3月17日
20260317火曜日旧暦1月29日大安(庚寅かのえとらコウイン)月齢 27.6
丙午ひのえうま年 辛卯かのとう月 庚寅かのえとら日 年末まであと289日
吉方位 陽遁日 庚寅かのえとら日 北西 大吉
https://ja.wikipedia.org/wiki/3%E6%9C%8817%E6%97%A5
3月17日の出来事
紀元前45年 – ローマ内戦: ムンダの戦い。年月日:紀元前45年3月17日 場所:ムンダ(現:オスナ近郊) 結果:カエサル派の勝利 損害:カエサル軍 48000人中 戦死1000人 元老院ポンペイウス軍 76000人中 戦死30000人。
1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 神戸大空襲。19450317から終戦までで 戦災家屋数14万1,983戸、総戦災者数は罹災者53万858人、死者7,491人[注 2]、負傷者1万7,002人
1945年 – 第二次世界大戦: 硫黄島の戦いで、米軍が硫黄島最北端まで到達し、全島を占領。
1945年 – 第二次世界大戦: アメリカ軍が占領し補強工事中だったライン川のルーデンドルフ橋が自然崩落。工兵28人が死亡。
1992年 – ブエノスアイレスのイスラエル大使館で自爆テロ。29人死亡。
2003年 – アメリカ大統領ジョージ・W・ブッシュによるイラク大統領サッダーム・フセインへの最後通牒演説。
2004年 – コソボ暴動。戦争:コソボ紛争
年月日:2004年3月17日
場所:コソボ
結果:1999年以降にコソボに帰還した全てのセルビア人を含む、多くのセルビア人の避難。アルバニア人による、多くのセルビア人住居の破壊。
交戦勢力
コソボのセルビア人 コソボのアルバニア人
損害 セルビア人 19人死亡、970人負傷、4,100人が難民化
アルバニア人 1人死亡、500人負傷
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紀元前45年 – ローマ内戦: ムンダの戦い。年月日:紀元前45年3月17日 場所:ムンダ(現:オスナ近郊) 結果:カエサル派の勝利 損害:カエサル軍 48000人中 戦死1000人 元老院ポンペイウス軍 76000人中 戦死30000人。
1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 神戸大空襲。19450317から終戦までで 戦災家屋数14万1,983戸、総戦災者数は罹災者53万858人、死者7,491人[注 2]、負傷者1万7,002人
1945年 – 第二次世界大戦: 硫黄島の戦いで、米軍が硫黄島最北端まで到達し、全島を占領。
1945年 – 第二次世界大戦: アメリカ軍が占領し補強工事中だったライン川のルーデンドルフ橋が自然崩落。工兵28人が死亡。
1992年 – ブエノスアイレスのイスラエル大使館で自爆テロ。29人死亡。
2004年 – コソボ暴動。戦争:コソボ紛争
年月日:2004年3月17日
場所:コソボ
結果:1999年以降にコソボに帰還した全てのセルビア人を含む、多くのセルビア人の避難。アルバニア人による、多くのセルビア人住居の破壊。
交戦勢力
コソボのセルビア人 コソボのアルバニア人
損害 セルビア人 19人死亡、970人負傷、4,100人が難民化
アルバニア人 1人死亡、500人負傷
暴動は2004年3月15日に始まった。この日、18歳のセルビア人、ヨヴィツァ・イヴィッチ(Jovica Ivić)が、コソボ中部のチャグラヴィツァ(Çagllavicë / Čaglavica)の村にて通りすがりざまに自動車から狙撃を受けた。村のセルビア人はデモ行動を起こし、銃撃に抗議して交通を封鎖した。3月16日、セルビア人の基礎自治体ズビン・ポトク(Zubin Potoku / Zubin Potok)内のチャバル(Čabar)村にて、4人のアルバニア人の子供がイバル川へと転落した。うち男児1人が生きて助かった。子供たちは、イヴィッチ銃撃に対する報復として、セルビア人によって川へと追い込まれたのではないかと疑われたが、警察はこの事実を確認していない。
翌3月17日には、数千人のアルバニア人が子供たちの死に抗議し、ミトロヴィツァ / コソヴスカ・ミトロヴィツァのアルバニア人地区とセルビア人地区を隔てるイバル川にかかる橋の南端に集結した。また、アルバニア人の侵入を防ぐために、大勢のセルビア人がこの橋の北端に集まった。NATO主導の平和維持部隊KFORは、催涙ガスやゴム弾、スタン手榴弾を使って橋を封鎖し、アルバニア人とセルビア人の隔離を図った。しかし、両勢力から銃や手榴弾による攻撃が始まり、少なくとも8人が死亡し(6人のアルバニア人と2人のセルビア人)、300人以上が負傷した。11人の平和維持部隊の兵士も負傷し、うち2人は重傷を負った。
暴力は3月18日も続き、最初の銃撃事件が起こったチャグラヴィツァやミトロヴィツァ、リピャン / リプリャン(Lipjan / Lipljan)、カストリオティ / オビリチ(Kastrioti / Obilić)、プリシュティナを含むコソボ全土で大規模な抗議行動が起こった。この日の終わりまでに死者数は28人、負傷者数は600人に至った。この中には、61人の平和維持部隊の兵士、55人の警察官が含まれている。国際連合の報道官イサベラ・カルロヴィッツ(Isabella Karlowitz)は、110の家屋と16の聖堂が破壊されたと述べた。カルロヴィッツはまた、セルビア人、ロマ、アッシュカリーなど3600人が暴力によって住居を失ったと話した[4][5]
チャットgpt先生の3月17日のエッセイ
3月17日という日 ― 勝利と崩壊、そして連鎖する人間の衝突
3月17日という日は、歴史を振り返ると「戦いの決着」と「その後に続く混乱」が何度も現れる日である。古代から現代まで、人間社会の緊張が一つの頂点に達し、勝利・崩壊・暴動という形で噴き出してきた。
紀元前45年のこの日、ムンダの戦いが起きた。これはガイウス・ユリウス・カエサルとポンペイウス派の最後の大決戦であり、ローマ内戦の事実上の終結となった。スペイン南部のムンダ近郊で、数万規模の軍がぶつかり、ポンペイウス派は壊滅した。カエサルの勝利はローマ共和国の終焉と、後の帝政への道を決定づける。つまりこの戦いは、単なる戦場の勝敗ではなく、政治体制の転換点でもあった。
しかし歴史は、勝利の裏に必ず大きな犠牲を伴う。約二千年後の1945年、同じ3月17日に日本では神戸大空襲が起こる。第二次世界大戦末期、神戸の市街地は大規模な焼夷弾攻撃を受け、数千人が命を落とし、数十万人が家を失った。同じ頃、太平洋では硫黄島の戦いが終局を迎え、米軍は島の最北端に到達し、事実上の占領を完了した。ヨーロッパ戦線では、ライン川の渡河拠点として注目されたルーデンドルフ橋が崩落し、多くの工兵が命を落としている。世界中の戦線で、戦争の終盤に向かう激しい衝突が同時に起きていた日だった。
戦争が終わっても、人間の対立が消えるわけではない。1992年にはアルゼンチンのブエノスアイレスでイスラエル大使館が爆破され、国際テロの脅威が世界に突きつけられた。さらに2004年にはコソボ暴動が発生し、民族対立が爆発した。セルビア人とアルバニア人の間に積み重なっていた不信と怒りは、ひとつの事件をきっかけに連鎖し、家屋の破壊、住民の避難、そして多数の死傷者を生む結果となった。
ここで共通して見えるのは、「出来事は突然始まるが、原因は長く積み重なっている」という事実である。ムンダの戦いは長い内戦の終着点だった。神戸空襲は世界大戦の末期の総力戦の一部だった。コソボ暴動もまた、民族紛争の歴史が背景にある。
3月17日の歴史は、ひとつの教訓を示している。
戦争や暴動は、その日に突然生まれるのではない。社会の緊張、政治の対立、民族の不信が長い時間をかけて蓄積し、ある瞬間に表面化するのである。
そしてもう一つ重要なのは、衝突の結果が必ずしも「終わり」ではないということだ。カエサルの勝利の後には帝政の時代が始まり、第二次世界大戦の終結の後には冷戦が始まった。コソボでも民族間の不信は今なお完全には解消されていない。
3月17日という日は、歴史の中で繰り返される人間の衝突の縮図のようにも見える。勝利の影に敗北があり、終結の背後には次の時代の緊張が潜んでいる。歴史を振り返ることは、単に出来事を知るだけではなく、人間社会がどのように衝突を生み出し、そしてどう向き合うべきかを考える手がかりでもあるのである。

