3月16日
20260316月曜日旧暦1月28日仏滅(26番己丑つちのとうしキチュウ)月齢 26.6
丙午ひのえうま年 辛卯かのとう月 己丑つちのとうし日 年末まであと290日
吉方位 陽遁日 己丑つちのとうし日 北西 大吉
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3月16日の出来事
紀元前597年 – 新バビロニア王国がエルサレムを征服、エホヤキンに代えてゼデキヤを王に。(バビロン捕囚)
37年 – カリグラがローマ皇帝に即位。
729年(神亀6年2月12日) – 長屋王が謀叛の疑いで邸宅を包囲され自害。
1968年 – ベトナム戦争、アメリカ軍によるミ・ライ村(ソンミ村)虐殺事件が起きる。死者米軍発表300人以上。ベトナム政府発表500人以上。
1946年 – 片岡仁左衛門一家殺害事件。
日付 1946年3月
原因 怨恨
武器 斧
死亡者 十二代目片岡仁左衛門
小町とし子他3名
犯人 I
容疑 殺人
動機 怨恨
対処 無期懲役(1960年代に恩赦で釈放?)
1969年 – ビアサ742便がベネズエラ・マラカイボに墜落、155人が死亡。(ビアサ742便墜落事故)
1988年 – ハラブジャ事件:イラクのサダム・フセイン政権がクルド人の住むハラブジャを毒ガス・神経ガスで攻撃し、約5,000人を殺害[4]。
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紀元前597年 – 新バビロニア王国がエルサレムを征服、エホヤキンに代えてゼデキヤを王に。(バビロン捕囚)
概要
ネブカドネザルはユダ王国(南王国)の首都エルサレムを攻略した。ラキシュやアゼカを含め、ユダの他の都市も征服した。ネブカドネザルは、生き残った人々の大半をバビロンに強制移住させ、人々は捕囚にされる。 最初の捕囚は紀元前597年に、その後、紀元前587年または586年、紀元前582年または581年、最後の捕囚は紀元前578年に、行われたとされる。 流刑の後、ユダヤ人はアケメネス朝ペルシャの初代の王キュロス2世のキュロスの勅命(紀元前538年)によって解放され、故国に戻ってエルサレムで神殿を建て直すことを許される。
37年 – カリグラがローマ皇帝に即位。
729年(神亀6年2月12日) – 長屋王が謀叛の疑いで邸宅を包囲され自害。
長屋王(ながやおう/ ながやのおおきみ)は、飛鳥時代から奈良時代前期にかけての皇族、公卿。太政大臣・高市皇子の長男。官位は正二位・左大臣。
時代 飛鳥時代 – 奈良時代前期
生誕 天武天皇5年(676年)か13年(684年)
薨去 神亀6年2月12日(729年3月16日)
墓所 大和国生駒郡生馬山
現・奈良県生駒郡平群町梨本(宮内庁治定)
官位 正二位、左大臣
父母 父:高市皇子、母:御名部皇女
天智天皇と天武天皇の孫(母方の祖父と父方の祖父)。皇親勢力の巨頭として政界の重鎮となったが、対立する藤原四兄弟の陰謀といわれる長屋王の変で自殺した。
さらに当時の朝廷には、母親が非皇族かつ病弱であった聖武天皇を天皇に相応しくないと見なす考えがあり、先の聖武天皇の即位当日に行われた議政官全員に対する昇叙も高官たちの支援を取り付けるための措置であったとみられている[32]。聖武天皇は神亀4年(727年)11月に藤原光明子所生の皇子である基王を生れて間もなく皇太子に指名し[37]、基王が成人した後に譲位し、自らが太上天皇となって政治を行おうと目論む。なお、立太子後まもなく、大納言・多治比池守以下の諸官人が旧不比等邸に居住していた基王を訪問しているが、長屋王はこれに参加しておらず[38]、前代未聞の生後1ヶ月余りでの立太子を不満とし、反対の姿勢を明確に示した様子が窺われる[39]。結局、神亀5年(728年)9月に基王に満1歳になる前に先立たれてしまい、聖武天皇には非藤原氏系で同年に生まれたばかりの安積親王しか男子がいない状況となった。こうして、聖武系の皇位継承に不安が生じた状況の中で、藤原四兄弟が長屋王家(長屋王および吉備内親王所生の諸王)を抹殺した長屋王の変が発生する[36]。
神亀6年(729年)2月に漆部君足(ぬりべのきみたり)と中臣宮処東人が「長屋王は密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す」と密告し、それをうけて藤原宇合らの率いる六衛府の軍勢が長屋王の邸宅を包囲する。この密告の対象となる具体的な内容は、前年に夭折した基王を呪い殺したことであったものと見られる[40]。なお、『軍防令』差兵条では20名以上の兵士を動員する際には、天皇の契勅が必要とされており、長屋王邸を包囲するための兵力動員にあたっては、事前に聖武天皇の許可を得ていたことがわかる。舎人親王などによる糾問の結果、長屋王および吉備内親王と所生の諸王らは首をくくって自殺した。『獄令』決大辟条には、皇親及び貴族には死罪の代替として自尽が認められる(ただし、悪逆以上の大罪にはこれを認めない)という規定がある。従って、長屋王の自殺が自らの決断したものなのか、死罪の代替として宇合らに強要されたものなのかは明らかでない。
一方で、皇位継承権の埒外である藤原長娥子と所生の諸王(安宿王ら)には全く咎めはなかった。また、変に連座して罰せられた官人は外従五位下・上毛野宿奈麻呂ら微官の7名に過ぎず、皇親勢力の大物である舎人・新田部両親王が長屋王を糾弾する側に回るなど、長屋王が政権を握る中で藤原四兄弟に対抗できる勢力を構築できていなかったことは明白であった[41]。また、前述の神亀4年(727年)に行われた官人に対する統制強化・綱紀粛正策が、王自身に対してのみ手厚く、その他の官人に対しては冷淡な、自己本位的・独善的な面があり、多くの官人の不満を生んだとする見方もある[42]。更に長屋王の変そのものが、長屋王と吉備内親王夫妻及びその所生の皇子の存在そのものを自身の皇位と子孫への皇位継承への脅威とみなした聖武天皇が彼らを抹殺するために引き起こした事件とする見方も存在する[4]。
長屋王の自殺後、藤原四兄弟は妹で聖武天皇の夫人であった光明子を皇后に立て、藤原四子政権を樹立する。しかし、天平9年(737年)に天然痘により4人とも揃って病死してしまったことから、長屋王を自殺に追い込んだ祟りではないかと噂されたという[注釈 2]。なお、『続日本紀』によると、翌天平10年(738年)長屋王を「誣告」し恩賞を得ていた中臣宮処東人が、かつて長屋王に仕えていた大伴子虫により斬殺されてしまう。『続日本紀』に「誣告」と記載されていることから、同書が成立した平安時代初期の朝廷内では、長屋王が無実の罪を着せられたことが公然の事実となっていたと想定されている[43]。
日付 1946年3月
原因 怨恨
武器 斧
死亡者 十二代目片岡仁左衛門
小町とし子他3名
犯人 I
容疑 殺人
動機 怨恨
対処 無期懲役(1960年代に恩赦で釈放?)
片岡仁左衛門一家殺害事件(かたおかにざえもん いっか さつがい じけん)は、1946年(昭和21年)3月に発生した殺人事件である。歌舞伎役者一家5人が住み込みの男に殺された。
概要
1946年3月16日、東京都渋谷区千駄ヶ谷で歌舞伎役者・十二代目片岡仁左衛門一家5人が殺害されているのが見つかる。殺されたのは、片岡仁左衛門(当時65歳)、その妻で元日活女優の小町とし子(当時26歳)、四男(当時2歳)、女中2人(当時12歳と当時69歳)である[1]。5人とも頭を薪割り用の斧で殴られていた。特にとし子は頭部をめった打ちにされていた。
捜査線上に浮かんだのは、殺害された女中(当時12歳)の兄・I(当時22歳)で、事件直後から行方が分からなくなっていた。捜査本部はIを指名手配し、3月30日に逃亡先の宮城県川渡温泉で逮捕した[2]。
捜査によって、Iは仁左衛門宅に座付見習作家として住み込みで働いていたが、戦後間もない当時の食料事情の悪さなどから配給米を不当に搾取され、1日2食(合計米1合3勺程度)しか与えられていなかったことと、とし子との諍いや、事件直前に仁左衛門がIを「座付き作家としてセンスがない」などと罵倒したことが犯行の動機になったと伝えられている[3]。
また、Iは薪を焚いての炊事をさせられていたのに対し、夫妻は蓄えた米を電気コンロで炊き、たくさん食べていた。さらに事件前日にはこれまで渡していた配給米をメリケン粉に変えるととし子から告げられたうえ、夫妻と口論になって仁左衛門から「今夜原稿を書いたら出て行け!」と怒鳴られた。さらに提出した原稿を「これでも作家か!」と酷評され、憤激を抱えたままIは床に就いた。その翌日の早朝に便所に行った後に薪割り用の斧に足を躓かせ、それが契機となり斧で5人を殺害したという[要出典]。そしてIは台所にあった米とザラメを食べ、国民服に着替えた上で家にあった現金580円を盗んで現場から逃走した。なお、同じように冷遇を受けていた自身の妹まで殺害した理由についてIは「止めに入った妹を勢い余って殺してしまった」と供述しており、妹を殺害する動機は当然無く、偶発的に殺してしまったものである。
ただし以上は全て、Iの供述に基づいたものであり、仁左衛門夫婦のIに対する処遇などについては、遺族や関係者から異なる主張も出ている[4][5]。
Iはそれまでに精神障害の既往はなかったが、取り調べで事件当時から逃走に至るまでの記憶が欠落していることが明らかとなったため東京大学医学部精神科教授の内村祐之による精神鑑定が行われた。鑑定結果は、激しい情動のため一時的な意識障害をおこしていたことを示唆するものであった。一方、内村とは別に精神鑑定を行った菊池甚一は、少なくとも2人目以降の殺人については一時的に精神病状態であったと結論づけた。
1947年10月22日、Iは無期懲役の判決を受けた。求刑は死刑であり、5人を残虐な手段で殺害しており、責任能力が認められれば死刑相当の事件であった。この刑について、一般には精神鑑定により心神耗弱状態だったと認定されたためとの説が流布されているが、実際の判決では全ての行為について責任能力を肯定すべきであるとしており、内村、菊池いずれの鑑定も採用されていないし、刑法39条の適用もしていない。それにも係わらず死刑判決にならなかったのは、低栄養や片岡家における葛藤、犯行前夜からの紛争、不眠等の理由で、Iの感情が著しく興奮して安定を失っていたことを考慮したものとのことである。Iは1960年代に恩赦で釈放されたとされているが、詳細については不明である。
1968年 – ベトナム戦争、アメリカ軍によるミ・ライ村(ソンミ村)虐殺事件が起きる。死者米軍発表300人以上。ベトナム政府発表500人以上。
事件概要
1968年3月16日に、南ベトナムに展開するアメリカ陸軍のうち第23歩兵師団第11軽歩兵旅団・バーカー機動部隊隷下、第20歩兵連隊第1大隊C中隊(機動部隊には他に第1歩兵連隊第3大隊所属のA中隊と第3歩兵連隊第4大隊所属のB中隊、そして砲兵部隊があった)のウィリアム・カリー中尉率いる第1小隊が、南ベトナム・クアンガイ省ソンティン県にあるソンミ村のミライ集落(省都クアンガイの北東13km、人口507人)を襲撃し、無抵抗の村民504人[2](男性149人、妊婦を含む女性183人、乳幼児を含む子供173人)を無差別射撃などで虐殺した。集落は壊滅状態となり、生存者はわずか3人だった(生存者は2018年現在も生存している。最高齢者は事件当時43歳)。
さらにC中隊が何ら抵抗を受けていなかったにもかかわらず、B中隊が増派され、近隣の集落で虐殺を行っている。
もともとソンミ村はティンケー村といい、よくゴ・ディン・ジェム政権が行っていたことだが南ベトナム政府がソンミ村と改名していたもので、南北ベトナム統一後、名が戻されたのである。本多勝一は、ライフ誌が現場をミライと報じたが、実際の現場は隣のツークン部落のツァンニェン集落とコールイ部落のミイホイ集落であったとする。[3]
1969年 – ビアサ742便がベネズエラ・マラカイボに墜落、155人が死亡。(ビアサ742便墜落事故)
1988年 – ハラブジャ事件:イラクのサダム・フセイン政権がクルド人の住むハラブジャを毒ガス・神経ガスで攻撃し、約5,000人を殺害[4]。
チャットgpt先生の3月16日のエッセイ
3月16日という日 ― 権力と人間の極限が見える日
3月16日という日を歴史の中で眺めると、そこには一つの共通した影が見える。
それは「人間が極限状態に置かれたとき、何をするのか」という問いである。
紀元前597年、バビロン捕囚の始まり。
ネブカドネザル2世率いる新バビロニア軍がエルサレムを征服し、多くのユダヤ人を遠いバビロンへ連れ去った。祖国、信仰、生活のすべてを奪われた人々は流刑の民となる。だがこの経験は、のちにユダヤ民族の宗教とアイデンティティを強くする出来事にもなった。歴史はしばしば、悲劇の中から文化や信念を鍛え上げる。
同じ3月16日、ローマでは別の権力の物語が始まる。
西暦37年、カリグラが皇帝に即位した。最初は民衆に歓迎された若い皇帝だったが、やがて暴政と狂気の象徴として知られる存在となる。権力が人を変えるのか、それとも本性を表すのか。歴史家は長くその問いを議論してきた。
日本でもこの日は政争の影を残している。
729年、奈良時代の有力貴族であった長屋王が謀反の疑いをかけられ、自邸を包囲されて自害した。後世の史書では密告は「誣告(無実の告発)」だったと記されており、政権争いの犠牲だった可能性が高いと考えられている。権力の世界では、真実よりも政治の力学が先に動くことがある。
しかし3月16日の記録は、古代や政治だけではない。
人間の弱さや社会の歪みもまた、この日に刻まれている。
1946年、戦後の混乱の中で起きた片岡仁左衛門一家殺害事件。
貧困と怒りが積み重なり、若い男が一家5人を斧で殺害した。戦争直後の日本社会の緊張、飢え、格差が背景にあったとも言われる。個人の犯罪であっても、その影には社会の空気が映る。
そして戦争はさらに残酷な形で記録を残した。
1968年のミライ虐殺事件。
ベトナム戦争の最中、米軍部隊が無抵抗の村民を大量に殺害した。
さらに1988年には、サッダーム・フセイン政権がクルド人の町ハラブジャに化学兵器を使用したハラブジャ事件が起き、数千人が命を落とした。
古代の征服、宮廷の陰謀、戦後の犯罪、戦争の虐殺。
場所も時代も違う出来事が、同じ日付の下に並んでいる。
歴史を読むとき、人はしばしば「過去は遠い」と感じる。
だが、これらの出来事をつなぐのはすべて人間の感情だ。
恐れ、怒り、権力欲、絶望。
そして同時に、そこにはもう一つの共通点もある。
それは「後の時代の人々がそれを記録し、語り続けている」ということだ。
3月16日は、人間の暗い面を映し出す日でもある。
しかし歴史を振り返ることは、その暗さを繰り返さないための行為でもある。
日付そのものには意味はない。
意味を与えるのは、記憶する人間なのである。

