3月23日
20260323月曜日旧暦2月5日赤口(33番丙申ひのえさるヘイシン)月齢 4
丙午ひのえうま年 辛卯かのとう月 丙申ひのえさる日 年末まであと283日
吉方位 陽遁日 丙申ひのえさる日 南東 大吉
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3月23日の出来事
1274年(文永11年2月14日) – 日蓮が幕府に赦免され、佐渡国から鎌倉へ帰る[1]。
1336年(建武3年2月10日) – 豊島河原合戦開戦(テシマガワラカッセン)。
戦争:建武の乱
年月日:建武3年2月10日・2月11日(1336年3月23日・3月24日)
場所:豊島河原(大阪府箕面市・池田市)
結果:新田義貞・北畠顕家側(後醍醐天皇軍)の勝利、足利尊氏の敗走
交戦勢力
建武政権 足利氏
指導者・指揮官 建武新政側 新田義貞 北畠顕家 楠木正成
足利側 足利尊氏 足利直義
戦力 新政側 約10万(太平記)足利側 約20万(太平記)
1400年 – ベトナムで、胡季犛が少帝から皇位を簒奪し、陳朝が滅亡。
1585年(天正13年2月22日) – 天正遣欧少年使節がローマ教皇グレゴリウス13世に公式謁見。
1633年(寛永10年2月14日) – 江戸幕府が奉書船以外で海外渡航した日本人の帰国を禁止する。
1585年(天正13年2月22日) – 天正遣欧少年使節がローマ教皇グレゴリウス13世に公式謁見。
1919年 – イタリアでベニート・ムッソリーニが「戦士のファッショ(後のファシスト党)」を結成。
1945年 – 第二次世界大戦: 米軍の沖縄上陸作戦開始に伴い、ひめゆり学徒隊に動員令が下る。戦後、最大の犠牲を出した伊原第三外科壕跡に慰霊塔である「ひめゆりの塔」が建立された[5]。これは、ひめゆり学徒隊を祀り、平和を願うものである。敷地の入口近くに建つ「ひめゆりの塔の記」では、動員数を297名、合祀した戦没者を224名としている。
1945年 – 青森県赤石村で雪泥流(土石流)が発生。87名死亡。
1946年 – 宮城県女川町の女川港で定期船が沈没。死者117人[4]。
1994年 – アエロフロート航空593便墜落事故。死亡75人全員。
2008年 – JR常磐線荒川沖駅の構内で、殺人容疑で指名手配中の男性被疑者が通行人を刃物で切り付け、8人が死傷。(土浦連続殺傷事件)
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1274年(文永11年2月14日) – 日蓮が幕府に赦免され、佐渡国から鎌倉へ帰る[1]。
1336年(建武3年2月10日) – 豊島河原合戦開戦。
1400年 – ベトナムで、胡季犛が少帝から皇位を簒奪し、陳朝が滅亡。
1585年(天正13年2月22日) – 天正遣欧少年使節がローマ教皇グレゴリウス13世に公式謁見。
1633年(寛永10年2月14日) – 江戸幕府が奉書船以外で海外渡航した日本人の帰国を禁止する。
1919年 – イタリアでベニート・ムッソリーニが「戦士のファッショ(後のファシスト党)」を結成。
ベニート・アミルカレ・アンドレーア・ムッソリーニ(イタリア語: Benito Amilcare Andrea Mussolini、1883年7月29日 – 1945年4月28日)は、イタリアの政治家、独裁者。
イタリア社会党で活躍した後に新たな政治思想ファシズムを独自に構築し、国家ファシスト党による一党独裁制を確立した。
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師範学校時代は一定の成績は維持していたものの、以前ほど抜きんでた成績を取ることはなく、教員課程より読書に没頭する日々を送った[27]。相変わらず周囲との交流も嫌って孤独を好み、しばしば師範学校の鐘楼に登って哲学、政治学、歴史学を中心に様々な分野の書物を読んでいた。一方で政治集会が開かれる際には雄弁に持論を語り、説得力ある演説家として一目置かれていた。学内では穏健な世俗派としてイタリア共和党を支持する者が多く、彼らはそれを共和党員を示す黒いネクタイを身に着けていたが、ムッソリーニはより急進的なイタリア社会党の支持者として赤いネクタイを身に着けていた[28]。
スイスでは土木作業や工場労働で生計を立てる日々を送り、貧しさから橋の下や屋根裏部屋に寝泊りしたこともあった。不安定な放浪生活と引き換えに「ヨーロッパの小さなアメリカ」であるスイスで様々な人々から知遇を得ることができた。
その中で特筆されるのはウラジーミル・レーニンの秘書を務めたウクライナ人女性アンジェリカ・バラバーノフとの出会いであった[34][35]。当時から難解さを知られていたマルクス主義を完全に理解できている人間は社会主義者や共産主義者の間ですら限られていた。ムッソリーニは狂信的なマルクス主義者であるバラバーノフからマルクス主義の教育を受け、社会主義理論についての知識を得た[34]。またレーニン自身もムッソリーニの演説会に足を運んだことがあった[34]。レーニンはムッソリーニを高く評価し、後にイタリア社会党が彼を除名した際には「これでイタリア社会党は革命を起こす能力を失った」「あの男を追放するなんて君らはバカだ」とまで叱責している[36]。レフ・トロツキーも同時期のレーニンと同行していて、ムッソリーニと面識があったとする説もある[37]。
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この頃からムッソリーニは社会党の政治活動に専念するようになったが、全面的に社会党の路線を支持しているわけではなかった。元々ムッソリーニは少年期から多様な思想を学んでいたことから教条的な政治家ではなく、積極的に他の思想を取り込んでいく政治的シンクレティズムを志向する政治家となっていた。一例を挙げれば反平等主義的な選民主義を説いたフリードリヒ・ニーチェから選民主義と反キリスト思想の影響を受けている[56]。ニーチェの選民思想は明らかに社会主義の一般的な理念から離れており、ニーチェに理解を示すムッソリーニは社会主義者にとって異端の存在であった[56]。ムッソリーニは(社会主義の一派である)マルクス主義の決定論や社会民主主義の改良主義の挫折によって社会主義全体が道を失い始めていると感じており、ニーチェの思想による社会主義の補強を試みた[56]。また先に述べたように、ソレル主義に代表される革命的サンディカリスムにも接近していた[57]。
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1917年2月23日、ムッソリーニは塹壕内で起きた榴散弾の爆発事故で重傷を負った[59]。周りにいた兵士が死亡していることを考えれば奇跡的な生存であったが、ムッソリーニの全身には摘出できない40の砲弾の破片が残り、後遺症の神経痛に悩まされることになった[82]。負傷中の病院には国王ヴィットーリオ・エマヌエーレが訪問しており、これが後の主君と宰相の最初の出会いとなった。共和主義者であるムッソリーニと不愛想で知られていた国王の会話は当初淡々としたものであった。見かねた軍医が間に入って治療の際にムッソリーニが麻酔を拒否して痛みに耐えたというエピソードを教えると、初めて国王は柔らかい笑みを浮かべて「健康になることを祈っている。イタリアには君のような人物が必要だ」とねぎらい、ムッソリーニも「有難うございます」と素直に答えている[84]。退院後は前線復帰を望んだものの、片足に障害が残ったことから一年間の傷病休暇を命じられた。
ドイツの国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が政権獲得後に突撃隊を粛清したのとは対照的に、国家ファシスト党は民兵組織を排除しなかった。これはファシスト党が自身も含めた「兵士の政党」であるという背景に加えて、粛清や内部対立を嫌い大同団結を好むムッソリーニの政治信念による判断といえた。実際、ムッソリーニはヒトラーによる長いナイフの夜事件を聞いた際に妻との会話で「あの男は野蛮人だ。あの殺し方はなんだ」と旧友を冷酷に処断したことへの嫌悪感を口にしていた[109]。国民ブロック内で路線の違いが表面化しつつあったイタリア・ナショナリスト協会にも寛容な姿勢を見せ、1923年には国家ファシスト党に合流させる融和策を取った[108][110]。
*ドイツの国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が政権獲得後に突撃隊を粛清したのとは対照的に、国家ファシスト党は民兵組織を排除しなかった。これはファシスト党が自身も含めた「兵士の政党」であるという背景に加えて、粛清や内部対立を嫌い大同団結を好むムッソリーニの政治信念による判断といえた。実際、ムッソリーニはヒトラーによる長いナイフの夜事件を聞いた際に妻との会話で「あの男は野蛮人だ。あの殺し方はなんだ」と旧友を冷酷に処断したことへの嫌悪感を口にしていた[109]。国民ブロック内で路線の違いが表面化しつつあったイタリア・ナショナリスト協会にも寛容な姿勢を見せ、1923年には国家ファシスト党に合流させる融和策を取った[108][110]。
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1937年7月、今度はムッソリーニがドイツを訪問することが決まると、ヒトラーは「私の師を迎えるのだ。全てが完璧でなければならない」と側近に語り、宿泊する建物や使用する部屋を細かく検討し、ベルリンの中央広場には自らが設計したムッソリーニの記念像を建設させた。ドイツ各地でナチ党員の組織立った歓迎を受け、欧州随一の工業力と再建されたドイツ国防軍の陸軍部隊の演習を視察して深い感銘を受けた。会談の仕上げとして前年にベルリンオリンピックが開催されたマイフェルト広場(ドイツ語版)(五月の広場)で開かれたナチ党の政治集会で記念演説が行われた。100万人の聴衆を前にヒトラーから「歴史に作られるのではなく、歴史を作り出す得難い人物」として紹介を受けたムッソリーニは近代のドイツとイタリアが同時期に統一を達成したことを踏まえ、現代の独伊友好、更にはファシズムとナチズムとの思想的同盟について以下のようにドイツ語で演説した[155]。
ファシズムとナチズムは同じ世紀に同じ行動で統一を獲得して復活した我々の民族の生命を結ぶ、歴史的展開の並行性の表現である
我々は世界観の多くの部分を共有している。意思が民族の生命を決定付ける力であり、歴史を動かす原動力である事を我々は確信している
ファシズムには守るべき倫理がある。その倫理は私の個人的倫理でもある。それは包み隠さず明確に発言する事であり、友があれば最後まで諸共に進む事である
今日の世界に存在するもっとも純正な民主主義国家はドイツとイタリアであり、明日はヨーロッパ全てがファシスト化されるだろう
私生活
教養
元々が師範学校出身の知識人であり、教師としての教育を受けていることもあって大変な勉強家であった。本領である政治学では様々な思想に関する博学な知識を持ち、ジョルジュ・ソレルの修正マルクス主義に深い理解を示して新たな思想である結束主義を体系化した。ほかに哲学にも通じてブランキからシュティルナーまで多くの理論を学び、また芸術面では近代ドイツ文学に傾倒していた。加えて自国語であるイタリア語、さらにドイツ語、フランス語、英語の四か国語に通じた教養人であった。
語学力はムッソリーニの強みの一つでドイツ訪問時には通訳を介さずドイツ語で演説を行っており、発音に僅かな癖があるのみという流暢さでドイツ国民に語り掛けて喝采を浴びている。またイタリア系アメリカ人に対し、アメリカの映画ニュースを通じ英語で祝辞を送っている。演説家としては感情が高ぶるほど激烈な弁が冴えたヒトラーとは対照的に、さわやかで分かりやすい演説をする人物として知られていた。
スポーツ
若い頃からスポーツを得意としており、毎朝起きたら体操をやりジュースを飲み、最後に乗馬に興じてからシャワーを浴びて朝食をとるのが日課であった。朝食ではパンのほかに果物が用意してあり(本人も果物が健康の秘訣だと言っている)、魚はたまに食べるが肉は殆ど食べなかったという。
自動車やモータースポーツを愛好し、国威発揚のためにイタリアの自動車メーカーを国際レースの場に出ることを推奨したほか、「ミッレミリア」などの国内におけるレースへの支援も欠かさなかった。また自身もドライブを好み、イタリアの高級車アルファロメオ、フィアット、ランチアなど広く乗っていた。特にアルファロメオへの愛は格別で、カブリオレやスピードスター、スパイダー・コルサなど複数台を所有し、公式な祭典でもプライベートの気晴らしでもアルファロメオに乗っていた。またバイクも、モトビアンキ社のフレッチャドーロに跨がっている姿の写真が残っている[276]。ヒトラーの自動車を運転する姿の記録が一切ないのとは対照的である。
女性
ムッソリーニは行動的で粗野な反面、繊細な神経の持ち主で他人を信用せず、心を許す友人も作らず常に孤独であったと言われている。異性関係については青年期から多くの女性と関係を持ち、結婚後もしばしば妻以外の女性と愛人関係を持つなど奔放だった。女性問題は男尊女卑の傾向が強かった当時の欧州ではそれほど重大な問題と受け取られず、むしろ男性的な強さや魅力として好意的に報道された。女性の扱い方は紳士的というよりは家父長的で、私生活や政治問題については一切口出しを許さず、同性の知人に対してそうであったように本心を見せなかった。
動物
動物では犬を好んだことで知られるヒトラーに対し、子供の時から猫好きであった。また乗馬経験から馬の飼育も趣味にしていた。
信仰
無神論者・反教会主義者
ムッソリーニは敬虔なカトリック教徒の母ローザと[280]、反対に根っからの無神論者である父アレッサンドロとの板挟みの中で幼少期を過ごした[281]。ローザはほかの子供たちと同じくムッソリーニに洗礼を受けさせて毎週日曜日には教会のミサに連れて行った。対照的にアレッサンドロは決してミサには参加しなかった[280]。ムッソリーニ自身は先述の通り、カトリック系の寄宿学校での強圧的で階級的な教育制度に激しい嫌悪を感じて、「朝起きると必ずミサへと連れて行かれる」と述懐している[282]。
青年期を迎えたムッソリーニは父と同じ反教会主義者・無神論者・唯物論者として自覚した行動を行い[281]、宗教に寛容な社会主義者を批判して洗礼拒否運動を展開した。当時のムッソリーニは「神などいるわけもなく、キリストはただの馬鹿で精神異常者であったことは明らかだ」とキリスト教を侮蔑していた。彼は宗教を信じる人間が頼るべきは教会ではなく精神科であり、キリスト教は人を怠惰にしただけだと罵倒した[281]。彼は無神論を最初期に説いたニーチェを尊敬し、彼の理論がキリスト教の欺瞞を明らかにしていると考えた[283]。また信仰心に対する代替物として提案された超人思想についても肯定的であった[283]。
政治家に転身した後も反教会主義はムッソリーニの重要な政治的目標の一つであり続け、痛烈な教会批判を繰り返した[284]。彼は社会主義とキリスト教の合同は絶対に避けられるべきで、無神論者ではない社会主義者は政界から追放すべきとまで主張した。しかしキリスト教の中心地として栄えてきたイタリアにおいて、カトリック教徒の支持を集めることは大衆運動で不可欠であった。そのため、権力の階段を登るに連れて自説を押し通すことより政治上の作戦としてキリスト教勢力との協力路線へと切り替えていった。1921年に下院議員として初めて演説を行ったムッソリーニは、「ローマに存在する唯一の普遍的な理念は、ヴァチカンより発せられるものである」と述べ、ヴァチカンとのコンコルダート(政教条約)の締結を主張した[96]。
1945年 – 第二次世界大戦: 米軍の沖縄上陸作戦開始に伴い、ひめゆり学徒隊に動員令が下る。戦後、最大の犠牲を出した伊原第三外科壕跡に慰霊塔である「ひめゆりの塔」が建立された[5]。これは、ひめゆり学徒隊を祀り、平和を願うものである。敷地の入口近くに建つ「ひめゆりの塔の記」では、動員数を297名、合祀した戦没者を224名としている。
1945年 – 青森県赤石村で雪泥流(土石流)が発生。87名死亡。
1946年 – 宮城県女川町の女川港で定期船が沈没。死者117人[4]。
1994年 – アエロフロート航空593便墜落事故。死亡75人全員。
2008年 – JR常磐線荒川沖駅の構内で、殺人容疑で指名手配中の男性被疑者が通行人を刃物で切り付け、8人が死傷。(土浦連続殺傷事件)
土浦連続殺傷事件(つちうられんぞくさっしょうじけん)とは、2008年(平成20年)3月19日と同23日に、茨城県土浦市で発生した通り魔事件。
男K(犯行当時24歳、2013年に死刑執行)が、持っていた刃物で相次いで人を刺し、2人が死亡、7人が重傷を負った[6]。
チャットgpt先生の3月23日のエッセイ
3月23日は、歴史を眺めると「思想と権力」「信念と行動」が複雑に交差する日として浮かび上がる。宗教、政治、戦争、そして個人の思想が、時代ごとに異なる形で現れている。
13世紀、この日には仏教僧である日蓮が流罪の地から赦免され、再び鎌倉へ戻った。権力と対立しながらも信念を曲げず、長い流罪の末に帰還した出来事は、日本の宗教史の中でも象徴的な場面である。思想は時に迫害されるが、それでも消えずに残り続けることを示している。
同じ日には、南北朝の動乱の中で起きた豊島河原合戦がある。新田義貞や楠木正成ら後醍醐天皇側の武将と、足利尊氏率いる勢力がぶつかった戦いだ。日本史の転換期にあたる建武の乱の中で、政治理念と武力が衝突した象徴的な場面である。歴史の大きな流れは、こうした局地の戦いの積み重ねで形作られていく。
そして20世紀になると、この日はさらに大きな思想の転換点を示す。1919年、ベニート・ムッソリーニが政治運動「戦士のファッショ」を結成した。ここから後にファシズムという新しい政治思想が生まれ、ヨーロッパの政治地図を大きく変えることになる。
興味深いのは、ムッソリーニの思想が単純なものではなかった点だ。彼は若い頃、社会主義者として活動し、マルクス主義を学び、さらに哲学者フリードリヒ・ニーチェの思想にも影響を受けていた。さまざまな思想を混ぜ合わせながら新しい政治理念を作ろうとした彼の姿は、思想が時代の混乱の中で変化していく様子をよく表している。
しかし思想は、やがて国家権力と結びつく。ムッソリーニの運動は独裁体制へと変わり、さらにアドルフ・ヒトラーの政権とも結びつき、第二次世界大戦へと至る流れの一部となった。理論や理念が現実の政治の中でどのように変質していくのかを考えさせる歴史である。
同じ3月23日には、戦争の影も残されている。1945年、沖縄戦の準備の中で女子学生たちが看護要員として動員された「ひめゆり学徒隊」が動き始めた日でもある。戦争は政治家や将軍だけでなく、名もなき人々の人生を大きく変えてしまう。若い学生たちが戦場に動員されたという事実は、戦争の現実を静かに語っている。
こうして3月23日を振り返ると、歴史は単なる年表ではないことに気づく。宗教者の信念、武将の戦い、政治家の思想、そして普通の人々の運命。それぞれが重なり合いながら、一つの時代を形作っている。
歴史を学ぶ意味は、過去を知るだけではない。そこに現れた人間の選択や思想の変化を通して、今の社会をどう生きるかを考える手がかりを得ることにあるのだろう。3月23日は、そのことを静かに問いかけてくる一日である。

