kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日2月6日 1898米西戦争講和締結ほか写真wikipediaハバナで爆沈された米戦艦メイン

2月6日
20250206木曜日旧暦1月9日先負(丙午ひのえうまヘイゴ)月齢 7.5
乙巳きのとみ年戊寅つちのえとら月丙午ひのえうま日   年末まであと328日
吉方位 陽遁日
https://ja.wikipedia.org/wiki/2%E6%9C%886%E6%97%A5
2月6日の出来事
940年(天慶2年12月26日) – 藤原純友が藤原純友の乱を起こす。
1862年 – 南北戦争: ヘンリー砦の戦い。北軍が南北戦争で初勝利。時 1862年2月6日
場所 テネシー州スチュアート郡およびヘンリー郡、ケンタッキー州カロウェイ郡
結果 北軍の勝利  損害 北軍 15000人中 戦死40人 南軍 3000人中 戦死129人
1898年 – 米西戦争: アメリカとスペインが講和のためのパリ条約に調印。米西戦争 時 1898年4月21日 – 8月13日  場所 キューバ及びプエルトリコ(カリブ            海)フィリピン及びグアム(アジア・太平洋)  結果 アメリカ合衆国の勝利
パリ条約の締結 スペイン帝国の崩壊 フィリピン第一共和国の建国と米比戦争の開始
領土の変化 スペインはキューバに対する主権を放棄、プエルトリコ・グアム・フィリピンをアメリカに譲渡。 損害 キューバ米軍連合 3万+30万人中 キューバ軍戦死10665人米軍戦死361人 スペイン軍 34万人中 戦死捕虜20000人強。
1913年 – 福岡県の二瀬炭鉱でガス爆発事故。死者103人[1]。 
1944年 – 第六垂水丸遭難事故。定員350人のところ、その2倍に当たる約700人の乗客を乗せた第六垂水丸が、目的地の垂水港桟橋の約200m先海上で、急カーブを切ろうとした刹那横転し沈没した[1]。死者540人。
1958年 – 西ドイツ・ミュンヘンで英国欧州航空 (BEA) のチャーター機が離陸に失敗、イングランドのサッカークラブ、マンチェスター・ユナイテッドの選手8人を含む23人が死亡。(ミュンヘンの悲劇)
2004年 – モスクワの地下鉄でチェチェン人テロリストによる爆破事件発生。市民39人が死亡。
2016年 – 台湾南部地震 (2016年): 台湾高雄でマグニチュード6.4の地震[6]。地震により台南市のビルが崩壊・損傷し、死者117人、負傷者550人、損壊家屋200戸以上、損壊校舎186校の被害が発生した[7]。
2018年 – 花蓮地震 (2018年): 台湾花蓮県近海でマグニチュード6.4の地震[8]。死者17人、負傷者280人の被害が発生[9]。

2023年 – トルコ・シリア地震:トルコ南東部のシリアとの国境付近でマグニチュード7.8の地震が発生。その後も続いたマグニチュード7クラスの余震により、数十万の建物が損壊、トルコ、シリア両国合わせて約6万人が犠牲となる甚大な被害が発生[11]。

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940年(天慶2年12月26日) – 藤原純友が藤原純友の乱を起こす。

藤原純友の乱
承平天慶の頃、瀬戸内海では海賊による被害が頻発していた。従七位下伊予掾の藤原純友は海賊の討伐に当たっていたが、承平6年(936年)頃には伊予国日振島を根拠に1000艘を組織する海賊の頭目となっていたとされる。

しかし最近の研究では、純友が鎮圧の任に当たった海賊と、乱を起こした純友らの武装勢力の性格は異なることが指摘されている。純友が武力と説得によって鎮圧した海賊は、朝廷の機構改革で人員削減された瀬戸内海一帯の富豪層出身の舎人たちが、税収の既得権を主張して運京租税の奪取を図っていたものであった。それに対して純友らの武装勢力は、海賊鎮圧後も治安維持のために土着させられていた、武芸に巧みな中級官人層である。彼らは親の世代の早世などによって保持する位階の上昇の機会を逸して京の貴族社会から脱落し、武功の勲功認定によって失地回復を図っていた者達であった。つまり、東国などの初期世代の武士とほぼ同じ立場の者達だったのである。しかし彼らは、自らの勲功がより高位の受領クラスの下級貴族に横取りされたり、それどころか受領として地方に赴任する彼らの搾取の対象となったりしたことで、任国の受領支配に不満を募らせていったのである。

また、純友の父の従兄弟にあたる藤原元名が承平2年から5年にかけて伊予守であったという事実に注目されている。純友はこの元名の代行として現地に派遣されて運京租税の任にあたるうちに富豪層出身の舎人ら海賊勢力と関係を結んだとされている。

天慶2年(939年)12月、純友は部下の藤原文元に備前介藤原子高と播磨介島田惟幹を摂津国須岐駅にて襲撃させた。ちょうど、東国で平将門が謀反を起こし新皇を称したとの報告が京にもたらされており、朝廷は驚愕し、将門と純友が東西で共謀して謀反を起こしたのではないかと恐れた。朝廷は天慶3年(940年)1月16日小野好古を山陽道追捕使、源経基を次官に任じるとともに、30日には純友の懐柔をはかり、従五位下を授け、とりあえずは兵力を東国に集中させた。純友はこれを受けたが、両端を持して海賊行為はやめなかった。

2月5日、純友は淡路国の兵器庫を襲撃して兵器を奪っている。この頃、京の各所で放火が頻発し、小野好古は「純友は舟に乗り、漕ぎ上りつつある(京に向かっている)」と報告している。朝廷は純友が京を襲撃するのではないかと恐れて宮廷の14門に兵を配備して2月22日には藤原慶幸が山城の入り口である山崎に派遣して警備を強化するが、26日には山崎が謎の放火によって焼き払われた。なお、この一連の事件と純友との関係について純友軍の幹部に前山城掾藤原三辰がいる事や先の藤原子高襲撃事件などから、実は純友の勢力は瀬戸内海のみならず平安京周辺から摂津国にかけてのいわゆる「盗賊」と呼ばれている武装した不満分子にも浸透しており、京への直接的脅威と言う点では、極めて深刻な状況であったのではとする見方もある。

2月25日、将門討滅の報告が京にもたらされる。この報に動揺したのか、純友は日振島に船を返した。その影響か6月には大宰府から解状と高麗からの牒が無事に届けられ、7月には左大臣藤原仲平が呉越に対して使者を派遣している。

だが、東国の将門が滅亡したことにより、兵力の西国への集中が可能となったため、朝廷は純友討伐に積極的になった。5月に将門討伐に向かった東征軍が帰京すると、6月に藤原文元を藤原子高襲撃犯と断定して追討令が出された。これは将門討伐の成功によって純友鎮圧の自信を深めた朝廷が純友を挑発して彼に対して文元を引き渡して朝廷に従うか、それとも朝敵として討伐されるかの二者択一を迫るものであった。

8月、純友は400艘で出撃して伊予国、讃岐国を襲って放火。備前国、備後国の兵船100余艘を焼いた。更に長門国を襲撃して官物を略奪した。10月、大宰府と追捕使の兵が、純友軍と戦い敗れている。11月、周防国の鋳銭司を襲い焼いている。12月、土佐国幡多郡を襲撃。

天慶4年(941年)2月、純友軍の幹部藤原恒利が朝廷軍に降り、朝廷軍は純友の本拠日振島を攻め、これを破った。純友軍は西に逃れ、大宰府を攻撃して占領する。純友の弟の藤原純乗は、柳川に侵攻するが、大宰権帥の橘公頼の軍に蒲池で敗れる。5月、小野好古率いる官軍が九州に到着。好古は陸路から、大蔵春実は海路から攻撃した。純友は大宰府を焼いて博多湾で大蔵春実率いる官軍を迎え撃った。激戦の末に純友軍は大敗、800余艘が官軍に奪われた。純友は小舟に乗って伊予に逃れた。同年6月、純友は伊予に潜伏しているところを警固使橘遠保に捕らえられ、獄中で没した。

1862年 – 南北戦争: ヘンリー砦の戦い。北軍が南北戦争で初勝利。時 1862年2月6日
場所 テネシー州スチュアート郡およびヘンリー郡、ケンタッキー州カロウェイ郡
結果 北軍の勝利  損害 北軍 15000人中 戦死40人 南軍 3000人中 戦死129人
1898年 – 米西戦争: アメリカとスペインが講和のためのパリ条約に調印。米西戦争 時 1898年4月21日 – 8月13日  場所 キューバ及びプエルトリコ(カリブ            海)フィリピン及びグアム(アジア・太平洋)  結果 アメリカ合衆国の勝利
パリ条約の締結 スペイン帝国の崩壊 フィリピン第一共和国の建国と米比戦争の開始
領土の変化 スペインはキューバに対する主権を放棄、プエルトリコ・グアム・フィリピンをアメリカに譲渡。 損害 キューバ米軍連合 3万+30万人中 キューバ軍戦死10665人米軍戦死361人 スペイン軍 34万人中 戦死捕虜20000人強。
1913年 – 福岡県の二瀬炭鉱でガス爆発事故。死者103人[1]。 
1944年 – 第六垂水丸遭難事故。定員350人のところ、その2倍に当たる約700人の乗客を乗せた第六垂水丸が、目的地の垂水港桟橋の約200m先海上で、急カーブを切ろうとした刹那横転し沈没した[1]。死者540人。
1958年 – 西ドイツ・ミュンヘンで英国欧州航空 (BEA) のチャーター機が離陸に失敗、イングランドのサッカークラブ、マンチェスター・ユナイテッドの選手8人を含む23人が死亡。(ミュンヘンの悲劇)
2004年 – モスクワの地下鉄でチェチェン人テロリストによる爆破事件発生。市民39人が死亡。
2016年 – 台湾南部地震 (2016年): 台湾高雄でマグニチュード6.4の地震[6]。地震により台南市のビルが崩壊・損傷し、死者117人、負傷者550人、損壊家屋200戸以上、損壊校舎186校の被害が発生した[7]。
2018年 – 花蓮地震 (2018年): 台湾花蓮県近海でマグニチュード6.4の地震[8]。死者17人、負傷者280人の被害が発生[9]。
2023年 – トルコ・シリア地震:トルコ南東部のシリアとの国境付近でマグニチュード7.8の地震が発生。その後も続いたマグニチュード7クラスの余震により、数十万の建物が損壊、トルコ、シリア両国合わせて約6万人が犠牲となる甚大な被害が発生[11]。

チャットgpt先生の2月6日のエッセイ
了解しました。以下は、米西戦争後のパリ条約がもたらした戦後秩序についても触れたエッセイです。


2月6日――歴史に刻まれた境界線の日

2月6日、この日付には歴史の節目となる出来事が幾つも記されています。それらは時に勝者と敗者、力と無力、安定と混乱の境界線を浮き彫りにし、また時に新たな秩序を生み出す契機ともなりました。

1898年、パリ条約の締結――帝国の黄昏と新しい支配の夜明け
この日、米西戦争の講和条約であるパリ条約が結ばれました。この条約によって、スペイン帝国は長らく維持してきた海外領土の多くを放棄し、アメリカに譲渡することとなります。キューバ、プエルトリコ、グアム、フィリピン――これらの地は単なる領土ではなく、スペインが築き上げた帝国の象徴でもありました。しかし戦争の結果、これらの地はアメリカの支配下に入ることで、世界地図上の勢力図が大きく塗り替えられることとなったのです。

この条約はスペインにとっては屈辱の象徴であり、帝国の終焉を意味しました。一方で、アメリカにとっては世界の大国へと躍進する一歩でした。しかしその影には、奪われた人々の声がかき消されています。フィリピンではアメリカ支配に反発する米比戦争が勃発し、住民の自由への希求が大量の血を伴って抑え込まれることとなりました。このようにして描かれた戦後秩序は、正義や平和とは程遠い、力の論理が貫かれたものでした。

戦いの勝利が生む新たな希望――1862年、ヘンリー砦の戦い
同じ2月6日、時をさかのぼること1862年、アメリカでは南北戦争の中で北軍が初めての大きな勝利を収めました。この勝利は、奴隷解放に向けた希望の火種となり、アメリカ社会が抱えていた深い亀裂を乗り越えるための一歩ともなりました。しかしその一方で、この戦いがもたらした犠牲の数々も無視できません。

震災や事故――自然と人為の悲劇
そして2月6日は、自然や事故の脅威が浮き彫りになる日でもあります。例えば、2016年と2018年の台湾地震、さらには2023年のトルコ・シリア地震では、多くの人命が失われ、都市が瓦礫と化しました。これらの災害は、地球という存在の巨大な力を人間に知らしめるものです。これに対して、自然と共存し、危機に備えるという意識が私たちに求められているのではないでしょうか。

藤原純友の乱――社会の変化に揺れる人々
さらに日本の歴史を振り返ると、940年の藤原純友の乱は、中央集権的な社会が抱える矛盾が爆発した出来事でした。社会の底辺に追いやられた人々の不満は、中央政権の安定を揺るがす波となり、秩序を再構築せざるを得ない状況を生み出しました。


歴史を振り返ると、2月6日には秩序の転換点が幾重にも刻まれています。その秩序の多くは、力や犠牲、対立の果てに生まれたものです。しかし私たちは、そこに生じた課題と向き合うことで、より良い未来を模索し続けることができるはずです。歴史に学び、より平和で公平な世界を築くための一歩を踏み出す。それが、この2月6日という日に私たちが得られる最大の教訓なのかもしれません。