぬまま、しばらく漂流を続けた。波打ち際から7メートルのところにある「二つ岩」と呼ばれる岩場に迫ったところで、物体に付属する取っ手や突起物などから機雷ではないかと恐れた住民が、西頸城地区署(現糸魚川警察署)名立駐在所の巡査に通報した。駆けつけた巡査は、元海軍軍人であった自らの知識から、突起に触れると起爆する触角機雷であると判断。町の東側境界にあたる鳥ケ首岬まで運び出すことを考え、同行してきた消防団長[2]に消防団の救援を要請、近くにいた女性に機雷を船に引かせるための縄の手配を依頼した。巡査は、岩場の間際で波にかすかに動くだけとなった機雷に近づくため[3]、ズボンの裾をまくり海中に歩みだしたが[4]、そのとき機雷が大岩に接触。次の瞬間、爆発した。

この爆発により、巡査や見物人ら63人が死亡した。不幸にも、騒ぎを聞きつけた子供たちが巡査の到着とともに集まりだし、避難誘導をするための時間も人手もないまま爆発を迎えたことが人的被害を増やした。死者のうち59人が未成年者だった。損壊家屋は103棟で、うち44棟が大破した(家屋300戸が全半壊、破損家屋73戸と記述する文献あり[5])。被害は広範囲に及び、機雷の破片は300メートル離れた宗龍寺わきの畑にまで飛んだものが確認されている[6]。

原因機雷の来歴

機雷が爆発により消失したことや、警戒に当たった巡査が殉職したこともあり、事故の原因となった機雷の素性は特定できなかった。

太平洋戦争末期、新潟を含む日本各地には、アメリカ軍の「飢餓作戦」と呼ばれる機雷封鎖によりドラム缶型のMk25/36機雷多数が空中投下されており、アメリカ軍の機雷と推定する見方が多い。他方、日本海軍が防御用に敷設したまま掃海不能となっていた大深度係維式機雷が、老朽化のため係留ケーブルが切断して浮上流出するようになっており、本件の機雷もその一つとする見方がある[11]。さらに、1949年には、ソビエト連邦製の係維式機雷が同様に浮遊することが増え、旧日本海軍のものよりも多くなりつつあった[11]。

作業用の縄を取りに行って難を逃れた女性が後日残した回想文には『色は赤黒く、形はドラム缶に似て、両端には「持つところ」がつき、中ほどには、時計のメーターのようなものが突き出ていて、メーターの針がゆれているのが見られた』とある。漂着の少し前に洋上で目撃した漁師の証言では『直径1メートルくらいの硫酸がめのような卵形。4箇所に持つところがあり黒光りしていた』という。

チャットgpt先生の3月30日のエッセイ
3月30日は、歴史の中で大きな転換点となった出来事が数多く刻まれた日である。私たちが今この日を迎えるにあたり、過去の出来事に思いを馳せ、それらがどのように現在へと影響を与えてきたのかを考えることには大きな意味がある。

1492年、アラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャ女王イサベル1世によって、スペインからユダヤ人を追放する命令が下された。この決定は宗教的な純化を目的としたものだったが、スペイン国内の多様な文化や知識の流出を招いた。ユダヤ人の多くはオスマン帝国などの地へと移り住み、そこで新たな文化の花を咲かせることになった。一国の政策がもたらす影響は、一時的なものではなく、数世紀にわたって人々の運命を左右することを示している。

1867年のこの日、アメリカはロシアからアラスカを720万ドルで購入する条約を締結した。当時、この決定は「スワードの愚行」と揶揄されたが、のちにアラスカが莫大な資源の宝庫であることが判明し、アメリカの発展に大きく寄与することとなった。この歴史は、短期的な視点では見過ごされがちな決断が、長期的には大きな価値を生むことを教えてくれる。

1941年には、ドイツで世界初のジェット戦闘機He280が初飛行した。技術革新の象徴であったこの飛行機は、のちの航空技術の発展に大きな影響を与えた。しかし、当時の戦局や技術的課題のために実用化には至らなかった。それでも、新たな技術が試行錯誤を経て進化し、次世代へと受け継がれる様子は、あらゆる分野において通じるものである。

一方、1949年には、日本の新潟県で名立機雷爆発事件が発生し、63人の尊い命が奪われた。戦争が終結した後も、遺された兵器が人々の生活を脅かし続ける現実があった。機雷の正確な出所は特定されていないが、戦争がもたらす爪痕は、長く人々の心と土地に刻まれることを改めて痛感させる。

3月30日という日は、歴史の様々な局面を映し出す鏡のようなものだ。国家が下す決定がもたらす影響、新しい技術が歴史を変える瞬間、戦争の傷跡が世代を超えて残ること——それらのすべてが、私たちが今日を生きる上での教訓となる。過去の出来事を振り返ることで、未来への選択がよりよいものとなるよう、今日という日を大切にしたい。