2月22日
20250222土曜日旧暦1月25日先勝(壬戌みずのえいぬジンジュツ)月齢 23.5
乙巳きのとみ年戊寅つちのえとら月壬戌みずのえいぬ日 年末まであと312日
吉方位 陽遁日
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2月22日の出来事
1467年(応仁元年1月18日) – 上御霊神社周辺で御霊合戦が起こり、応仁の乱が始まる。
1847年 – 米墨戦争: ブエナ・ビスタの戦いが始まる。2月23日まで。戦争:米墨戦争 年月日:1847年2月22日-23日 場所:コアウイラ州サルティーヨ 結果:アメリカ軍の勝利 損害:米軍 4500人中 戦死300人 戦傷456人 メキシコ軍 16000人中 戦死2394人 負傷1039人 捕虜294人。
1848年 – 選挙改革宴会が政府の禁令を無視して強行、労働者・学生らのデモに発展。フランス二月革命の始まり[1]。
1932年 – 爆弾三勇士: 第一次上海事変で中国軍の鉄条網突破のために3人の工兵が自爆。
1951年 – 築地八宝亭一家殺人事件: 東京都中央区築地の中華料理店「八宝亭」の一家4人が撲殺される。
1953年 – 静岡県石廊崎沖合で大洋漁業所属の第11東丸が沈没。乗組員46人全員死亡[2]。
1965年 – 北海道夕張市の北炭夕張炭鉱第一砿でガス爆発が起こり、62人が死亡[3]。
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1467年(応仁元年1月18日) – 上御霊神社周辺で御霊合戦が起こり、応仁の乱が始まる。
1847年 – 米墨戦争: ブエナ・ビスタの戦いが始まる。2月23日まで。戦争:米墨戦争 年月日:1847年2月22日-23日 場所:コアウイラ州サルティーヨ 結果:アメリカ軍の勝利 損害:米軍 4500人中 戦死300人 戦傷456人 メキシコ軍 16000人中 戦死2394人 負傷1039人 捕虜294人。
ブエナ・ビスタの戦い(ブエナ・ビスタのたたかい、英: Battle of Buena Vista、西: Batalla de Buena Vista)またはアンゴスチュラの戦い(英: Battle of Angostura、西: Batalla de La Angostura)は、米墨戦争でアメリカ軍が大砲を使って勢力のかなり大きなメキシコ軍を撃退した戦闘である。ブエナ・ビスタはメキシコ北部コアウイラ州のサルティーヨの南7マイル(12km)にある村である。
1848年 – 選挙改革宴会が政府の禁令を無視して強行、労働者・学生らのデモに発展。フランス二月革命の始まり[1]。
1932年 – 爆弾三勇士: 第一次上海事変で中国軍の鉄条網突破のために3人の工兵が自爆。
爆弾三勇士(ばくだんさんゆうし)とは、独立工兵第18大隊(久留米)の江下武二(えした たけじ)、北川丞(きたがわ すすむ)、作江伊之助(さくえ いのすけ)の3名の一等兵である。1932年に第一次上海事変で敵陣を突破して自爆し、突撃路を開いた英雄とされる。肉弾三勇士とも言われた。
1951年 – 築地八宝亭一家殺人事件: 東京都中央区築地の中華料理店「八宝亭」の一家4人が撲殺される。
事件の概要
1951年2月22日、東京都中央区築地にある中華料理店「八宝亭」で、経営者(当時48歳)、妻(40歳)、長男(11歳)、長女(10歳)一家4名が惨殺された。遺体はすべて頭部を薪割り用の鉈で打ち割られており、刃が4人に対して50回以上も振り下ろされるなど、現場は凄惨な状況であった。捜査の結果、現金4万円と残高14万円あまりの預金通帳、女物の腕時計、財布が奪われていた。
容疑者
第一発見者である住み込みの男性店員・Y(当時25歳)は、築地警察署の職員に次のように証言した。
「前日(21日)、住み込み店員としてOという女性が採用された。夜中の1時ごろ、彼女の部屋から男女の声が聞こえてきたので、昨日たずねて来た彼女の知り合いの男がまた来ているのだろうと思った。そのときは2階の部屋に戻ってそのまま寝てしまったが、朝起きたら皆が殺されており、Oの姿は無かった」
やがて警察に、Oに関する情報がもたらされる。彼女が22日の午前9時過ぎ、都内の信用金庫に現れ、14万円の引きおろしに失敗したという。そこで警察は「22日の午前4時ごろに、Oが仲間の男と犯行に及び、逃走した」と断定、彼女を全国に指名手配した。一方でYが凄惨な事件現場にいながらまったくの無傷だったこと、また、彼が警察に直接通報しているなどの点が疑わしかったが、警察の捜査や新聞記者の質問に協力的なYは、周囲から好印象をもたれていた。
3月10日、都内の建築飯場に隠れていたO(22歳)が逮捕され、警察に次のように証言した。
「かねてから洋裁の学校に通いたいと考えていた自分は伊豆の実家から上京した。ホテルで働いて学費を稼ごうとしていたが、安月給だったので、金目当てで夜の街頭に立っていた。その中で知り合ったYに洋裁学校の話をしたところ、『うちの店で女性店員を探している。訳を話せば、洋裁学校にも通わせてくれるだろう』と言われた。そこで21日に店主に会って採用された。その日から住み込んだが、夜中に大きな音で目が覚めたところにYが現れ、『朝の9時に信用金庫で14万円を下ろして、新宿で待ってくれ。このことは誰にもしゃべるな』と、現金千円と通帳、印鑑を手渡された。盗品だとは察したものの殺人とは予想もつかず、千円に目がくらんで引き受けてしまった」
警察はYを犯人と断定し、3月11日にYを逮捕した。
逮捕後
Yは、隠し持っていた青酸化合物で翌日午前5時30分ころに自殺したため、事件に関する動機や犯行の詳細は解明されなかった。
犯行に加担していたOは、強盗殺人の共犯としては問えず、盗品等関与罪で執行猶予付きの懲役1年の刑を言い渡された。刑を終えた後は故郷に帰って結婚し、平穏な人生を送ったという。
1953年 – 静岡県石廊崎沖合で大洋漁業所属の第11東丸が沈没。乗組員46人全員死亡[2]。
1965年 – 北海道夕張市の北炭夕張炭鉱第一砿でガス爆発が起こり、62人が死亡[3]。
チャットgpt先生の2月22日のエッセイ
2月22日は、歴史の波に大きく揺れ動かされてきた日である。
1467年、この日を境に日本史の転換点ともいえる「応仁の乱」が始まった。上御霊神社周辺での御霊合戦が発端となり、全国の武士が東西に分かれ、戦火は11年にわたって続いた。この乱によって京都は荒廃し、戦国時代の幕が開くこととなる。権力の均衡が崩れ、下剋上の風潮が強まったのも、この争いが契機となった。
海を越えた1847年、米墨戦争の中で「ブエナ・ビスタの戦い」が勃発した。アメリカ軍4500人に対し、メキシコ軍16000人という圧倒的な兵力差があったものの、アメリカ軍は大砲を駆使し、戦略的に勝利を収めた。戦争は歴史を塗り替えるが、その陰で失われる命は計り知れない。この戦いでも多くの兵士が命を落とし、戦争の悲劇を象徴する一例となった。
一方で、1848年のフランスでは、民衆が選挙改革宴会を決行し、フランス二月革命の火蓋が切られた。権力に抗う民衆の声が、大きな変革を生み出すことは歴史が証明している。この革命の結果、フランスは王政を廃止し、共和制へと移行していく。
日本に目を向けると、1932年の第一次上海事変において「爆弾三勇士」が登場する。戦場で自らを犠牲にして鉄条網を突破した三人の工兵は、軍神として称えられた。しかし、その死が果たして必要なものだったのか、戦争の美化がもたらす功罪については、現代に生きる私たちが慎重に考えねばならない。
戦争や革命だけでなく、1951年の築地八宝亭一家殺人事件のように、日常の中で起こる悲劇もある。中華料理店の一家4人が惨殺され、犯人とされた店員のYは逮捕直後に自殺したため、事件の真相は闇の中に消えた。残された証言だけでは、すべてのピースが揃わないミステリーのような事件だが、そこには時代背景や人々の生活の苦しさが影を落としている。
そして、1953年には静岡県石廊崎沖で第11東丸が沈没し、乗組員46人全員が犠牲となった。1965年には北海道夕張市で炭鉱のガス爆発が起こり、62人が亡くなるという大惨事も起きている。いずれも過酷な労働環境の中で発生した事故であり、産業の発展と安全管理の間のバランスが、いかに重要であるかを改めて考えさせられる。
2月22日は、単なる日付ではなく、歴史のうねりの中で多くの命が交錯した日である。戦争、革命、犯罪、事故——人間が生きるということの重みを、改めて考えさせられる日なのかもしれない。そして、過去の出来事に学び、未来へとつなげていくことが、歴史を振り返る意味なのだろう。