kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日2月3日  1946通化事件発生ほか、図wikipedia旧満州国通化省通化市

2月3日

20260203火曜日旧暦12月16日先負(戊申つちのえさるボシン)月齢 15.2

乙巳きのとみ年 己丑つちのとうし月 戊申つちのえさる日 年末まであと331日

吉方位 陽遁日 戊申つちのえさる日  東 大吉

https://ja.wikipedia.org/wiki/2%E6%9C%883%E6%97%A5

2月3日の出来事
1377年 – イタリア・チェゼーナに教皇領軍が侵攻し、市民2000人を虐殺(チェゼーナの血浴)。
1605年(慶長9年12月16日) – 慶長地震が発生、津波被害。5000人から10000人が死亡。
1637年 – オランダのチューリップ相場が突然暴落し、チューリップ・バブルが崩壊[1]。
1901年 – 福沢諭吉、思想家、慶應義塾創設者(* 1835年)享年66歳。
1922年 – 現在の新潟県糸魚川市勝山地区で雪崩が発生。列車が巻き込まれ死者90人、負傷者40名。(北陸線列車雪崩直撃事故)
1931年 – ホークスベイ地震。ニュージーランド史上最大の被害を出す。258人が死亡。
1946年 – 通化事件。通化で日本人が蜂起するが八路軍に鎮圧され数千名が虐殺される。
1996年 – 中国雲南省麗江でM7.0の麗江地震発生。死者309人、負傷者17,057人(内重傷者4,070人)、家を失った人18万人の被害[4]。

1998年 – アメリカ海兵隊のパイロットがイタリア・カヴァレーゼのスキー場でリフトのケーブルをくぐりぬけて飛行しようとし、ケーブルを切断、20人を死亡させる。(チェルミス・ロープウェイ切断事件)

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1377年 – イタリア・チェゼーナに教皇領軍が侵攻し、市民2000人を虐殺(チェゼーナの血浴)。
1605年(慶長9年12月16日) – 慶長地震が発生、津波被害。5000人から10000人が死亡。
1637年 – オランダのチューリップ相場が突然暴落し、チューリップ・バブルが崩壊[1]。
1901年 – 福沢諭吉、思想家、慶應義塾創設者(* 1835年)享年66歳。
1922年 – 現在の新潟県糸魚川市勝山地区で雪崩が発生。列車が巻き込まれ死者90人、負傷者40名。(北陸線列車雪崩直撃事故)
1931年 – ホークスベイ地震。ニュージーランド史上最大の被害を出す。258人が死亡。
1946年 – 通化事件。通化で日本人が蜂起するが八路軍に鎮圧され数千名が虐殺される。

通化事件(つうかじけん)とは、国共内戦時期の中国東北部(かつてのいわゆる「満洲国」通化省通化市)で、当時の中華民国政府(国民党)軍側と共闘した日本人らによる武装叛乱蜂起と赤十字病院襲撃の失敗事件である。

通化は1946年2月3日当時、すでに実質的に中国共産党軍側によって占領されていた。失敗後の鎮圧過程で中国共産党軍(八路軍)および朝鮮人民義勇軍南満支隊(李紅光支隊、新八路軍)による中国国民党員や日本人らに対する制圧・逮捕・取調べ・判決・刑執行において、多数の冤罪・虐待や虐殺があったとされる。日本人犠牲者数について諸説あるが、少ない説で武装叛乱戦闘とその後の「処分」との合計で約800人、多い説では約3000人の死者が出たとされ、その中には蜂起に参加さえしていなかった一般市民もいたとみられる[1]。

中国では通化二・三事件[2]などと呼ばれる。

ソビエト軍・中国共産党軍の進駐と暴行
通化高等女学校の校長であったという北野憲二の回想記によると、1945年8月20日、アジア系の正体不明の兵2名が四輪駆動車で乗り付けてきた。彼らは、ソ連兵の持つ短機関銃を持っていた一方で、日本軍将校の軍服を着込み、満洲人訛りの日本語で話してきたかと思えば、ロシア語の単語を口にしたという[16]。彼らは校内に侵入し、女生徒たちがバレーボールの練習を終えて校舎に戻ろうとすると最後尾の女生徒の腕を掴んで引きずり出そうとした[17]。古荘康光校長と村田研次教諭が止めに入ると銃を乱射し始めたため、20代の女性教師が自ら身代わりとなって連行された[18]。連絡を受けた通化守備隊の中村一夫大尉は直ちに兵士40名を乗せたトラック2台とともに駆けつけ、男性教師たちと共同で彼らの四輪駆動車を捜索したが発見できなかった[19]。女性教師は深夜に解放されたが、その晩自殺した[20]。

翌日、再び2名は女学校に侵入すると女生徒か昨日の女性と金品を出すよう要求した[21]。村田教師が「女性は自殺した」と述べると、他の女性を出すよう要求されたため、隠し持っていた拳銃で2人を射殺した[22]。教師たちはソビエト兵を埋葬して線香と花を手向けると、菅原通化省公署次長と中村大尉に連絡し、寄宿生を連れて通化を脱出した[23]。1945年8月24日[24][注釈 1]、ソビエト軍中佐以下将校20名、兵200名からなるソビエト軍が通化に特別列車で進駐[24][25][注釈 2]。部隊の多くは油や泥にまみれた軍服、軍靴姿で、その軍靴の多くは関東軍のものであった[25]。さらに、半数は兵士の関東軍の三八式歩兵銃や九九式短小銃などの装備であり、日本軍では採用されないほど貧弱な体格の兵も多く、出迎えた人々にはみすぼらしく貧弱に映った[25]。ソビエト軍は司令部を満洲中央銀行通化支店、日本興業銀行通化支店を経て龍泉ホテル[注釈 3]に設置した[27]。また、ソビエト軍によって武装解除された関東軍の兵器を譲渡された中国共産党軍も同市に進駐した。

占領下の日本人はソビエト軍による強姦・暴行・略奪事件などにも脅かされていた。ソビエト兵による日本女性への強姦は路傍、屋内をとわず頻発していた[27]。女性は外出を避け、丸坊主に頭を刈る娘たちが多かった[27]。日本人居留民会がソビエト軍司令部に苦衷を訴えると、取締りを約する代わりに日本人女性を慰安婦として司令部に供出するようかえって要求が出されたため、居留民会は料亭で働く日本人女性たちに犠牲となるよう頼み込み慰安婦として供出した[28]。ソビエト軍司令部は女性たちが司令部に出頭すると素人娘でなければ認めないと要求したが、同行していた居留民会救済所長宮川梅一はこれを拒否し、後日ソビエト軍司令部も折れた[29]という。

上記のような話の一方で、通化に来たソ連兵士はまだしも規律があった方で、彼らの流儀か、掠奪はひどかったものの婦女暴行は上官命令で止められていたらしく聞かれなかったが、しばらくしてから司令部から婦女子を要求してきた、そこで元慰安婦だった女性らが通化で足止めされていたので、彼女らに犠牲になってもらう代わりに訪問着や晴れ着を彼女たちに提供するなど出来る限りのことをしたとする証言[30]や、さらにより事情に通じていた者からと見られるものとして、ソ連兵士の婦女暴行を元々おそれていたところ、その顕われとみられる幾つかの小事件が聞かれたために、日本人側が司令部に掛け合い、女性を出すことにして元酌婦・芸妓に因果を含め慰謝料を与えて司令部に送り込んだという証言[31]、さらには、奥佐の『通化に想う』(昭和58年10月私家版『望郷から友好へー通化への旅』所載)によれば、各地での暴行や強姦の話が伝わっていたため、実際には、ソ連軍の入城時には、既に居留民会で因果をふくめて犠牲となる女性を準備していたという証言[5]等がある(他に同種の証言は式本米太郎[10]等)。

虐殺
拘束から5日後に部屋から引き出されると、朝鮮人民義勇軍の兵士たちに棍棒で殴りつけられ、拷問や冬の寒い中で劣悪な環境下で放置されることで凍傷や病気で死ぬ者も多く出た。死を免れた者の中にも不具や廃疾を負った者も多かった。中国共産党軍による拷問と尋問の後、容疑が固まったのか、従来の人民裁判の形でともかくも公開の形で処刑が決定されるばかりでなく、空き地や凍結した渾江(鴨緑江の支流)の上に引き出されて、即決のいわば秘密処刑のような形で処刑がなされたものも多かった(川岸に一人ずつ並べられた日本人が銃殺されて行く姿は元満洲国の皇弟妃浩によっても目撃されている[79]。渾江の下流の桓仁では、中国共産党軍の兵器工場で働いていた中村良一が連日に渡って上流から流れてくる遺体を目撃している[78]。また、凍った川の上にも服をはぎ取られた裸の遺体が転がっていて、春になって氷が溶けると流れていったものや、流れずに澱みに滞り、其のそばで慣れてしまった日本人の子が平気で水遊びをしていた場合もあったという。また、事件中、たまたま逃げ込んだ蜂起側の負傷者に手当を施していた女性が、近くにいた子供とともに仲間と思われて銃殺されたケースがある[80]。これは引揚者に大田黒の姓で記憶されている家で負傷した男性を手当てした女性と12歳児が射殺され、銃傷を負った5歳児のみが一命を取りとめた[81]というものである。藤田脱出幇助の疑いで龍泉ホテルで監禁されていた北田光男の生後一週間になる乳児は軍服姿の男に首を絞められて殺害された[26]。林少佐には銃殺命令が3度出されたが、そのたびに政治委員黄乃一の嘆願によって助命された[82]。作家の松原一枝によれば、李紅光支隊は男らの逮捕後、男性がいなくなった家を家宅捜索をして掠奪し、女性たちを強姦した例も多くあるという[83]。ただし、これはそれまでの通化事件に関する著作で知られるようになった松原の元に、引揚者を名乗る者から手紙が来て、それによると家族が見ている前で引き立てられ強姦され自殺した女性もいた[83]というものである。

死者数について

蜂起での戦闘者から蜂起計画に関与しなかった一般市民の処刑、劣悪な環境下での拘留による病死・凍死まで含めて、少ないものでは800人、多いものでは2千人~3千人が殺された[9]とする。新宿の平和祈念館の資料には、新八路軍の本部に拘束された鎌田昌夫の証言で、後日、二千から三千の犠牲者が出たと聞いたとする話が収録されている[54]。

『通化幾山河』では、戦闘時の死者は200名、逮捕後の死者は、拷問で罪を認め(あるいは叛乱者と名指され)て処刑された者が200名、元満洲国時代の警察官や憲兵は処刑され、それが100名、拷問や劣悪な環境からの病気・凍死した者が200名、端数も集計しては計600名とする。この他に『通化幾山河』では、取り調べ中の拷問や凍傷で不具や廃室に疾病になった者も300名、軽いものも入れれば500名いた[84]とされる。戦闘中の死者には国民党関係者もいたものの、これら逮捕後の犠牲者は大部分が日本人であったと見られる。1952年12月九州の引揚者を集めての通化事件の調査のために福岡に来た厚生省引揚援護庁復員局の吉田元久 留守業務部長は外務省と協力してそれまでの4年間の調査で判った死亡者は約1190名とし、死亡公報の済んだものは72名とした[85]。その後の同月4~5日の調査で新たに58名の氏名が判明したとして公表されているので、この時点では計130名の名前が死亡者として判明していたようである[86]。これに対し、自身も通化にいて事件に遭遇、引揚後に厚生省引揚局に入った佐々木係長は、1000人も死ねば(日本人の)一割が死んだことになり大変だ、実際には死亡者数は謂われているより少ないと、松原一枝に語っている[87]。

8畳に120人が拘束されて最も状態が過酷であったと見られる専員公署の監獄の場合、紙田治一によれば、120人の内3名が銃弾を受けて死に、12名が監獄で凍死、餓死、病死し、この15名の死体は踏み砕かれまるで煎餅のように平たく横たわっており、別に15名が戻って来ることはなく、90名足らずになったという[88]。

中国側では死亡者は約1200名とされているとする情報も以前からあったが、1991年10月には中国側資料『彼らはなぜ中国で死んだか』の存在が判明、通信社を通じて幾つかの地方紙で報じられ[3]、その資料では1200名とされている。また、国共内戦が激しくなり、通化の精鋭部隊はそちらに駆り出され、通化に当時残っていたのは、最近になって志願して八路軍に入った、まだ戦闘経験のない朝鮮人兵士が大半で、さらに彼らもかなりが旧正月前の匪賊狩りで農村地帯に出ていたため、当日いたのは400名だけであったとされる。そのため、朝鮮人兵士らの恐怖も強く、その反動が出たとする説[3]もある。なお、日本人側首謀者グループも叛乱成功のあかつきには処刑予定の日本人を決めており、それら処刑予定者を逃がさないように見張りまでつけていた[87]と見られる。

1996年 – 中国雲南省麗江でM7.0の麗江地震発生。死者309人、負傷者17,057人(内重傷者4,070人)、家を失った人18万人の被害[4]。
1998年 – アメリカ海兵隊のパイロットがイタリア・カヴァレーゼのスキー場でリフトのケーブルをくぐりぬけて飛行しようとし、ケーブルを切断、20人を死亡させる。(チェルミス・ロープウェイ切断事件)

チャットgpt先生の2月3日にエッセイ

忘却の上に築かれる繁栄について――二月三日をめぐって

通化事件をはじめとする多くの歴史的惨事は、いまや「知ろうとしなければ存在しない出来事」になっている。教科書に詳述されることもなく、記念日が設けられることもなく、語り継ぐ主体も失われつつある。
忘れられたのではない。発掘する意思を持たない限り、最初から視界に入らない場所へ追いやられているのである。

二月三日に刻まれた数々の出来事は、そうした忘却の層をいくつも貫いている。虐殺、地震、雪崩、占領下の暴力、戦後の報復。そこに共通するのは、「秩序があると信じられていた世界が、ある日突然、何の前触れもなく崩れる」という事実だ。

とりわけ通化事件は象徴的である。
戦争は終わっていた。敗戦国の人々は、少なくとも「これ以上は殺されない」と信じていた。しかし現実には、拘束、拷問、冤罪、即決処刑が行われ、一般市民や子どもまでもが殺された。死者数すら確定されないまま、事件そのものが歴史の周縁へと追いやられていった。

この「語られなさ」こそが、事件の後日譚であり、第二の死である。

現代社会は、こうした忘却の上に成立している。
経済成長、制度の安定、日常の安全。それらは、過去の惨事が「すでに解決された問題」であるかのように扱われることで維持されている。しかし、忘れられた犠牲の上に成り立つ繁栄は、本質的には脆弱だ。それは地盤の確認を怠ったまま建てられた建造物であり、見た目の整った砂上の楼閣にほかならない。

記憶することは、慰霊のためだけにあるのではない。
「人はここまで残酷になり得る」「秩序はこれほど簡単に崩れる」――その事実を直視しない社会は、同じ条件がそろったとき、同じ行為を再び選びうる。

観ること、知ること、記憶することは、過去への敬意であると同時に、現在への責任である。
自分たちが享受している平穏が、決して自明ではないこと。
そして、無関心という形で過去を切り捨てる行為が、未来の暴力を準備してしまうこと。

二月三日は、祝うべき日ではない。
また、感傷に浸るための日でもない。
この日に起きた出来事を前にして、自分はどこまで知ろうとするのか、どこまで引き受けるのか――その態度を、静かに、しかし厳しく問われる日である。

記憶は、社会の良心である。
それを手放した瞬間、繁栄はただの幻影になる。