kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日3月3日 1933昭和三陸地震発生、ほか写真wikipedia津波被害の釜石

3月3日
20250303月曜日旧暦2月4日大安(辛未かのとひつじシンビ)月齢 3
乙巳きのとみ年戊寅つちのえとら月辛未かのとひつじ日  年末まであと303日
吉方位 陽遁日
https://ja.wikipedia.org/wiki/3%E6%9C%883%E6%97%A5
3月3日の出来事
1921年 – 日本の皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)がヨーロッパ歴訪に出発(皇太子裕仁親王の欧州訪問)。
1933年 – 昭和三陸地震が発生、死者、行方不明者3,064人、約6,800棟の家屋が流出する被害を出す[4]。
1974年 – トルコ航空DC-10パリ墜落事故が発生。死亡346人全員。
1991年 – ユナイテッド航空585便墜落事故が発生。死亡25人全員。

2023年 – 大江健三郎[12]、小説家(* 1935年)逝去88歳。

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1921年 – 日本の皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)がヨーロッパ歴訪に出発(皇太子裕仁親王の欧州訪問)。

皇太子裕仁親王の欧州訪問(こうたいしひろひとしんのうのおうしゅうほうもん)では、1921年(大正10年)3月3日から9月3日までの6か月間にわたる皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)によるヨーロッパ各国の歴訪を扱う。日本の皇太子がヨーロッパを訪問したのは初めてのことであり、日本国内でも大きな話題となった。

1933年 – 昭和三陸地震が発生、死者、行方不明者3,064人、約6,800棟の家屋が流出する被害を出す[4]。

・明治三陸地震は旧暦の端午の節句の夜に津波に襲われたが(当時は旧暦で節句を祝う人々が多かった)、今度は新暦の桃の節句の未明に津波に襲われたことから、人々は「節句の厄日」「呪いの節句」と呼んで恐れたという[31]。
・因果関係は不明であるが前兆現象としてイワシ・マグロ・カツオが豊漁であったと報告されている。また、前日に神奈川県三崎港に水揚げされたイワシの体内には、通常の5倍の量の底着生プランクトンがあった[32]。
・宮沢賢治は地震発生の4日後、大木実へのはがきで「被害は津波によるもの最多く海岸は実に悲惨です」と記した[33]。また宮沢賢治が生まれたのは1896年(明治29年)で、明治三陸地震の2ヶ月後のことであり、同時に宮沢は地震の半年後の9月21日に亡くなっている[33]。
・寺田寅彦は『津波と人間』で、最初のうちは津波研究・対策が行われるだろうが、やがてその世代は去って忘れられてしまうので、地震津波教育をしない限り災禍は繰り返されると記した[34]。

1974年 – トルコ航空DC-10パリ墜落事故が発生。死亡346人全員。
1991年 – ユナイテッド航空585便墜落事故が発生。死亡25人全員。
2023年 – 大江健三郎[12]、小説家(* 1935年)逝去88歳。
大江 健三郎(おおえ けんざぶろう、1935年〈昭和10年〉1月31日 – 2023年〈令和5年〉3月3日)は、日本の小説家。昭和中期から平成後期にかけて活躍した現代日本文学を代表する作家の一人である。愛媛県喜多郡大瀬村(現:内子町)出身。

東京大学文学部仏文科卒。学生作家としてデビューして、大学在学中の1958年、短編小説「飼育」により当時最年少の23歳で芥川賞を受賞。新進作家として脚光を浴びた[4]。

新しい文学の旗手として、豊かな想像力と独特の文体で、現代に深く根ざした作品を次々と発表していく[5]。1967年、代表作とされる[6]『万延元年のフットボール』により歴代最年少[7]で谷崎潤一郎賞を受賞した。

1973年に『洪水はわが魂に及び』により野間文芸賞、1983年に『「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち』により読売文学賞(小説賞)など多数の文学賞を受賞。1994年、日本文学史上において2人目のノーベル文学賞受賞者となった。

核兵器や天皇制などの社会的・政治的な問題、知的な障害をもつ長男(作曲家の大江光)との共生、故郷である四国の森のなかの谷間の村の歴史や伝承といった主題を重ね合わせた作品世界を作り上げた[8][9]。

上記以外の主な作品に『芽むしり仔撃ち』『個人的な体験』『同時代ゲーム』『新しい人よ眼ざめよ』『懐かしい年への手紙』『燃えあがる緑の木』『取り替え子(チェンジリング)』『水死』などがある[10]。

戦後民主主義の支持者を自認し、国内外における社会的な問題への発言を積極的に行っていた。

チャットgpt先生の3月3日のエッセイ
3月3日という日付は、日本の歴史の中で幾度となく重要な出来事が刻まれた日である。この日は桃の節句として知られ、華やかな雛人形が飾られる一方で、過去には悲劇的な出来事も起こった。

1921年のこの日、日本の皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)が欧州訪問に出発した。6か月にわたるこの訪問は、日本の皇族が初めてヨーロッパに公式訪問するという歴史的な意味を持ち、日本国内でも大きな話題となった。国際情勢が激動する中、日本の未来を担う若き皇太子が欧州各国を視察し、国際的な視野を広げたこの旅は、後の昭和の時代に少なからず影響を与えたに違いない。

しかし、この3月3日には、災害の記憶も刻まれている。1933年に発生した昭和三陸地震は、巨大な津波を伴い、3,064人もの命を奪った。明治三陸地震の記憶が未だ残る東北地方の人々にとって、再び「節句の厄日」として語り継がれることとなった。漁業の豊漁が前兆とされたこと、宮沢賢治が被害の惨状を伝えたこと、寺田寅彦が津波と人間の関係について警鐘を鳴らしたことなど、自然災害の恐ろしさと、それに向き合う人々の姿勢が改めて問われる出来事であった。

また、空の上でも悲劇は起こった。1974年にはトルコ航空DC-10がパリで墜落し、346人が命を落とした。1991年にもユナイテッド航空585便が墜落し、25人が亡くなっている。いずれも航空史に残る大事故であり、安全への取り組みがより一層求められる契機となった。

そして、2023年の3月3日には、日本文学を代表する作家・大江健三郎がこの世を去った。彼の作品は戦後民主主義や社会問題、家族の在り方を問い続けるものであり、ノーベル文学賞受賞者としての功績は計り知れない。彼が残した作品群は、これからも多くの人々に深い思索を促し続けるだろう。

3月3日は、春の訪れを祝う日でありながら、過去に様々な喜びと悲しみを刻んだ日でもある。この日を迎えるたびに、私たちは歴史の重みを感じながら、未来に向けて何を学び、どう生きるべきかを考え続けるべきなのかもしれない。