3月16日
20250316日曜日旧暦2月17日赤口(甲申きのえさるコウシン)月齢 16
乙巳きのとみ年己卯つちのとう月甲申きのえさる日 年末まであと290日
吉方位 陽遁日
https://ja.wikipedia.org/wiki/3%E6%9C%8816%E6%97%A5
3月16日の出来事
紀元前597年 – 新バビロニア王国がエルサレムを征服、エホヤキンに代えてゼデキヤを王に。(バビロン捕囚)
1968年 – ベトナム戦争、アメリカ軍によるミ・ライ村(ソンミ村)虐殺事件が起きる。死者米軍発表300人以上。ベトナム政府発表500人以上。
1969年 – ビアサ742便がベネズエラ・マラカイボに墜落、155人が死亡。(ビアサ742便墜落事故)
1988年 – ハラブジャ事件:イラクのサダム・フセイン政権がクルド人の住むハラブジャを毒ガス・神経ガスで攻撃し、約5,000人を殺害[4]。
————————————
紀元前597年 – 新バビロニア王国がエルサレムを征服、エホヤキンに代えてゼデキヤを王に。(バビロン捕囚)
概要
ネブカドネザルはユダ王国(南王国)の首都エルサレムを攻略した。ラキシュやアゼカを含め、ユダの他の都市も征服した。ネブカドネザルは、生き残った人々の大半をバビロンに強制移住させ、人々は捕囚にされる。 最初の捕囚は紀元前597年に、その後、紀元前587年または586年、紀元前582年または581年、最後の捕囚は紀元前578年に、行われたとされる。 流刑の後、ユダヤ人はアケメネス朝ペルシャの初代の王キュロス2世のキュロスの勅命(紀元前538年)によって解放され、故国に戻ってエルサレムで神殿を建て直すことを許される。
1968年 – ベトナム戦争、アメリカ軍によるミ・ライ村(ソンミ村)虐殺事件が起きる。死者米軍発表300人以上。ベトナム政府発表500人以上。
事件概要
1968年3月16日に、南ベトナムに展開するアメリカ陸軍のうち第23歩兵師団第11軽歩兵旅団・バーカー機動部隊隷下、第20歩兵連隊第1大隊C中隊(機動部隊には他に第1歩兵連隊第3大隊所属のA中隊と第3歩兵連隊第4大隊所属のB中隊、そして砲兵部隊があった)のウィリアム・カリー中尉率いる第1小隊が、南ベトナム・クアンガイ省ソンティン県にあるソンミ村のミライ集落(省都クアンガイの北東13km、人口507人)を襲撃し、無抵抗の村民504人[2](男性149人、妊婦を含む女性183人、乳幼児を含む子供173人)を無差別射撃などで虐殺した。集落は壊滅状態となり、生存者はわずか3人だった(生存者は2018年現在も生存している。最高齢者は事件当時43歳)。
さらにC中隊が何ら抵抗を受けていなかったにもかかわらず、B中隊が増派され、近隣の集落で虐殺を行っている。
もともとソンミ村はティンケー村といい、よくゴ・ディン・ジェム政権が行っていたことだが南ベトナム政府がソンミ村と改名していたもので、南北ベトナム統一後、名が戻されたのである。本多勝一は、ライフ誌が現場をミライと報じたが、実際の現場は隣のツークン部落のツァンニェン集落とコールイ部落のミイホイ集落であったとする。[3]
1969年 – ビアサ742便がベネズエラ・マラカイボに墜落、155人が死亡。(ビアサ742便墜落事故)
1988年 – ハラブジャ事件:イラクのサダム・フセイン政権がクルド人の住むハラブジャを毒ガス・神経ガスで攻撃し、約5,000人を殺害[4]。
チャットgpt先生の3月16日のエッセイ
3月16日という日
3月16日は、歴史の中で数々の悲劇が刻まれた日である。戦争と権力の暴力が人々の暮らしを押しつぶした日でもあり、それが単なる過去の出来事ではなく、現在にも影を落としていることを考えさせられる。
紀元前597年、新バビロニア王国によるエルサレムの征服は、「バビロン捕囚」という歴史的な悲劇を生んだ。ユダ王国の人々は故郷を追われ、異国の地で強制的に暮らすことを強いられた。異郷に生きるとはどのようなことか。その痛みは、時代を超えて世界の至るところで繰り返されている。
1968年、ベトナム戦争の最中に起きたミ・ライ村虐殺事件。無防備な村人たちが、戦場の狂気の中で一方的に命を奪われた。子ども、妊婦、老人——戦闘とは無縁のはずの人々が戦争の名のもとに殺された。これは戦争がもたらす非人道性の極みであり、戦後も長く語り継がれるべき事件である。
翌年の1969年には、ビアサ742便が墜落し、155人の命が失われた。戦争や虐殺とは違うが、それでも突然の悲劇によって奪われた命の重さは変わらない。人間の作った機械が、人間を空へ運ぶはずが、そのまま命を奪うことになる。その理不尽さを前にすると、人の技術もまた、限りあるものでしかないと感じざるを得ない。
1988年、イラクのハラブジャでは、サダム・フセイン政権による化学兵器攻撃が行われ、5000人ものクルド人が毒ガスによって命を落とした。戦争という大義名分のもとに、ある民族が狙い撃ちにされ、街ごと破壊された。現代においても、民族や宗教の違いが暴力の理由とされることがある。その愚かさを、私たちはどれほど学び取ることができているだろうか。
こうして3月16日の歴史を振り返ると、人間の加害性とその犠牲になる人々の姿が浮かび上がる。しかし、歴史とは単に悲劇の記録ではない。そこから何を学び、どう行動するかが重要なのだ。
戦争のない世界は幻想だろうか。それでも、記憶し続けること、語り続けること、そして暴力ではなく対話を選ぶこと。それが、歴史の上に立つ私たちの責任なのかもしれない。