3月28日
20260328土曜日旧暦2月10日大安(38番辛丑かのとうしシンチュウ)月齢 9
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吉方位 陽遁日 辛丑かのとうし日 西 大吉
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3月28日の出来事
193年 – ディディウス・ユリアヌスが親衛隊の帝位の「公開競売」を落札しローマ皇帝に即位。
1876年 – 日本の明治政府が廃刀令を発布。
1894年 – 金玉均が上海で朝鮮政府の刺客により暗殺される。生誕1851年2月23日 朝鮮国・忠清南道公州 死没 1894年3月28日(43歳没)暗殺
1913年 – 陸軍所沢飛行場で着陸寸前の陸軍機が墜落し、木村鈴四郎・徳田金一両中尉が死亡。日本初の飛行機死亡事故。
1961年 – 名張毒ぶどう酒事件。名張毒ぶどう酒事件(なばりどくぶどうしゅじけん)とは、1961年(昭和36年)3月28日の夜に三重県名張市葛尾(くずお)地区の公民館で発生した大量殺人事件。
名張市の実質飛地と隣接する奈良県山辺郡山添村にまたがる集落の懇親会酒席で振る舞われたワイン(ぶどう酒)に毒物(農薬・ニッカリンT)が混入され、そのワインを飲んだ女性17人が中毒症状を起こして5人が死亡した。
1979年 – スリーマイル島原子力発電所事故。
2005年 – スマトラ島沖地震。死亡2000人以上。
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193年 – ディディウス・ユリアヌスが親衛隊の帝位の「公開競売」を落札しローマ皇帝に即位。
皇帝即位
193年、コンモドゥス帝が暗殺され、更に帝位を簒奪したペルティナクスが元老院と近衛隊の支持を失い、僅か3ヵ月で暗殺されるなど不安定な情勢が続いていた。ペルティナクス死後、適当な皇帝候補が見つからなかった事から、元老院に相談なく近衛隊主催による前代未聞の「帝位競売」が行われた[16]。
競売が始まると先帝ペルティナクスの妻フラヴィア・ティティアナ(英語版)の父で、首都長官として軍の説得に向わされていたティトゥス・フラウィウス・スルピキアヌス(英語版)が真っ先に名乗りを上げた[17]。同じ時、ユリアヌスは妻と娘と夕食を取っており[18]、漸く競売会場に辿り着いた時には既に門が閉まっていて入場できず、外から大声を張り上げて競売に参加したと伝えられている[19]。兵士達は二人の競売者の間を忙しなく移動して、言い値を上げ続ける両者にお互いの金額を伝えていった。
最終的に全近衛兵に2万セルティウスの支払いを約束したスルピキアヌスに、ユリアヌスは自分は2万5000セルティウスを支払うと宣言した[20]。暫しの協議の後に兵士は門を開け、ユリアヌスに「皇帝陛下」と呼びかけて宮殿へと招き入れた[21]。元老院はユリアヌス側に付いた近衛隊に恫喝されて意見する事もなく皇帝即位を了承し[22]、妻にも皇妃の称号を与えた[23]。
統治と暗殺
当然ながら帝位競売を醜聞と見なしていた民衆は、金で帝位を買った新皇帝を冷ややかな態度で迎えた[24]。ユリアヌス帝が人前に現れると常に群集の一部は「帝位の簒奪者」と陰口を叩いた[25]。ある時には民衆から投石され、元老院議事堂へ向かうのを妨害された事もあったという[26]。こうした民衆からの不支持は野心を抱く各地の将軍達の知る所となり、コンモドゥス帝時代の重臣であったシリア総督ペスケンニウス・ニゲル、ブリタニア総督クロディウス・アルビヌス、パンノニア総督セプティミウス・セウェルスの三者が反旗を翻した[27]。
三人の帝位請求者に対して、ユリアヌス帝は地理的に近いセウェルスを最も警戒して元老院に命じて「国家の敵」に指定した[28]。また戦いが避けられぬ場合に備え、長く戦争そのものからは遠ざかっていた近衛隊にカンプス・マルティウスで徹底した再訓練を行わせた[29]。しかしトゥッリウス・クリスピヌス(英語版)将軍率いる近衛軍団は、本土に迫ったセウェルス軍に敗北を喫している[30]。戦争から遠ざかった近衛隊は堕落しきっており、今やローマ最精鋭の兵団ではなくなっていた[31]。
セウェルスは同じ帝位請求者であったクロディウス・アルビヌスを副帝にする密約を結んで本土を挟み撃ちにし[32]、ラヴェンナに進軍して同地の海軍を掌握するなど駒を進めていった[33]。窮地に立たされたユリアヌス帝はセウェルスを共同皇帝にするなど講和案を提示したが[34]、民衆の支持を得つつあったセウェルスは提案を無視して進軍を継続した[35]。敗色濃厚の中で近衛隊もユリアヌス帝からセウェルス側に寝返り[36]、最初から敵対していた元老院はセウェルス帝の帝位を認め、更に帝位競売を無効としてユリアヌス帝を僭称帝と弾劾する決議を行った[37]。ユリアヌス帝は執政官であった娘婿セクストゥス・コルネリウス・レペンティヌス(英語版)を除いて有力な臣下を失い[38]、議決後の193年6月1日に近衛兵によって暗殺された[39]。ローマに入城したセウェルスは寝返ってきた近衛兵隊を解散する宣言を出した[40]。遺骸は娘に渡され、父や祖父の眠る土地に葬られたと伝えられている[41]。
歴史家カッシウス・ディオによれば、ユリアヌス帝の最後の言葉は「私が何をした?…私が誰を殺したというのだ」であったという[2]。
1876年 – 日本の明治政府が廃刀令を発布。
大礼服並軍人警察官吏等制服着用の外帯刀禁止の件(たいれいふくならびにぐんじんけいさつかんりとうせいふくちゃくようのほかたいとうきんしのけん、明治9年太政官布告第38号)は、1876年(明治9年)3月28日に発せられた、大礼服着用者・勤務中の軍人や警察官吏以外は刀を身に付ける(=武装する)ことを禁じる内容の太政官布告。
すでに明治2年(1869年)頃から廃刀の議論は行われていた。明治2年(1869年)3月に公議所が開かれたとき、制度寮撰修森有礼は佩刀禁止を提議した。「早く蛮風を除くべし」というものであったが、王政復古から間もない頃であったため公議人らは反対し、「廃刀をもって精神を削ぎ、皇国の元気を消滅させるといけない」として否決され、森は退職を命じられた。明治3年(1870年)には一般に禁止し、明治4年8月9日(1871年9月23日)には帯刀・脱刀を自由とする散髪脱刀令を発していた。そして、1876年(明治9年)3月28日、廃刀令を発布した。
発布の直接の因となったのは、1875年(明治8年)12月山縣有朋の建議が採用されたことである。長文の建議であるが、要するに、「従来帯びていたのは倒敵護身を目的としたが、今や国民皆兵の令が敷かれ、巡査の制が設けられ、個人が刀を佩びる必要は認められないので、速やかに廃刀の令を出して武士の虚号と殺伐の余風を除かれたい」というものだった。
反発
禁止されたのは帯刀であって、所持または所有そのものが禁止されたわけではない。しかしながら、帯刀はもともと実戦的武備というよりは武士の身分の証明としての意味合いが大きく、それを否定する事は、実質的な特権の否定であり、徴兵令および秩禄処分とともに一つのアイデンティティーが否定されることを意味していた。廃刀令に反発した者は、刀を袋の中に入れて持ち歩いたり、「差さなければいいのだろう」と刀を肩に担いで歩いたりした。また、一部はこの廃刀令を含めた四民平等政策に反発し、士族反乱を起こした。
法令の沿革
その後、銃砲等所持禁止令(昭和21年勅令第300号)の施行により刀剣類の所持が禁止されたことで、本太政官布告は実効性を喪失した。さらに、1954年(昭和29年)、その時点において既に実効性を喪失していると判断した政府は、内閣及び総理府関係法令の整理に関する法律(昭和29年法律第203号)第4号により、1954年(昭和29年)7月1日をもって本太政官布告を廃止した。
撃剣興行
概要
明治維新による改革(廃藩置県、秩禄処分、散髪脱刀令及び廃刀令)によって生活は困窮していった者がいた。特に西洋軍制の導入によって活躍の場を失った剣術指導を行っていた者は以前の職務を生活の糧に転じさせる術がなく深刻なものがあった。
これを憂えた旧江戸幕府の講武所剣術教授方(師範)であった榊原鍵吉は相撲興行を参考にして剣術を興行として、その木戸銭で収入を得させることを考案、東京府知事・大久保一翁もこれに賛同して、1873年(明治6年)4月[注釈 1]。から10日間、東京浅草の左衛門河岸(現在の浅草橋駅西方)にて初めての撃剣興行を行った。来客は満員御礼を超えた。
1894年 – 金玉均が上海で朝鮮政府の刺客により暗殺される。生誕1851年2月23日 朝鮮国・忠清南道公州 死没 1894年3月28日(43歳没)暗殺
金 玉均(キム・オッキュン、きん ぎょくきん、김옥균、1851年2月23日〈旧暦1月23日〉 – 1894年3月28日)は、李氏朝鮮後期の政治家で、朝鮮独立党の指導者。李氏朝鮮時代の思想家[1]。字は伯温(ペゴン、백온)、号は古愚(コウ、고우)。本貫は新安東金氏。開明派(開化派)として知られ、朝鮮半島として初の諸外国への留学生の派遣や『漢城旬報』の創刊発行に協力した。
洪鐘宇に殺害される金玉均
当時の日本政府の政治的立場から、東京や札幌、栃木県佐野や小笠原諸島[4]などを転々とした後、李経方(李鴻章の甥で養子、日本清国公使官)と李鴻章に会うため松江府上海県に渡ったが、1894年3月28日に上海の東和洋行ホテルで朝鮮末期の高官の洪鐘宇[5]に回転式拳銃で射殺された。
金玉均の死体は大清帝国政府により、軍艦咸靖号で本国大朝鮮国に運ばれて死後に死刑宣告され、凌遅刑に処されたうえで四肢を八つ裂きにされ、胴体は川に捨てられ、首は京畿道竹山、片手及び片足は慶尚道、他の手足は咸鏡道で晒された[注釈 2]。
没後の周辺
金玉均や朝鮮の文明開化による自立を支援してきた福沢諭吉は1885年(明治18年)2月23日と2月26日の論説に、「朝鮮独立党の処刑(前・後)」という論説では、李氏朝鮮が凌遅刑という残忍な方法で甲申政変後に金玉均ら開化派の三親等の一族処刑して遺体を晒し者にした報を聞いて、朝鮮の体制を激しく非難し、金玉均ら朝鮮開化派の死を涙している。
1913年 – 陸軍所沢飛行場で着陸寸前の陸軍機が墜落し、木村鈴四郎・徳田金一両中尉が死亡。日本初の飛行機死亡事故。
1961年 – 名張毒ぶどう酒事件。名張毒ぶどう酒事件(なばりどくぶどうしゅじけん)とは、1961年(昭和36年)3月28日の夜に三重県名張市葛尾(くずお)地区の公民館で発生した大量殺人事件。
名張市の実質飛地と隣接する奈良県山辺郡山添村にまたがる集落の懇親会酒席で振る舞われたワイン(ぶどう酒)に毒物(農薬・ニッカリンT)が混入され、そのワインを飲んだ女性17人が中毒症状を起こして5人が死亡した。
1979年 – スリーマイル島原子力発電所事故。
スリーマイル島原子力発電所事故(スリーマイルとうげんしりょくはつでんしょじこ、英: Three Mile Island accident)は、1979年3月28日、アメリカ合衆国東北部ペンシルベニア州のスリーマイル島原子力発電所で発生した重大な原子力事故。スリーマイル島(Three Mile Island)の頭文字をとってTMI事故とも略称される。
原子炉冷却材喪失事故(Loss Of Coolant Accident、LOCA)に分類され、想定された事故の規模を上回る過酷事故(Severe Accident)である。国際原子力事象評価尺度(INES)においてレベル5の事例である。
2005年 – スマトラ島沖地震。死亡2000人以上。
チャットgpt先生の3月28日のエッセイ
3月28日という日は、歴史を眺めると「人の選択」が強く浮かび上がる一日だと感じる。制度や運命に見える出来事の裏側で、誰かの判断や欲望、恐れが重なり、思いがけない結果へとつながっていく。
古代ローマでは、ディディウス・ユリアヌスが「帝位の競売」という前代未聞の形で皇帝になった。権力が貨幣に換算される瞬間であり、政治の本質が露わになったとも言える。しかしその即位は民衆の支持を得られず、わずか数か月で命を落とした。お金で手に入るものと、決して手に入らないもの——その境界が、歴史の中であまりにも鮮烈に示されている。
一方、日本では1876年に廃刀令が出され、武士という存在の象徴が社会から切り離された。刀は単なる武器ではなく、身分と誇りの象徴だった。それを禁じるという決断は、近代国家へ進むための痛みを伴う選択だったとも言える。時代が変わるとき、人は何かを手放さなければならない。その重さは、制度の一文では測れない。
さらにこの日は、理想を抱いた人物の悲劇も刻まれている。朝鮮の改革を志した金玉均は、志半ばで暗殺された。変革を目指す者は常に抵抗にさらされる。未来を見据える視線は、ときに同時代の中では理解されず、危険なものと見なされてしまうのだ。
そして近代以降に目を向けると、出来事はより無機質な形で人間に襲いかかる。スリーマイル島原子力発電所事故は、技術への信頼が揺らいだ象徴的な事故だった。さらに2005年のスマトラ島沖地震は、自然の圧倒的な力の前で人間の無力さを突きつけた。ここではもはや「選択」すら意味を持たない場面もある。
それでも、これらの出来事を並べてみると気づくことがある。人間は常に、選択できる範囲の中で未来を形づくろうとしてきたということだ。権力を買うことも、古い制度を捨てることも、理想に殉じることも、技術を進めることも——すべては「よりよく生きよう」とする試みの一部だったはずだ。
しかし、その結果は必ずしも望んだ通りにはならない。だからこそ歴史は、成功の物語というより「選択の連なり」として私たちに語りかけてくる。
3月28日は、何か特別な記念日でなくてもいい。この日にふと立ち止まり、自分がどんな選択をしているのかを考える。それだけで、遠い時代の人々と静かにつながることができる気がする。

