2月7日
20260207土曜日旧暦12月20日先勝(壬子みずのえねジンシ)月齢 19.2
丙午ひのえうま年 庚寅かのえとら月 壬子みずのえね日 年末まであと327日
吉方位 陽遁日 壬子みずのえね日 北 大吉
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2月7日の出来事
199年(建安3年12月24日) – 下邳の戦い(英語版)が終結。降伏した呂布らが処刑。
1939年 – 滋賀県杉野村に存在していた土倉鉱山付近で雪崩が発生。飯場が2棟倒壊、埋没して死者10人、重傷者8人、軽傷者2人[3]。
1952年 – 埼玉県金子村B29墜落事故が発生。
1965年 – ベトナム戦争: アメリカが北ベトナム爆撃(北爆)を開始。
1982年 – 西成区覚醒剤中毒者7人殺傷事件。大阪府大阪市西成区山王の文化住宅(アパート)で覚醒剤中毒者の男が妻子・近隣住民ら7人を殺傷した。
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199年(建安3年12月24日) – 下邳の戦いが終結。降伏した呂布らが処刑。
呂布(りょふ、生年不詳 – 建安3年12月24日癸酉〈199年2月7日〉[1])は、中国後漢末期の武将・群雄。字は奉先。并州五原郡九原県(現在の内モンゴル自治区包頭市)の人。『三国志』巻七 呂布伝[2]、『後漢書』列伝六十五 呂布伝[3] などに記録がある。
剛勇をもって知られる。最初に丁原に仕えたが彼を殺害し、後に董卓に仕えるが、やはり殺害して放浪した。最期は曹操との戦いに敗れ、処刑された。
陳宮は呂布は壮士であり、善く戦って前に(敵は)ないと言っている[56]。一方で、陳登は呂布が勇のみで計りごとが無く、去就が軽はずみであると評している[57]。
陳寿は「虎の強さを持ちながら英略を持たず、軽はずみで狡猾で、裏切りを繰り返し、利益だけが眼中に有った。彼の如き人物が歴史上破滅しなかった例はない[58]。」と評する。
北宋代の軍事学者何去非(中国語版)は、自身が「用兵の第一人者」と評価した曹操[59] に対する呂布の戦ぶりを「兗州では転戦するに無敵であった」とし[60]、北宋以前における特筆すべき武人の一人という評価を下す。
明代の張溥(中国語版)は呂布を漢末第一の将軍とし、文人の中で第一とされた孔融と共に、周公旦に比せられた曹操[61] が殺すに余り有ったとする[62]。
小説『三国志演義』では、張飛は「三姓家奴(後のドラマでの吹き替えでは「三つの家の奴隷(字幕では三姓の奴隷)」)」と皮肉っていたという。
1952年 – 埼玉県金子村B29墜落事故が発生。
埼玉県金子村B29墜落事故(さいたまけんかねこむらB29ついらくじこ)は、1952年(昭和27年)2月7日に爆弾を満載した在日米軍のB-29爆撃機が、埼玉県入間郡金子村(現在の入間市)寺竹に墜落・炎上して爆発を繰り返し、村民4名と乗員13名が死亡した事故である。
事故の概要
2月7日夜、横田基地から50kg爆弾を満載して離陸したB29は、午後10時50分頃に同基地より北へ約8キロメートルほど離れた金子村寺竹[1]に墜落。この時東京電力の送電線を引っ掛けて切断し、立川市をはじめとする広範囲で停電が発生した[2]。墜落と同時に機体の燃料が飛散して引火し、現場近くの民家が燃え始めたため、やや離れた場所に住む住民1名が、消火と救護に駆けつけたが、誘爆に巻き込まれて即死した。当時は朝鮮戦争の最中で、米軍の爆撃機が頻繁に離陸しており、駆けつけた住民、警官、消防団も墜落機の周囲に散乱する爆弾のさらなる誘爆を警戒して救助や消火も全く手をつけられなくなった。
ある程度の時間をおいて爆発が繰り返され、消火活動が出来ずにそのまま燃え広がり、墜落から3時間後の2月8日午前2時頃には、火災は付近の民家7世帯11棟を全焼した。現場付近130戸の村民は、吹雪の中を金子村立金子中学校(現・入間市立金子中学校)と、金子村立金子小学校(現・入間市立金子小学校)に分かれて避難した。また、金子・東金子・豊岡・元狭山の各消防隊や警察などは現場より南に少し離れた金子郵便局に陣取って火災の様子を見守った。
午前2時の時点で、合計8回の爆発が起き、米軍側からの情報ではなお十数発の爆弾が散乱している可能性があると伝えられた。米軍は地元警察を通じ、付近住民に墜落現場の半径200メートル以内には決して近づかないよう警告した。火災は午前3時過ぎ頃自然鎮火したが、依然残る不発弾が爆発する可能性があり、なかなか現場へ近づけなかった。
最終的には、民家7世帯11棟が全焼、民家約50戸が爆風で半壊、住民4名が死亡。B29爆撃機の乗員13名は全員死亡した。後の現場検証では、爆弾の他に機関砲の銃弾などが何度も破裂して飛び散っていたらしいことが解った[3]。米軍当局は、墜落の原因としてB29爆撃機のエンジンの故障が考えられると発表している。
1965年 – ベトナム戦争: アメリカが北ベトナム爆撃(北爆)を開始。
1982年 – 西成区覚醒剤中毒者7人殺傷事件。大阪府大阪市西成区山王の文化住宅(アパート)で覚醒剤中毒者の男が妻子・近隣住民ら7人を殺傷した。
西成区覚醒剤中毒者7人殺傷事件(にしなりく かくせいざいちゅうどくしゃ しちにんさっしょうじけん)とは、1982年(昭和57年)2月7日に大阪府大阪市西成区山王三丁目[注 1]の文化住宅(アパート)で発生した[2]殺人・同未遂事件である[4]。
加害者の男H・T(事件当時47歳・無職)[1]は中学校卒業後間もなくのころから(一時的な中断期間を除き)長期間にわたり覚醒剤を濫用し続けていたため、事件前から慢性覚醒剤中毒(妄想状態)に陥っていた[4]。そして事件当時も常用し続けていた覚醒剤の急性中毒症状によって物音・話し声などに極めて過敏になり、「妻子や近隣住民たちがグルになって自分に嫌がらせをしている」との被害妄想を抱き[4]、妻や近隣住民ら計4人を刺殺し、息子ら3人に重軽傷を負わせた[5]。
チャットgpt先生の2月7日のエッセイ
二月七日――力が暴走するとき、歴史は血の色を帯びる
二月七日は、歴史を通して「力」というものの危うさを何度も私たちに突きつけてきた日である。英雄の剛勇、国家の軍事力、近代兵器、そして個人の暴力衝動。それらが制御を失ったとき、何が起こるのかを、この日は静かに、しかし執拗に語り続けている。
西暦199年、中国後漢末。下邳の戦いが終結し、呂布が処刑された日が二月七日である。呂布は「飛将」と称されるほどの武勇を誇り、その戦場での強さは同時代の誰もが認めていた。しかし、その剛勇は最後まで知略や節義と結びつくことはなかった。主君を殺し、裏切りを重ね、力を力のままに振るった末の最期である。陳寿が記した「虎の強さを持ちながら英略を持たず」という評は、個人の性格評にとどまらず、力そのものへの警句として響く。力は、それ自体では方向を持たない。方向を与える理性や倫理を欠いた力は、やがて自壊する。
時代は下って1952年、日本の二月七日は再び暴力と向き合うことになる。埼玉県金子村に墜落したB29爆撃機は、戦争の記憶がまだ生々しい中で、日常の只中に「戦争」を落とした。爆弾を満載した機体が夜空から落下し、爆発と炎が村を包む。死んだのは軍人だけではない。暮らしの中にいた村民が、何の選択権もなく命を奪われた。ここで行使された力は、個人の意思をはるかに超えた国家と軍事の力であり、それは呂布の剛勇以上に巨大で、無機質で、冷酷だった。
1965年の二月七日、アメリカは北ベトナムへの本格爆撃を開始する。国家が国家に向けて行使する暴力は、もはや顔の見えない数字と作戦名に置き換えられていく。しかし、爆弾が落ちる先には必ず人の生活がある。歴史は、この日を境に戦争が「拡大した」という事実を記すが、その背後で失われた無数の個々の人生までは記録しきれない。
1982年の大阪・西成区で起きた覚醒剤中毒者による殺傷事件も、また二月七日である。ここにあるのは英雄でも国家でもない、孤立した一人の人間の内側で暴走した力だ。薬物によって歪められた認知と妄想が、最も身近な存在に刃を向けさせた。これは戦争ではない。しかし、結果として生まれた死と負傷は、どの戦場とも変わらない重さを持つ。
こうして並べてみると、二月七日は不思議なほど一貫している。力が制御を失った瞬間、歴史はこの日を選んで記録してきたかのようだ。英雄の剣も、爆撃機の爆弾も、国家の戦争決定も、そして個人の狂気も、本質的には同じ問いを私たちに投げかける。
力を持つこと自体が問題なのではない。問題なのは、その力を誰が、どのような責任感と理性で扱うのかという一点である。呂布が欠いたもの、戦争が軽視しがちなもの、社会が取りこぼしてしまったもの――それらは形を変えながら、二月七日という日付の上に積み重なってきた。
この日は祝日でも記念日でもない。ただの一日である。しかし、だからこそ、歴史の中で繰り返された「力の失敗」を思い返すにはふさわしい日なのかもしれない。二月七日は、声高に教訓を語らない。ただ事実を並べ、静かに問い続けている。
人は、力を持ったとき、本当にそれを制御できているのか、と。

