kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日3月14日 1883マルクス死去、ほか写真wikipedia東ベルリンでマルクス、エンゲルス、レーニン、スターリン行進

3月14日

20260314土曜日旧暦1月26日友引(24番丁亥ひのといテイガイ)月齢 24.6

丙午ひのえうま年 辛卯かのとう月 丁亥ひのとい日 年末まであと292日

吉方位 陽遁日 丁亥ひのとい日 南東 西 南西 大吉

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3月14日の出来事

313年(永嘉7年2月1日) – 永嘉の乱: 漢の捕虜となった西晋の皇帝・懐帝が漢の皇帝・劉聡により処刑される[1]。
1883年 – カール・マルクス、哲学者・経済学者(* 1818年)64歳没。
1979年 – 北京市郊外の工場に軍用機が墜落。乗員・乗客12人を含む工場の従業員など180人以上が死亡[7]。
1979年 – ドーハ国際空港でロイヤル・ヨルダン航空機が着陸に失敗して墜落。乗員・乗客64人のうち45人(うち日本人2人)が死亡(アリア=ロイヤル・ヨルダン航空600便墜落事故)[5]。

1991年 – 広島新交通システム橋桁落下事故 死者15人負傷8人。

2011年 – 東日本大震災・福島第一原子力発電所事故: 福島第一原子力発電所の3号機が水素爆発[10]。

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1883年 – カール・マルクス、哲学者・経済学者(* 1818年)64歳没。

カール・マルクス(ドイツ語: Karl Marx、英語: Karl Marx FRSA[注釈 2]、1818年5月5日 – 1883年3月14日)は、プロイセン王国時代のドイツの哲学者、経済学者、革命家。社会主義および労働運動に強い影響を与えた。1845年にプロイセン国籍を離脱しており、以降は無国籍者であった。1849年(31歳)の渡英以降はイギリスを拠点として活動した。

フリードリヒ・エンゲルスの協力のもと、包括的な世界観および革命思想として科学的社会主義(マルクス主義)を打ちたて、資本主義の高度な発展により社会主義・共産主義社会が到来する必然性を説いた。ライフワークとしていた資本主義社会の研究は『資本論』に結実し、その理論に依拠した経済学体系はマルクス経済学と呼ばれ、20世紀以降の国際政治や思想に多大な影響を与えた。

出自

父はユダヤ教ラビだった弁護士ハインリヒ・マルクス(ドイツ語版)[6][7]。母はオランダ出身のユダヤ教徒ヘンリエッテ(Henriette)(旧姓プレスブルク(Presburg))[6]。マルクスは夫妻の第3子(次男)であり、兄にモーリッツ・ダーフィット(Mauritz David)、姉にゾフィア(Sophia)がいたが、兄は夭折したため、マルクスが実質的な長男だった[8]。また後に妹が4人、弟が2人生まれているが、弟2人は夭折・若死にしている[8]。

母方の従兄に銀行家のベンジャミン・フレデリック・フィリップスがいる(欧州最大の電機メーカー、フィリップスの創業者ジェラルド・フィリップス(英語版)の父)。

マルクス家は代々ユダヤ教のラビであり、1723年以降にはトリーアのラビ職を世襲していた。マルクスの祖父マイヤー・ハレヴィ・マルクスや伯父ザムエル・マルクス(ドイツ語版)もその地位にあった[12]。父ハインリヒも元はユダヤ教徒でユダヤ名をヒルシェルといったが[13]、彼はヴォルテールやディドロの影響を受けた自由主義者であり[7][14][15]、1812年からはフリーメイソンの会員にもなっている[16]。そのため宗教にこだわりを持たず、トリーアがプロイセン領になったことでユダヤ教徒が公職から排除されるようになったことを懸念し[注釈 3]、1816年秋(1817年春とも)にプロイセン国教であるプロテスタントに改宗して「ハインリヒ」の洗礼名を受けた[13][19][20]。弁護士だった父ハインリヒの年収は1500ターラーで、これはトリーアの富裕層上位5%に入った[21]。さらにハインリヒは妻の持参金、屋敷のほか、葡萄畑、商人や農民への貸付金、金利5%のロシア国債540ターラーの資産などを保有していた[21]。

母方のプレスブルク家は数世紀前に中欧からオランダへ移民したユダヤ人家系であり[22]、やはり代々ラビを務めていた[8][23]。母自身もオランダに生まれ育ったので、ドイツ語会話や読み書きに不慣れだったという[22]。彼女は夫が改宗した際には改宗せず、マルクスら生まれてきた子供たちもユダヤ教会に籍を入れさせた[8][24]。叔父はフィリップスの創業者の祖父リオン・フィリップス(オランダ語版)でマルクスの財政援助者でもあった[25][26][27]。

マルクスは定職に就くことがなかったため(前述のように一度鉄道の改札係に応募しているが、断られている)、マルクス家の収入はジャーナリストとしてのわずかな収入と、エンゲルスをはじめとする友人知人の資金援助、マルクス家やヴェストファーレン家の遺産相続などが主だった。友人たちからの資金援助はしばしば揉め事の種になった。ルーゲやラッサールが主張したところを信じれば、彼らとマルクスとの関係が断絶した理由は金銭問題だった。1850年にはラッサールとフライリヒラートに資金援助を請うた際、フライリヒラートがそのことを周囲に漏らしたことがあり、マルクスは苛立って「おおっぴらに乞食をするぐらいなら最悪の窮境に陥った方がましだ。だから私は彼に手紙を書いた。この一件で私は口では言い表せないほど腹を立てている」と書いている[340]。エンゲルスの妻メアリーの訃報の返信として、マルクスが家計の窮状を訴えたことで彼らの友情に危機が訪れたこともある[590]。しかしエンゲルスは生涯にわたって常にマルクスを物心両面で支え続けた。『資本論』が完成した時、マルクスはエンゲルスに対して「きみがいなければ、私はこれを完成させることはできなかっただろう」と感謝した[591]。

ヴェストファーレン家でイェニーのメイドをしていたヘレーネ・デムート(ドイツ語版)(1820-1870、愛称レンヒェン)は、イェニーの母がイェニーのためにマルクス家に派遣し、以降マルクス一家と一生を共にすることになった。彼女は幼い頃から仕えてきたイェニーを崇拝しており、40年もマルクス家に献身的に仕え、マルクス家の困窮の時にはしばしば給料ももらわず無料奉仕してくれていた[201][659]。彼女は1851年にディーン通りのマルクス家の住居においてフレデリック(フレディ)・デムート(1851-1929)を儲けた[660]。フレディの出生証明の父親欄は空欄になっており、里子に出されたが、1962年に発見されたアムステルダムの「社会史国際研究所」の資料と1989年に発見されたヘレーネ・デムートの友人のエンゲルス家の女中の手紙からフレディの父親はマルクスであるという説が有力となった[661]。

このエンゲルス家の女中の手紙や娘のエリノアの手紙から、マルクスの娘たちはフレディをエンゲルスの私生児だと思っていて、エリノアはエンゲルスが父親としてフレディを認知しないことを批判していた事が分かる[662]。エンゲルス家の女中の手紙によれば、エンゲルスは死の直前に人を介してエリノアにフレディはマルクスの子だと伝えたが、エリノアは嘘であるといって認めなかった。それに対してエンゲルスは「トゥッシー(エリノア)は父親を偶像にしておきたいのだろう」と語ったという[663]。

ちなみにフレディ当人は自分がマルクスの子であるとは最後まで知らなかった。彼はマルクスの子供たちの悲惨な運命からただ一人逃れ、ロンドンで旋盤工として働き、1929年に77歳で生涯を終えている[664]。ロンドンの労働者階級の家庭の養子となって英国籍となり、機械工として修業後、機械工合同組合員となり、ハックニー労働党の創設メンバーと言われる[665]

1979年 – 北京市郊外の工場に軍用機が墜落。乗員・乗客12人を含む工場の従業員など180人以上が死亡[7]。
1979年 – ドーハ国際空港でロイヤル・ヨルダン航空機が着陸に失敗して墜落。乗員・乗客64人のうち45人(うち日本人2人)が死亡(アリア=ロイヤル・ヨルダン航空600便墜落事故)[5]。
1991年 – 広島新交通システム橋桁落下事故 死者15人負傷8人。

2011年 – 東日本大震災・福島第一原子力発電所事故: 福島第一原子力発電所の3号機が水素爆発[10]。

チャットgpt先生に聞いてみました。
質問:カールマルクス出現後 共産主義革命や政権運営で失われた人命の総計を教えてください。
回答:以下です。
カール・マルクスの思想を基にした共産主義政権のもとでの革命、粛清、大規模な人道的犯罪による死者数の概数は、推計によって異なりますが、一般的な歴史研究では約1億人とされています。

主な事例と推計死者数(概数):

  • ソビエト連邦(1917–1991)
  • スターリンの大粛清、強制収容所(グラグ)、ホロドモール(ウクライナ飢饉)など
  • 約2,000万~3,000万人
  • 中華人民共和国(1949–現在)
  • 大躍進政策、文化大革命、天安門事件など
  • 約4,000万~7,000万人
  • カンボジア(クメール・ルージュ政権、1975–1979)
  • ポル・ポト政権の大虐殺
  • 約170万~200万人(国民の約4分の1)
  • 北朝鮮(1948–現在)
  • 粛清、強制収容所、飢餓による死者
  • 約200万~400万人
  • その他の共産主義政権(キューバ、ベトナム、東欧諸国など)
  • 数百万~1,000万人規模

総計

概算で約1億人前後が、共産主義政権のもとでの粛清、政治的弾圧、政策失敗による飢餓などで命を落としたと推定されています。これは『共産主義黒書』(1997年)などの研究でもよく言及される数字です。

チャットgpt先生の3月14日のエッセイ

3月14日という日は、思想と現実の距離を考えさせる一日である。

1883年のこの日、ロンドンで息を引き取ったのがカール・マルクスだった。彼は亡命と貧困のなかで『資本論』を構想し、資本主義の構造を徹底的に分析した思想家である。その理論は、友人フリードリヒ・エンゲルスの支援なくしては世に出なかったと言われる。

ベルリンの街角には、かつて巨大な肖像画や行進の写真が掲げられていた。東側の時代、東ベルリンではマルクスやエンゲルス、そしてウラジーミル・レーニン、ヨシフ・スターリンの肖像を掲げたパレードが行われていた。思想は国家の正統性を支える象徴となり、革命は歴史の必然として語られた。

しかし、思想が国家を動かすとき、その帰結は理論の紙面をはるかに超える。

20世紀、マルクスの理論を掲げた政権のもとで、革命、粛清、強制収容所、政策失敗による飢饉などが発生し、膨大な犠牲が生まれた。とりわけソビエト連邦ではスターリン体制下の大粛清や強制収容所群島(グラグ)、ウクライナ飢饉などがあり、中華人民共和国では大躍進政策や文化大革命が社会に深い傷を残した。さらにカンボジアのクメール・ルージュ政権、朝鮮民主主義人民共和国などでも大規模な人命の喪失が報告されている。推計には幅があるが、総計は約1億人前後とする研究も存在する。

もちろん、これらの死がすべてマルクス個人の思想そのものから直接導かれたと単純化することはできない。歴史は、指導者の判断、権力闘争、国際環境、経済状況、そして人間の欲望と恐怖が複雑に絡み合って動く。しかし、理念が絶対化され、異論を許さない構造に組み込まれたとき、それは暴力を正当化する力を持ち得るという事実は重い。

同じ3月14日には、1979年の航空機事故や1991年の橋桁落下事故など、多くの命が失われた出来事も刻まれている。事故と革命は性質が違う。しかし、どちらも「人間が作った仕組み」の中で起きたという点では共通している。技術も制度も、本来は人を豊かにするためのものだが、設計や運用を誤れば、深刻な結果を招く。

マルクスは、生涯を通じて資本主義社会の矛盾を告発した。彼の問題意識――格差や搾取、労働の疎外――は、21世紀の今日でもなお消えてはいない。一方で、彼の名のもとに築かれた国家の歴史は、理想が権力と結びついたときの危うさを示している。

3月14日は、思想を称揚する日でも、断罪する日でもなく、問い直す日なのかもしれない。

理念は必要だ。しかし、理念が人間の命よりも上位に置かれた瞬間、歴史は悲劇へ傾く。
行進する肖像画の背後にいた無数の人々の顔を想像すること。
統計の数字の奥にある、一人ひとりの人生を思うこと。

その想像力こそが、過去から学ぶということなのだろう。

3月14日は、思想の力と、その重さを静かに見つめ直す日である。