kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日3月2日   1657(明暦3年1月18日)明暦大火、ほか写真wikipedia大火図

3月2日

20260302月曜日旧暦1月14日友引(12番乙亥きのといイツガイ)月齢 12.6

丙午ひのえうま年 庚寅かのえとら月 乙亥きのとい日 年末まであと304日

吉方位 陽遁日 乙亥きのとい日 南 大吉

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3月2日の出来事
754年(天平勝宝6年2月4日) – 鑑真が奈良に入洛する[1]。
1657年(明暦3年1月18日) – 明暦の大火発生。死者3万人から10万。

1942年 – 第二次世界大戦: アメリカ西海岸居住の日系人に、立ち退き・強制収容所への収容が命令される。

2000年 – 神戸市中央区でテレクラ放火殺人事件が発生。4人が死亡。

2023年 – 大川隆法、宗教家(* 1956年)死去67歳。

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754年(天平勝宝6年2月4日) – 鑑真が奈良に入洛する[1]。

鑑真と戒律
中国の揚州生まれ。14歳で智満について得度し、大雲寺に住む。18歳で道岸から菩薩戒を受け、20歳で長安に入る。翌年、弘景について登壇受具し、律宗・天台宗を学ぶ。律宗とは、仏教徒、とりわけ僧尼が遵守すべき戒律を伝え研究する宗派であるが、鑑真は四分律に基づく南山律宗の継承者であり、4万人以上の人々に授戒を行ったとされている。

揚州の大明寺の住職であった742年、日本から唐に渡った僧・栄叡、普照らから戒律を日本へ伝えるよう懇請された。当時、奈良には私度僧(自分で出家を宣言した僧侶)が多かったため、伝戒師(僧侶に位を与える人)制度を普及させようと聖武天皇は適当な僧侶を捜していた。

仏教では、新たに僧尼となる者は、戒律を遵守することを誓う。戒律のうち自分で自分に誓うものを「戒」といい、サンガ内での集団の規則を「律」という。戒を誓うために、10人以上の僧尼の前で儀式(これが授戒である)を行う宗派もある。日本では仏教が伝来した当初は自分で自分に授戒する自誓授戒が盛んであった。しかし、奈良時代に入ると自誓授戒を蔑ろにする者たちが徐々に幅を利かせたため、10人以上の僧尼の前で儀式を行う方式の授戒の制度化を主張する声が強まった。栄叡と普照は、授戒できる僧10人を招請するため唐に渡り、戒律の僧として高名だった鑑真のもとを訪れた。

栄叡と普照の要請を受けた鑑真は、渡日したい者はいないかと弟子に問いかけたが、危険を冒してまで渡日を希望する者はいなかった。そこで鑑真自ら渡日することを決意し、それを聞いた弟子21人も随行することとなった。その後、日本への渡海を5回にわたり試みたが、悉く失敗した。

鑑真の渡日は天平勝宝5年(753)12月7日、屋久島(多禰国)である。

朝廷や大宰府の受け入れ態勢を屋久島で待つこと11日、12月18日に屋久島から大宰府を目指し出港する。

翌19日に遭難するも大伴古麻呂と鑑真の乗った第二船は20日に薩摩国の秋目(秋妻屋浦/鹿児島県南さつま市坊津町秋目)に漂着[1]。

その後12月26日に、大安寺の延慶に迎えられながら大宰府に到着。

奈良の朝廷への到着は、翌年、天平勝宝6年(754)2月4日である。(●参照『唐大和上東征伝』『続日本紀』)

日本での戒律の確立
天平勝宝5年12月26日大宰府に到着、鑑真は大宰府観世音寺に隣接する戒壇院で初の授戒を行い、天平勝宝6年2月4日に平城京に到着して聖武上皇以下の歓待を受け、孝謙天皇の勅により戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、東大寺に住することとなった。4月、鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築き、上皇から僧尼まで400名に菩薩戒を授けた。これが日本の登壇授戒の嚆矢である。併せて、常設の東大寺戒壇院が建立され、その後、天平宝字5年には日本の東西で登壇授戒が可能となるよう、大宰府観世音寺および下野国薬師寺に戒壇が設置され、戒律制度が急速に整備されていった。

天平宝字2年(758)、淳仁天皇の勅により大和上に任じられ、政治にとらわれる労苦から解放するため僧綱の任が解かれ、自由に戒律を伝えられる配慮がなされた。 天平宝字3年(759)、新田部親王の旧邸宅跡が与えられ唐招提寺を創建し[2]、戒壇を設置した。鑑真は戒律の他、彫刻や薬草の造詣も深く、日本にこれらの知識も伝えた。また、悲田院を作り貧民救済にも積極的に取り組んだ。

天平宝字7年(763年)唐招提寺で死去した。享年76。

1657年(明暦3年1月18日) – 明暦の大火発生。死者3万人から10万。

概要
→「江戸の火事」も参照

アルノルドス・モンタヌスの『東インド会社遣日使節紀行』(1669年)の挿絵にある明暦の大火
明暦の大火・明和の大火・文化の大火を江戸三大大火と呼ぶが、明暦の大火における被害は延焼面積・死者ともに江戸時代最大であることから、江戸三大大火の筆頭としても挙げられる。

外堀以内のほぼ全域、天守を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失し、死者数については諸説あるが3万から10万と記録されている。この大火で焼失した江戸城天守閣は、再建する意見があったが、幕閣の重鎮であった保科正之が資金を市街の復興に充てるとする意見を主張し、これが採用されたため再建されることは無かった。そして現在に至るまで江戸城天守閣は復元も含めて再建されていない。

関東大震災・東京大空襲などの戦禍・震災を除くと日本史上最大の火災であり、ローマ大火・ロンドン大火・明暦の大火を世界三大大火とする場合もある。

影響
・大奥ではこれ以前は髪を結い上げることがなく安土桃山時代と同様の垂髪だったが、これ以降は一般武家や町人と同様に日本髪を結うようになった。
・大奥女中らが表御殿の様子がわからず出口を見失って大事に至らないように、松平信綱は畳一畳分を道敷として裏返しに敷かせて退路の目印(避難誘導路)とし、そのあとに大奥御殿に入って「将軍家(家綱)は西の丸に渡御されたゆえ、諸道具は捨て置いて裏返した畳の通りに退出されよ」と下知して大奥女中を無事に避難させた。
・多数の民衆が避難する際、下に車輪のついた長持「車長持」で家財道具を運び出そうとしたことで交通渋滞が発生、死者数の増大の一因となったことから、以後、車長持の製造販売が三都で禁止された。
・この大火の際、小伝馬町の伝馬町牢屋敷には150から300人ほどの囚人が収監されていたが、牢屋の炎上も時間の問題となった。牢屋の鍵は町奉行が管理しており、奉行所から何の通達もなかったことから、囚人たちが焼け死ぬのは必定であった。牢屋奉行の石出帯刀吉深は焼死を免れない囚人たちを憐れみ、独断で牢屋の鍵を壊し、囚人たちを集めて「この大火が収まったら必ず戻ってこい。もし、この機に乗じて雲隠れする者がいれば、地の果てまでも追い詰めて、その者のみならず一族郎党まで成敗する。だが、素直に戻れば、たとえ死罪の者でも、自分の命に代えても助けてみせよう」と申し渡し、囚人たちを逃がした。囚人たちは涙を流して吉深に感謝し、後日、全員が牢に戻ってきた。吉深は「たとえ囚人とはいえ、彼らは立派に義に報いてみせた。このような義理堅い者たちを、みすみす殺してしまうのは国の損失である」と幕閣に囚人たちの助命嘆願をし、幕府も吉深の意見を容れて囚人たちの刑を減免した。以後、緊急時に囚人たちを一時的に釈放する「切り放ち」が制度化され、江戸時代に計15回の切り放ちが行われた。
・当時74歳だった儒学者・林羅山は、この大火で自邸と書庫が焼失して衝撃を受け4日後に死去した。
当時、江戸に参府していたオランダ商館長(カピタン)ツァハリアス・ヴァグナー一行も大火に遭遇した。1979年5月10日のテレビ番組『歴史への招待』で「八百八町炎上す」と題して江戸の火事を放送した翌日、視聴者からこの一行の1人が描いたとみられる「1657年、江戸の大火」と題する水彩画が提供された[10]。
将軍家の家宝で天下三肩衝のひとつ・楢柴肩衝がこの大火で破損し修繕されたが、まもなく所在不明になっている。
明暦の大火ではその被害にもかかわらず、朝廷では災害防止の祈祷が行われず、翌年1月の大火を受ける形で同年3月5日になって初めて内裏紫宸殿において江戸の火災を受けた災害祈祷が行われていることから、このことが幕府の怒りを買って後西天皇の退位につながったとする説がある[11]。
台東区の田原町駅近辺にある仏壇通りは、幕府がこの一件の後に寺院を一所に集め、それに伴って神仏具専門店が集まったことでできた専門店街である[12]。

1942年 – 第二次世界大戦: アメリカ西海岸居住の日系人に、立ち退き・強制収容所への収容が命令される。

2000年 – 神戸市中央区でテレクラ放火殺人事件が発生。4人が死亡。

加害者

元町店の存在したビルにかつて同様のテレホンクラブを出店していたライバル店の経営者Aは、ビル側とのトラブルにより撤退を余儀なくされた。ところが撤退後に開店した同業他社が盛況ぶりを見せたことから、不満を抱いたAは、広島の麻薬密売グループ会長のBに対し1000万円の謝礼金を持って妨害工作を画策、Bは実行犯であるC・D・Eに対し放火を指示した。

犯行の際に、元町店の従業員が投げ返した火炎瓶でCが大火傷を負っており、熱傷の名医として知られている広島県広島市の長崎病院に入院したことが手がかりとなり、後に実行犯C・Dは逮捕された。指名手配を受けたEは、8年間逃亡していたが、2008年(平成20年)7月28日未明に、愛媛県新居浜市で逮捕された[2]。

2023年 – 大川隆法、宗教家(* 1956年)死去67歳。

大川 隆法(おおかわ りゅうほう、1956年〈昭和31年〉7月7日[PR 1] – 2023年〈令和5年〉3月2日)は、日本の宗教家、思想家、作家。幸福の科学の創始者・総裁。

2022年12月時点、説法回数は3,500回、著作の公称の発刊点数は日本国内で3,100書[PR 3][3]、作詞・作曲を手がけた作品は450曲を超える。幸福の科学のほか幸福実現党[PR 3]、ニュースター・プロダクション、ARI Productionなど、幸福の科学グループの多くの企業・団体で会長や総裁職を勤めていた[4]。

29歳年下の後妻(再婚)である大川紫央 (現総裁補佐)については、”坂本龍馬の生まれ変わり”であるとしている[5]。

趣味
趣味は時計コレクションで、1本数百万から数千万円する高級腕時計を保有しているという噂があり、全部で時価数十億円ともいわれ、日本一の腕時計コレクターとして知られる[81]。長男・宏洋によると、「父の部屋には数百本の腕時計が壁に吊り下げられ、それらをワインディングマシーンで動かしていた」とされる[82]。

チャットgpt先生の3月2日のエッセイ

3月2日 ― 火と誓い、そして選択の日

3月2日は、歴史の中で「強い意志」と「激しい炎」が交差する日である。

754年、唐から来日した高僧・**鑑真**が奈良に入洛した。幾度もの失敗と失明を乗り越え、ようやく日本の地を踏んだその歩みは、信念の象徴といえる。彼が伝えた戒律は、日本仏教に「かたち」を与えた。東大寺に戒壇を築き、正式な授戒制度を確立したことは、日本の宗教史における大きな転換点だった。

戒律とは、自らを律する誓いである。
欲望や怒りを制御し、共同体の秩序を守るための約束だ。

しかし同じ3月2日、歴史は別の「火」も記している。

1657年、江戸を焼き尽くした**明暦の大火**。数万とも言われる命が失われ、江戸城天守も焼失した。だがこの大火の後、都市構造は見直され、防火体制は強化され、復興の中で新しい江戸が築かれていった。破壊の後に、再建という意志が立ち上がったのである。

1942年には、第二次世界大戦下でアメリカ西海岸の日系人に対し強制収容が命じられた。国家の恐怖と偏見が、個人の尊厳を押し流した日でもあった。

そして2000年、神戸市で発生した**神戸テレクラ放火殺人事件**。
嫉妬と怨恨から計画された放火により、4人の命が奪われた。加害者側の一人は犯行時に負傷し、それが逮捕の糸口となったという。怒りに任せた選択は、必ずどこかで自らに跳ね返る。だがその報いが、失われた命を取り戻すことはない。

2023年3月2日には、宗教家であり幸福の科学創始者の**大川隆法**が死去した。多くの著作や活動を通じて支持を集める一方、議論も呼んだ存在だった。思想や信仰の力が人々を導くこともあれば、分断を生むこともある。その影響の大きさは、現代社会における宗教の在り方を改めて問いかけている。

こうして並べると、3月2日は「火」と「信念」の日であるように思える。

理想を貫く炎。
都市を焼く炎。
憎悪に燃える炎。
そして思想に灯る炎。

火は、同じ熱を持ちながら、向ける先によって意味を変える。

鑑真の火は、戒律という秩序を灯した。
明暦の大火は、都市再生の契機となった。
神戸の事件は、感情の暴走がいかに取り返しのつかない結果を生むかを示した。

3月2日は、私たちに問いかける。
その胸にある炎は、何を照らしているのか、と。

怒りに使うのか。
再建に使うのか。
理想を育てるために使うのか。

歴史は特別な人だけのものではない。
今日という一日も、やがて誰かの歴史になる。

だからこそ、炎の扱い方を誤らない選択をしたい。
3月2日は、その静かな決意を思い出す日にしたい。