3月15日
20250315土曜日旧暦2月16日大安(癸未みずのとひつじキビ)月齢 15
乙巳きのとみ年己卯つちのとう月癸未みずのとひつじ日 年末まであと291日
吉方位 陽遁日
https://ja.wikipedia.org/wiki/3%E6%9C%8815%E6%97%A5
3月15日の出来事
紀元前44年 – ガイウス・ユリウス・カエサルがマルクス・ユニウス・ブルートゥスらに暗殺(英語版)される。
1945年 – 第二次世界大戦: 硫黄島の戦いで、アメリカ軍が硫黄島の完全占領を発表。
2019年 – クライストチャーチモスク銃乱射事件: ニュージーランド、クライストチャーチにあるモスクで銃乱射事件が発生、51人が死亡し、40人が負傷した[4]。
————————————–
紀元前44年 – ガイウス・ユリウス・カエサルがマルクス・ユニウス・ブルートゥスらに暗殺(英語版)される。
ガイウス・ユリウス・カエサル(ラテン語: Gaius Iulius Caesar、Juliusとも、紀元前100年 – 紀元前44年3月15日[注釈 1])は、共和政ローマ末期の政務官であり、文筆家。「賽は投げられた」(alea jacta est)、「来た、見た、勝った」(veni, vidi, vici) 、「ブルータス、お前もか」(et tu, Brute?) などの特徴的な引用句でも知られる。また彼が布告し彼の名が冠された暦(ユリウス暦)は、紀元前45年から1582年まで1600年間以上に渡り欧州のほぼ全域で使用され続けた。
出自
「ユリウス氏族はアエネアスの息子アスカニウスに由来し、したがって女神ウェヌスの子孫であり、また、カエサルの母方はアンクス・マルキウス(王政ローマ第4代の王)に連なる家柄である」と述べている[9]。
「カエサル」という家族名の起源としては以下の説がある。
大プリニウスの『博物誌』[11] によれば、母を犠牲にした子は幸運の持ち主で、スキピオ・アフリカヌスがそうであったが、初代カエサルは母の子宮を切った(caeso)ためにその名で呼ばれ、同じ理由でカエソ(というプラエノーメン)もそう呼ばれたとしている(ラテン語で「切る」という意味のcaedere(受動完了分詞 caesus)に由来か[12])。
『ローマ皇帝群像』においては、以下の4つが挙げられている[13]。
戦争で象(マウリ人の言葉、おそらくフェニキア語でcaesai カエサイ)を殺した説[注釈 2]
母の死後、切開して生まれた(上記参照)
当時ローマでは属州統治に現地民への脅迫や搾取・収賄を行う者が頻繁にいた。紀元前77年、カエサルは執政官経験者のグナエウス・コルネリウス・ドラベッラをこの罪で訴追した[36]。共和政ローマでは私人訴追主義で、訴追者自らが裁判で相手側弁護士と戦うため、多数決で判決を下す審判人を説得するための高度な修辞学が求められ、訴追者は政敵や訴追によって名を売ろうとする若者、職業的訴追人などが主であった[37]。
このドラベッラの告発に失敗し、復讐を恐れたカエサルは紀元前75年にロドス島へ赴き、キケロの師で[38] 修辞学の権威として著名であったアポロニウス・モロンに師事した[39]。彼には弁舌の才能もあったが、その努力を政治や軍事方面に向けた結果覇者となったため、キケロは他の雄弁家と比較することは避けたという[40]
この時カエサルはエーゲ海を船で渡っていたが、途中キリキアの海賊に囚われの身となった。海賊は身代金として20タレントを要求したが、カエサルは「20では安すぎる、50タレントを要求しろ」と海賊に言い放ち、その間海賊に対して恐れもせずに尊大に接するだけではなく、「自分が戻ったらお前たちを磔にしてやるぞ」と海賊に対し冗談すら言った。そして身代金が支払われて釈放されるとカエサルは海軍を招集し海賊を追跡、捕らえてペルガモンの獄につないだ。そしてアシア属州の総督に処刑するように命じるが、総督はこれを拒否して海賊を奴隷に売ろうとする。するとカエサルは海路を引き返して、冗談でほのめかした通りに自分の命令で海賊たちを磔刑に処したという[41]。
暗殺
詳細は「ガイウス・ユリウス・カエサル暗殺事件(英語版)」を参照
暗殺
紀元前44年3月15日[77] (Idus Martiae)、元老院へ出席するカエサルの随行者はデキムス・ユニウス・ブルトゥス・アルビヌスであった。妻・カルプルニアは前夜に悪夢を見た為、カエサルに元老院への出席を避けるよう伝え、カエサルも一度は見合わせることを検討したものの、デキムスの忠告によってカエサルは出席することとした。以前「『3月15日』に注意せよ」と予言した腸卜官(ちょうぼくかん、臓卜師とも。占い師のこと。)のウェストリキウス・スプリンナに元老院への道中で出会い、カエサルは「何も無かったではないか」と語ったが、スプリンナは「『3月15日』は未だ終わっていない」と返答した[78]。
カエサルは生前に死に方を問われた際に「思いがけない死、突然の死こそ望ましい」と答え、合わせて「私が無事息災でいることは、ローマのためにも必要である。私は長い間権力を握っており、もし私の身の上に何かが起こったら、ローマは平穏無事であるはずがない。もしかすると悪くなる可能性があり、内乱が起こるだろう」と語ったと伝えられている[84]。
エピソウド
カエサルは、背が高く引き締まった体をしていたが、当時の美男子の条件である「細身、女と見紛うほどの優男」には当てはまらなかった、また、頭髪が薄いことを政敵から攻撃されたため、はげた部分を隠すのに苦労していた。このため、内戦を終結させた業績を認められたことにより、いつ、どこでも月桂冠を被る特権を与えられたときは、大変喜んだという。なお、当時のカエサルが前髪の薄さを隠すためにしていた髪型は、シーザーカット(英語版)(カエサルカット)と呼ばれており、ヨーロッパでは古くから典型的な男性の髪型の一種となっている。また、てんかんの症状があったとも伝わっている[89]。
カエサルには多くの愛人がいた。やや誇張と思われるが、一説によれば元老院議員の3分の1が妻をカエサルに寝取られたと伝えられている。このためカエサルは「ハゲの女たらし」と渾名された。古代ローマでは凱旋式の際に、軍団兵たちが将軍をからかう野次を飛ばす習慣があったが、カエサルの凱旋式においての軍団兵たちは「夫たちよ、妻を隠せ。薬缶頭(ハゲ)の女たらしのお通りだ」と叫んだ[92]。「ハゲの女たらし」(羅: moechus calvus)と言われることを受け入れていたことは、カエサルの寛容さを説明する際に引き合いに出される。
1945年 – 第二次世界大戦: 硫黄島の戦いで、アメリカ軍が硫黄島の完全占領を発表。
総括電報
3月7日、栗林は最後の戦訓電報(戦闘状況を大本営に報告する一連の電報)である総括電報「膽参電第三五一号」を発する。名義は膽部隊長(第109師団長栗林)で、宛先は参謀次長(参謀本部:大本営陸軍部)と、栗林中将の陸軍大学校時代の兵学教官である恩師・蓮沼蕃陸軍大将(当時、帝国最後の侍従武官長)であった(「参謀次長宛膽部隊長蓮沼侍従武官長ニ伝ヘラレ度」「以上多少申訳的ノ所モアルモ小官ノ率直ナル所見ナリ 何卒御笑覧下サレ度 終リニ臨ミ年釆ノ御懇情ヲ深謝スルト共二閣下ノ御武運長久ヲ祈リ奉ル」)。
後の作戦立案などに生かすため参謀本部(大本営陸軍部)に送る戦訓電報を、畑違いである蓮沼侍従武官長にも宛てた理由としては、栗林が強く訴えている陸海軍統帥一元化と海軍批判が黙殺されることを危惧したためであり[223]、また、栗林が硫黄島で展開した一連の防衛戦術は、栗林が陸大学生時代に蓮沼教官から教わったものを基本としていることによる(「硫黄島ノ防備就中戦闘指導ハ陸大以来閣下ノ御教導ノ精神ニ基クモノ多シ 小官ノ所見何卒御批判ヲ乞フ」)。
防衛計画段階において海軍側が水際防御と飛行場確保に終始こだわったこと(地下陣地の構築と海軍の反対)
アメリカ軍上陸時に栗林が厳禁としていた上陸用舟艇・艦艇への砲撃を海軍の海岸砲が行った結果(防衛戦術)、摺鉢山の火砲陣地を露呈させてしまい全滅したこと(アメリカ軍の上陸)
海軍が摺鉢山に危険な魚雷庫を配置した結果、先述の砲撃により誘爆を起こし大爆発し周辺兵員を死傷させたばかりか、爆発時に空いた大孔によりアメリカ軍に突破口を与えてしまい摺鉢山の早期陥落につながったこと(摺鉢山の戦い)
特に海軍側の数多い大失態の例として以上の3例があり、以下の「膽参電第三五一号」の原文の太字は陣地構築および戦闘中における海軍の不手際や無能・無策の批判となる。なお、栗林はこのように海軍側および中央を猛烈に批判しているが、栗林自体は軍人を目指す弟に対し陸士ではなく海兵受験を薦めるなど海軍嫌いというわけではない。
一 現代艦砲ノ威力二対シテハ 「パイプ」山地区ハ最初ヨリ之ヲ棄テ水際陣地施設設備モ最小限トシ 又主陣地ハ飛行場ノ掩護二拘泥スルゴトナク 更二後退シテ選定スルヲ可トス(本件因ツテ来ル所海軍側ノ希望二聴従セシ嫌アリ)
二 主陣地ノ拠点的施設ハ 尚徹底的ナラシムルヲ要ス其ノ然ルヲ得サリシハ 前項水際陣地ニ多大ノ資材、兵力、日子ヲ徒ニ徒費シタルカ為ナリ
三 主陣地二於テ陣前撃滅ノ企図ハ不可ナリ数線ノ面的陣地二夫々固有部隊ヲ配置スル縦深的抵抗地区ヲ要ス
四 本格的防備二着手セシハ昨年六月以降ナリシモ 資材ノ入手困難、土質工事不適当、空襲ノ連続等二依リ 工事ノ進捗予期ノ如クナラサリシ 実情ナリ又兵力逐次増加セラレシ為兵カ部署ハ彌縫的トナリシ怨ミアリ
五 海軍ノ兵員ハ陸軍ノ過半数ナリシモ 其ノ陸上戦闘能力ハ全く信頼ニ足ラサリシヲ以テ陸戦隊如キハ解隊ノ上陸軍兵力ニ振リ向クルヲ可トス
尚本島ニ対シ海軍の投入セシ物量ハ陸軍ヨリ遥カニ多量ナリシモ之カ戦力化ハ極メテ不充分ナリシノミナラス 戦闘上有害ノ施設スラ実施スル傾向アリシニ鑑ミ陸軍ニ於テ之カ干渉指導の要アリ
之カ陸海軍ノ縄張的主義ヲ一掃シ両者ヲ一元的ナラシムルヲ根本問題トス
六 絶対制海、制空権下ニ於ケル上陸阻止ハ不可能ナルヲ以テ 敵ノ上陸ニハ深ク介意セス専ラ地上防禦ニ重キヲ置キ配備スルヲ要ス
七 敵ノ南海岸上陸直後並二北飛行場二突破楔入時 攻勢転移ノ機会アリシヤニ観ラルルモ 当時海空ヨリノ砲撃、銃撃極メテ熾烈ニシテ自滅ヲ覚悟セサル限リ不可能ナリシカ実情ナリ
八 防備上最モ困難ナリシハ 全島殆ト平坦ニシテ地形上ノ拠点ナク且飛行場ノ位置設備カ敵ノ前進楔入ヲ容易ナラシメタルコトナリ
殊ニ使用飛行機モ無キニ拘ラス敵ノ上陸企図濃厚トナリシ時機二至リ 中央海軍側ノ指令ニヨリ第一、第二飛行場ノ拡張ノ為 兵カヲ此ノ作業二吸引セラレシノミナラス 陣地ヲ益々弱化セシメタルハ遺憾ノ極ミナリ
九 防備上更二致命的ナリシハ 彼我物量ノ差余リニモ懸絶シアリシコトニシテ結局戦術モ対策モ施ス余地ナカリシコトナリ
特二数十隻ヨリノ間断ナキ艦砲射撃並ニ 一日延一六〇〇機ニモ達セシコトアル敵機ノ銃爆撃二依リ 我カ方ノ損害続出セシハ痛恨ノ至リナリ
組織的戦闘の終結
1945年3月14日の国旗掲揚式におけるアメリカ海兵師団長、左からケラー・ロッキー第5海兵師団長、グレーブス・アースキン第3海兵師団長、クリフトン・ケーツ第4海兵師団長
アメリカ海軍と海兵隊は硫黄島のあまりの損害の多さに「損害見積は未だ入手できない」と称して死傷者数の公表をせず、戦果の公表だけを行っていたが、第1回目の損害公表となった「2月21日1800現在、硫黄島での損害推定は戦死644、負傷4108、行方不明560」により、アメリカ海軍と海兵隊に対して猛烈な批判が寄せられた[224]。その中でハースト・コーポレーション社系列のサンフランシスコ・エグザミナー紙は「硫黄島でアメリカ軍が余りにも重大な損害を被りつつあり、アメリカ軍がこうした損害に耐えきれなくなるという情勢が生まれてくることを示す恐るべき証拠がある。タラワやサイパンでおこったことと同じであり、もしこの状態が続くなら、アメリカ軍は日本本土に到着する前に、消耗し尽くしてしまう危険もある」と今後のアメリカ軍の戦略を危惧する記事を報じたほどであった[225]。
アメリカ国内で激しいバッシングにさらされたニミッツは、あまりにも早い時期での勝利宣言とアメリカ国旗掲揚式開催を命じた。ターナーやスミスといった司令官が列席する中でニミッツの「これらの島々の日本帝国の政府のすべての権限は、ここに停止された。軍政長官を兼ねる小官が全ての権限を掌握し、指揮下にある軍司令官によって実施される」という宣言が代読されたが、まだ「クッシュマンズ・ポケット」や「ミート・グラインダー」などでは激戦が続いており、砲撃音などで式典が一時中断することもあった。司令官のスミスは感傷のあまり涙ぐみながら「ここが一番骨が折れたな」と副官に語り掛けていたが[226]、列席していた関係者は砲撃音や銃声で式典が中断するたびに「この島を確保しているのなら、この銃声はどこから聞こえてるんだ?」と皮肉を言い合った[227]。あまりにも早い勝利宣言を聞いた前線で戦っている海兵隊員は「(ニミッツ)提督は何の冗談を言ってるんだ?」と呆れたという[228]。
3月15日には、アメリカ国内のバッシングを和らげようと、硫黄島にいたターナーとスミスは記者会見で「アメリカ軍の損害は日本軍の1/5程度である」とする過小な損害と過大な戦果公表を行ったが、正確な死傷者数を知りたいという世論に対して、3月16日にニミッツはやむなく「3月6日までに、戦死者4,189人、行方不明441人、負傷者15,308人」と公表した。しかし、この数字も実際に受けた損害よりは過小であった[174]。さらにニミッツは特別の声明も出した[229]。
硫黄島の戦いは、アメリカ海兵隊の歴史始まって以来、168年で最も激しい戦いであった。硫黄島の戦いに参加したアメリカ人の間で、類稀な勇気は共通の美徳だった。[230]
その夜にアメリカ海兵隊員の中で無礼講のお祭り騒ぎがあった。これはニミッツの勝利宣言を受けてのものではなく、兵士の誰かが「ナチスドイツが降伏したぞ」とデマを流したことによるもので、この騒ぎで数名の負傷者を出した。翌3月17日にこれまで硫黄島での陸上戦を指揮してきたスミスが硫黄島を離れ、真珠湾に戻った。スミスは真珠湾で記者たちに「あの島を進む海兵隊を見ていると、ゲティスバーグの戦いのピケット・チャージの激戦を思わせるものがあった」「再び言うが、硫黄島攻略戦こそ、海兵隊がこれまで経験したいちばんの激戦だった。今次大戦後、もし海兵隊が必要かどうかという論争がおきるとしたら、この硫黄島の戦いが海兵隊はなくてはならないものと証明するだろう」と述べている。しかし、スミスが硫黄島を離れたのちも硫黄島での戦いは延々と続くこととなった[231]。
一方で、日本軍守備隊の状況は末期的となっていた。地下水が少なく、雨水を貯めて飲用水を確保しなければならなかった硫黄島において、ドラム缶で備蓄していた飲用水は次第に少なくなり、1日1人あたり茶碗1杯で耐え忍んできたが、それも払底し将兵は渇きに苦しんだ[232]。日本兵は友軍の遺体を見ると、必ず持っている水筒を探ったが水が入っている水筒はなかった[233]。硫黄島の数少ない飲用可能な井戸は2月26日にアメリカ軍に奪われていたが、日本軍はやむなく「水汲み決死隊」を編成し、夜中にその井戸に向かって選抜隊を潜行させたが、途中で海兵隊員に発見されて激戦の上全滅するということもあった[234]。
3月14日、小笠原兵団基幹部隊として栗林を支えてきた歩兵第145連隊長・池田が軍旗を奉焼し、16日16時過ぎ、栗林は大本営へ訣別(けつべつ)電報を送った。
「戦局最後ノ関頭ニ直面セリ 敵来攻以来麾下将兵ノ敢闘ハ真ニ鬼神ヲ哭シムルモノアリ 特ニ想像ヲ越エタル量的優勢ヲ以テス 陸海空ヨリノ攻撃ニ対シ 宛然徒手空拳ヲ以テ克ク健闘ヲ続ケタルハ 小職自ラ聊カ悦ビトスル所ナリ 然レドモ 飽クナキ敵ノ猛攻ニ相次デ斃レ 為ニ御期待ニ反シ 此ノ要地ヲ敵手ニ委ヌル外ナキニ至リシハ 小職ノ誠ニ恐懼ニ堪ヘザル所ニシテ幾重ニモ御詫申上グ 今ヤ弾丸尽キ水涸レ 全員反撃シ最後ノ敢闘ヲ行ハントスルニ方リ 熟々皇恩ヲ思ヒ粉骨砕身モ亦悔イズ 特ニ本島ヲ奪還セザル限リ皇土永遠ニ安カラザルニ思ヒ至リ 縦ヒ魂魄トナルモ誓ツテ皇軍ノ捲土重来ノ魁タランコトヲ期ス 茲ニ最後ノ関頭ニ立チ重ネテ衷情ヲ披瀝スルト共ニ 只管皇国ノ必勝ト安泰トヲ祈念シツツ永ヘニ御別レ申シ上グ 尚父島母島等ニ就テハ 同地麾下将兵如何ナル敵ノ攻撃ヲモ断固破摧シ得ルヲ確信スルモ何卒宜シク申上グ 終リニ左記駄作御笑覧ニ供ス 何卒玉斧ヲ乞フ」
国の為重き努を果し得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき
仇討たで野辺には朽ちじ吾は又 七度生れて矛を執らむぞ
醜草の島に蔓る其の時の 皇国の行手一途に思ふ
南の孤島から発信されたこの訣別電報は、本土最北端である海軍大湊通信隊稚内分遣隊幕別通信所により傍受され、通信員が涙ながらに大本営へ転送したとされる[235][236]。
大本営はこの決別電報で硫黄島守備隊は玉砕したと判断し、父島にあった第109師団父島派遣司令部と混成第1旅団を第109師団に再編成し、旅団長であった立花芳夫少将を中将に昇進させて師団長とした。しかし、3月23日に硫黄島から断続的に電文が発されているのを父島の通信隊が傍受した。その電文には21日以降の戦闘状況が克明に記されていたが、最後の通信は23日の午後5時で、「ホシサクラ(陸海軍のこと)300ヒガシダイチニアリテリュウダンヲオクレ」という平文電報がまず流れてきたので、通信兵が返信しようとすると、「マテ、マテ」と硫黄島から遮られて、その後に続々と電文が送られてきたという。その電文の多くが栗林による部隊や個人の殊勲上申であり、栗林は戦闘開始以降、部下の殊勲を念入りに調べてこまめに上申してきたが、最後の瞬間まで部下のはたらきに報いようとしていたのだと、電文を受信した通信兵たちは感じ、電文に記された顔見知りの守備隊兵士を思い出して涙した。しばらくすると通信は途絶えて、その後は父島からいくら呼びかけても返信はなかった[237]。
2019年 – クライストチャーチモスク銃乱射事件: ニュージーランド、クライストチャーチにあるモスクで銃乱射事件が発生、51人が死亡し、40人が負傷した[4]。
チャットgpt先生の3月15日のエッセイ
3月15日の随想
3月15日。この日は、歴史の転換点となった出来事が幾つも起こった日である。カエサルがブルートゥスらに暗殺され、「ブルータス、お前もか」と歴史に残る言葉を残した日。そして、硫黄島の戦いでアメリカ軍が完全占領を発表した日でもある。偶然の一致か、それとも歴史がこの日を選んだのか。
カエサルの死を思うとき、運命の不確かさを感じる。彼は名声と権力を手にしたが、その最期は信頼していた者たちの刃によって終わった。人の運命とはかくも皮肉なものであり、誰が味方で誰が敵なのか、時が経つにつれ変わるものなのだろう。ローマの礎を築いた英雄が、自らの志半ばで倒れたことに、歴史の無情さを思わずにはいられない。
一方で、硫黄島の戦いは、戦争の悲劇と兵士の犠牲を象徴する出来事だ。圧倒的な戦力差の中、日本軍は最後まで抗戦し、多くの命が失われた。戦況を冷静に分析しながらも、栗林忠道は国のために戦った。その姿勢には、カエサルと通じるものを感じる。彼もまた、自らの理想のために戦い、最後には運命に抗うことなく、その身を歴史に捧げたのだから。
この二つの出来事を通して見えてくるのは、人間の持つ「運命との向き合い方」だ。カエサルは己の信念を貫いたが、予言された運命には抗えなかった。栗林もまた、絶望的な戦況の中で、自らの役割を全うした。どちらも、最期まで誇り高く生きた点で共通している。
3月15日は、ただのカレンダー上の一日ではなく、歴史に刻まれた重みのある日だ。未来に生きる私たちは、この日に何を学ぶべきだろうか。ただ歴史を知るだけでなく、それをどう生かすかが問われるのかもしれない。