kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日3月21日 1945桜花特別攻撃隊初出撃、ほかwikipedia沖縄で鹵獲された桜花11型

3月21日
20250321金曜日旧暦2月22日大安(己丑つちのとうしキチュウ)月齢 21
乙巳きのとみ年己卯つちのとう月己丑つちのとうし日  年末まであと285日
吉方位 陽遁日
https://ja.wikipedia.org/wiki/3%E6%9C%8821%E6%97%A5
3月21日の出来事
1566年 – イングランドの宗教改革指導者トマス・クランマーが女王メアリー1世の命により火刑[1]。
1934年 – 函館大火が発生。死者2,166人。
1945年 – 第二次世界大戦: 大本営が硫黄島玉砕を発表。
1945年 – 第二次世界大戦: ロケット特攻機「桜花」が初めて実戦投入されるも、出撃した部隊は母機もろとも全滅し、戦果無し。
1960年 – 南アフリカ共和国はヨハネスブルグ近郊のシャープビル(英語版)でシャープビル虐殺事件が発生(cf. #国際人種差別撤廃デー)。警察官は群集に対して発砲を開始し、69人が死亡、180人以上が負傷した。

2022年 – 中国東方航空5735便墜落事故。死亡132人全員。

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1566年 – イングランドの宗教改革指導者トマス・クランマーが女王メアリー1世の命により火刑[1]。

トマス・クランマー(Thomas Cranmer, PC, 1489年7月2日 – 1556年3月21日)は、イングランドの聖職者。カンタベリー大司教(在位:1533年 – 1555年)。イングランドの宗教改革の指導者であり殉教者。
イングランド中部ノッティンガムシャーのジェントリの家庭に生まれる。12歳で父を亡くし貧乏ではあったが聡明で、14歳でケンブリッジ大学へ入学した。ところが21歳の頃にジョーンという町娘(酒場の女性とも)を妊娠させ結婚したことが周囲の非難を浴び、女人禁制の大学ではフェローの地位を失い、私生活でも子供の誕生と引き換えにジョーンを産褥で失ってしまい、僅か1年で結婚生活が終わった。スキャンダルが尾を引いて学士号取得も7年かかった[1]。
宗教改革の推進と失脚
ヘンリー8世とジェーンの息子エドワード6世が即位、護国卿として実権を握るサマセット公の下で更に宗教改革を推し進めた。1549年と1552年の2度に渡り制定した共通祈祷書を制定、これを付け加えた礼拝統一法(英語版)が制定、儀式にカトリック的要素を残しながらも礼拝文を1冊に纏める試みが行われた[3][8]。
ところが、1553年にエドワード6世が死亡、ノーサンバランド公ジョン・ダドリーの画策でジェーン・グレイが擁立されると危機に立たされた。計画が失敗したノーサンバランド公は処刑、新たに即位したメアリー1世からジェーン擁立に与したとしてクランマーもロンドン塔へ投獄されたからである。女王はイングランドをカトリックの国家にするという意思を表明、国教会は苦境に立たされ、審問や法廷に引きずり出されたクランマーは教義討論に出席したり、必死に女王へ助命嘆願したが却下され、1555年9月に開かれた裁判で異端の烙印を押され破門と死刑に決まった[9]。
クライスト・チャーチに掲げられているクランマー、ラティマー、リドリーの焚刑を描いたステンドグラス
プロテスタントを迫害し、女性子供を含む約300人を処刑したため、「ブラッディ・メアリー(血まみれのメアリー)」と呼ばれたメアリー1世はプロテスタントの教役者達を片っ端から逮捕、クランマーもその例外ではなかった。獄中で生への執着が芽生えたクランマーは5度も信仰を撤回してカトリック転向を宣言したが、助からないことを悟ると、オックスフォードで執行された処刑当日の1556年3月21日に今までの転向を否定し、命惜しさに転向したことを告白、キリストの敵である教皇を認めないと宣言した。そして転向書に署名した右手を真実に反することを書き連ねたとして燃え盛る炎に突っ込み、全身火炙りにされた。処刑されたプロテスタントの殉教者の中には、ヒュー・ラティマー、ニコラス・リドリーらがいる[3][10]。

1934年 – 函館大火が発生。死者2,166人。
1945年 – 第二次世界大戦: 大本営が硫黄島玉砕を発表。
1945年 – 第二次世界大戦: ロケット特攻機「桜花」が初めて実戦投入されるも、出撃した部隊は母機もろとも全滅し、戦果無し。

特徴
スミソニアン博物館ウドバー・ヘイジー・センターに展示される桜花二二型
「桜花」は機首部に大型の徹甲爆弾を搭載した小型の航空特攻兵器で、母機に吊るされて目標付近で分離し発射される。その後は搭乗員が誘導して目標に体当たりさせる。一一型では母機からの切り離し後に固体燃料ロケットを作動させて加速、ロケットの停止後は加速の勢いで滑空して敵の防空網を突破、敵艦に体当たりを行うよう設計されていたが、航続距離が短く母機を目標に接近させなくてはならないため犠牲が大きく、二二型以降ではモータージェットでの巡航に設計が変更されている。日本海軍では本土決戦への有力な兵器と見なし、陸上基地からカタパルトで発進させることができる四三乙型などの大量配備を図ろうとしていた。
秘匿のため航空機に自然名を付けるという発想から航空本部伊東裕満中佐によって「桜花」と命名された[3]。初戦果を報じた1945年5月28日の新聞では、ロケット機「神雷」と呼称された[4]。開発段階では発案者の名前を取り大⃝(マルダイ)部品」(○の中に「大」の文字)とも呼ばれた。連合国側からは、自殺(攻撃)を行う「愚か者」の機体との意味合いで、日本語の「馬鹿」にちなんだBaka Bomb(単にBakaとも)というコードネームで呼ばれていた[5]。
終戦までに11型が製造され755機生産された[6]。桜花で55名が特攻して戦死した[7]。専門に開発され実用化された航空特攻兵器としては世界唯一の存在と言われる[8][注釈 1]。
桜花を搭載した一式陸上攻撃機(一式陸攻)は桜花の重量により速度が低速となり運動性も大きく損なわれる為、第1回目の桜花攻撃では、アメリカ艦隊の遥か手前で、アメリカ軍戦闘機に母機の一式陸攻が全滅させられ、桜花を射出することもできなかった[10]。その後、沖縄にて桜花を鹵獲し徹底して調査したアメリカ軍は、桜花が射出されるとその高速の為に迎撃が困難であると分析し大きな脅威と認識した為、射出前の母機となる航空機を最優先攻撃目標として攻撃するように全軍に徹底した[11]。その為、母機の一式陸攻の多くが撃墜され未帰還率が高くなった[12]。アメリカ軍の警戒が厳重な中で、桜花は射程が限られており、母機が十分な護衛機無しで投下地点となる目標の近距離まで到達する必要がある為に、多数のアメリカの迎撃戦闘機を鈍重な爆撃機で突破しなければならない状況では、桜花を使用した攻撃が成功する確率は低かった。その為、桜花母機が最初に接触する敵機動部隊の外周に配置されたピケットラインの駆逐艦に対し攻撃するケースが多くなり、戦果は駆逐艦に集中する事となった[13]。
開発まで
桜花の着想は、航空偵察員大田正一海軍特務少尉が、日本陸軍が母機(爆撃機)から投下する遠隔操作・無線誘導・ロケット推進の対艦ミサイル(対艦誘導弾)である(イ号一型甲無線誘導弾・イ号一型乙無線誘導弾)を開発中との情報を得て、イ号一型甲製作担当の三菱名古屋発動機製作所から設計の概要を聞きだし、誘導装置の精度が悪く実用化にはほど遠いと知り、誘導装置を人間におきかえるのが一発必中を実現する早道だと確信して、大田が東大に足を運んだところから軌道に乗る[14]。
*太田正一—大田 正一(おおた しょういち、1912年〈大正元年〉8月23日 – 1994年〈平成6年〉12月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は大尉。特攻兵器桜花の発案者。終戦後に逃亡を図りその後も正体を隠して3人の子を設け生きながらえた。
日本軍側の戦闘303の安部によれば、上方から襲い掛かってきた敵戦闘機と戦っている間に陸攻隊は見えなくなってしまったが、ようやく、煙をひきながら垂直上昇中の1機を発見した。やがてその陸攻は半円を描いて墜落をはじめると、途中で炎のかたまりとなって洋上に四散したという。そののち15分ほど空戦上を必死になって駆け回ったが、敵味方とも発見することができず、やむなく単機で帰投しようと反転してしばらく飛んでいると、バラバラで戦っていた零戦隊が集結し、隊長の岡嶋らと合流できた[102]。
空戦の結果、陸攻隊は18機全機撃墜され全滅、零戦隊は30機中10機が未帰還という結果に終わった。桜花隊は三橋謙太郎大尉ほか14名が未帰還となった。18機の母機が全機撃墜されるのにかかった時間は15分から20分程度であった。この戦いで後ろを取られ、必死で機体を左右に滑らせて射線をかわすも遂に被弾して火を噴き爆発、桜花を吊ったまま墜落する一式陸攻の姿を記録したF6Fのガンカメラ映像が残っている。 この戦闘で攻撃711飛行隊:攻撃隊指揮官・野中五郎少佐ほか134名、戦闘306飛行隊:伊澤勇一大尉ほか6名、戦闘307飛行隊:漆山睦夫大尉ほか2名も未帰還となった。出撃命令がなかったレーダー搭載型一式陸攻の電探員によれば桜花1機が整備ミスで出撃できず、離陸直後に零戦2機が空中衝突したと言う。第一神雷部隊の陸攻隊は離陸後、攻撃隊内では意図をもって連絡を取っていた[103]が司令部には一本の電報もなく、司令部は帰還した戦闘機隊から直接報告を聞いて戦況を把握したという。この日生還した零戦はF6F1機を確実に撃墜した安部をはじめ、ほとんどの機が敵機撃墜を報告した[102]。
第七ニ一海軍航空隊の戦闘詳報には「神雷攻撃の戦機の得ざりしこと並びに直掩戦闘機の出動率僅少なりしことが、この作戦を不成功ならしめたる原因にして、次回作戦に対し大いに研究の余地あり」「第一回神雷攻撃を敢行し、桜花機の使用の限界を判明とし、その後の作戦に資する所、極めて大なり」と記されていた[13]出撃を強行した宇垣中将は陣中日記戦藻録に「其の内援護戦闘機の一部帰着し悲痛なる報告を致せり。即1420頃敵艦隊との推定距離5、60浬に於いて敵グラマン約50機の邀撃を受け空戦、撃墜数機なりしも我も離散し陸攻は桜花を捨て僅々10数分にて全滅の悲運に會せりと。嗚呼」と記している[104]。
軍や国民の期待とは裏腹に桜花特攻は1945年6月22日第十回神雷桜花特別攻撃隊6機の全滅と沖縄戦の終結により一旦出撃が中止され、本土決戦準備として、陸攻搭乗員400名と母機の一式陸攻は1945年7月に石川県の小松基地に移動、岡村ら司令部要員は松山基地に移動、桜花搭乗員75名は宮崎県日向市の冨高基地に移動したが、出撃することもなくそのまま終戦を迎えている[133]。
また、桜花は本土決戦の為の有力兵器と看做され、弱点の航続距離の延長型や地上から発射可能な桜花などの開発も進められたが、実戦に投入されることは無かった。(詳細は#派生型を参照)
設計者の三木忠直技術少佐は、戦後に鉄道技術者に転身し、新幹線の設計を行っている[145]。桜花の設計に関与した事を後悔しており、1952年に戦後初めて雑誌「世界の航空機」が桜花の特集記事を掲載する際に三木に証言を依頼したが、「日本の技術者全体の名誉の為にも桜花は我が技術史から抹殺されるべきである」と証言を拒否していた[146]。その後、昭和30年代に世界で最初に音速を突破した航空機となったベル X-1のドキュメンタリー映画を見た三木は、ベル X-1が母機B-29から発射される姿が桜花そのものである事に驚き、特攻機のシステムが、未知の音速突破に挑む機体のシステムの一部となったことに救われた気持ちになったと話している[140]。実際にアメリカが桜花のシステムを参考にしたかは不明であるが、三木は、X‐1号の開発が始まったのは終戦直後の1946年であり、時期的に見て間違いないと判断していた。その後、日本の特攻兵器を調査している退役米海軍中佐に三木が会った際、中佐は1945年6月付の米空軍による桜花に関しての詳細な調査資料を三木に見せ、「この資料から見てX-1のテストが『桜花』を参考にしたことは間違いないだろう」と答えたほか[147]、ベル X-1が音速を超えた飛行時のパイロットチャック・イェーガーと三木が会談した時に、イエーガーが「桜花も銀河も、当時、世界の最高技術でした。アメリカ軍が、三木さんの技術を参考にした可能性があります」と述べたという[148]。1968年には『神雷特別攻撃隊』も出版している[149]。

1960年 – 南アフリカ共和国はヨハネスブルグ近郊のシャープビル(英語版)でシャープビル虐殺事件が発生(cf. #国際人種差別撤廃デー)。警察官は群集に対して発砲を開始し、69人が死亡、180人以上が負傷した。

概要
アパルトヘイト政策を進める南アフリカ政府は、1952年にパス法を成立させ、国内(バントゥースタンを含む)に居住する18歳以上の男性黒人に身分証の携帯を義務付けた。政府はパス法を黒人女性にも適用し、白人との分離政策の強化を図った。

このような政府の方針に対して、アフリカ民族会議(ANC)はパス法に対する抗議活動を1960年3月31日に実施することを決定した。しかし、ANCに対抗するパン・アフリカニスト会議(英語版)(PAC)は、ANCが主導権を握る抗議活動に反発し10日前の3月21日の実施を主張したが、賛同を得ることはできなかった。PACはこのため独自に抗議活動を実施することを決定した。

3月21日、午前10時頃にPACが組織した5,000~7,000人の群集は逮捕を覚悟で身分証を持たずにシャープビルの警察署前で抗議行動を開始した。警察官は群集に対して解散するように警告したが群集は解散しなかった。警察は抗議集団の最前線に装甲車を配備した。

午後1時15分頃、警察官は群集に対して発砲を開始し、69人が死亡、180人以上が負傷した。群集はパニック状態となり、周辺は騒乱状態に陥った。

2022年 – 中国東方航空5735便墜落事故。死亡132人全員。

チャットgpt先生の3月21日のエッセイ

3月21日の随想

3月21日は、歴史の中で数々の出来事が刻まれた日である。この日を振り返ると、人間の信念、悲劇、戦争、そして技術の発展が交錯する様が見えてくる。

1566年、イングランドの宗教改革の指導者トマス・クランマーは、メアリー1世によって火刑に処された。彼はヘンリー8世の離婚問題に関与し、イングランド国教会の確立に貢献した人物である。死を目前にしながらも、自らの右手を火に差し出し、己の信仰を貫いたという。信念のために命を捧げる姿勢は、宗教や思想を問わず、時代を超えて尊敬に値するものだろう。

一方、1934年のこの日、日本では函館大火が発生し、2,166人が犠牲となった。強風の中で広がった火の手は街を焼き尽くし、人々の生活を一変させた。自然の猛威と人間の無力さを思い知らされる災害であり、同時に復興へ向けた人々の強さもまた試された出来事である。

また、第二次世界大戦中の1945年3月21日、大本営は硫黄島での日本軍の玉砕を発表した。この戦いは、圧倒的な戦力差の中での激戦であり、日本兵たちは最後まで戦い抜いたとされる。同じくこの日、ロケット特攻機「桜花」が初めて実戦投入されるも、出撃した部隊は母機もろとも全滅し、戦果を上げることはできなかった。桜花は、敵艦に体当たりすることを目的とした兵器であり、その設計には技術者たちの努力が込められていた。しかし、搭乗員の生還を前提としないこの兵器の存在は、戦争というものの非情さを象徴している。戦後、桜花の設計者であった三木忠直は、その開発を後悔し、日本の技術史から抹消すべきものと考えたという。しかし皮肉にも、その設計思想は後の超音速機の開発に影響を与えた可能性がある。技術の進歩が必ずしも平和のために使われるとは限らないという事実を、我々は忘れてはならない。

そして2022年、現代においても悲劇は繰り返された。中国東方航空5735便が墜落し、132人が命を落とした。事故原因の究明は進められたが、犠牲者の命は決して戻らない。技術が進化し、安全対策が強化された現代でも、なお航空事故は人類に試練を与え続ける。

このように、3月21日は歴史の中で様々な出来事が起こった日である。信念のために命を賭した者、災害や戦争に翻弄された者、技術の進歩がもたらした悲劇や希望。これらの歴史を振り返ることで、私たちは未来に何を残し、どのように生きるべきかを考える機会を得るのかもしれない。