2月17日
20250217月曜日旧暦1月20日友引(丁巳ひのとみテイシ)月齢 18.5
乙巳きのとみ年戊寅つちのえとら月丁巳ひのとみ日 年末まであと317日
吉方位 陽遁日
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2月17日の出来事
1600年 – ジョルダーノ・ブルーノが火刑に処せられる。
1937年 – 日蓮宗の殉教的宗徒「日蓮会殉教衆青年党」(死のう団)の5人が皇居・国会議事堂前などで切腹を図る。(死のう団事件)
1944年 – 第二次世界大戦・ギルバート・マーシャル諸島の戦い: エニウェトクの戦い。
年月日:1944年2月17日-2月18日 場所:エニウェトク環礁 結果:アメリカ軍の勝利
損害:日本軍 3000人中 戦死3000人 米軍10000人中 戦死傷 1000人。
1944年 – 第二次世界大戦・ギルバート・マーシャル諸島の戦い: トラック島空襲。
年月日:1944年2月17日 – 2月18日 場所:トラック島 結果:連合軍の勝利
損害:日本軍 戦死 地上600人 海上7000人。 米軍 戦死40人。
1955年 – 横浜市の聖母の園養老院が漏電で全焼。98人焼死。(聖母の園養老院火災)
1978年 – 北海道幌加内町母子里の北海道大学演習林で最低気温氷点下41.2℃を記録(非公式記録をも含めた日本の最低気温を記録。天使の囁き記念日)。
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1600年 – ジョルダーノ・ブルーノが火刑に処せられる。
1600年1月8日、ベラルミーノはブルーノを異端とし死刑判決を下した。同年2月17日、ローマ市内のカンポ・デ・フィオーリ広場に引き出されたブルーノは火刑に処された。処刑の様子はブレスラウの学生ガスパール・ショップ (Gaspar Schopp) が目撃し、家族へ送った手記により後世に伝えられている。それによると、ブルーノは処刑を宣告する執行官に対して「私よりも宣告を申し渡したあなたたちの方が真理の前に恐怖に震えているじゃないか」と言い、結果舌枷をはめられた。さらに、刑の直前に司祭が差し出した十字架へは侮蔑の一瞥をくれただけで顔を背け、死の際には1つも声を発さなかったという。遺灰はテヴェレ川へ投げ捨てられ、遺族に対しては葬儀ならびに墓の造営も禁じられた。
1937年 – 日蓮宗の殉教的宗徒「日蓮会殉教衆青年党」(死のう団)の5人が皇居・国会議事堂前などで切腹を図る。(死のう団事件)
死のう団事件(しのうだんじけん)は、1930年代に法華教系統の新宗教「日蓮会」の青年部「日蓮会殉教衆青年党」(通称「死のう団」)を巡って発生した、一連の騒擾事件。 1933年(昭和8年)7月2日に、集団で「死のう死のう」と叫びながら行進して逮捕されたことに端を発したもの。当初、「死のう団事件」は、この事件のことを指していた。
しかし、約3年半のちの1937年(昭和12年)2月17日、彼らのうち5名が国会議事堂など5ヶ所で割腹を図る事件が発生するに及び、一層大きな衝撃を社会に与えた。そのため、この割腹事件をもって「死のう団事件」と称することが多い。
背景
日蓮会
日蓮会は、東京府荏原郡蒲田村出身の江川桜堂、本名江川忠治(1905年 – 1938年)が1927年(昭和2年)に創立した新宗教である。
既成宗教の頽廃、そして国家権力に対する日蓮宗の妥協的態度に激しい怒りを覚えていた江川は、日蓮宗の教義の一切を排し、「日蓮上人に直参する(直々に教えを乞う)」と称して、日蓮の遺文そのものを教義とする団体を形成、自らは盟主に就任した。彼らは、蒲田に建設した「日蓮会館」を拠点として、積極的に辻説法を行った。発足当初は勉強会に近かった日蓮会であったが、既成宗教を悪し様に罵るその布教活動は大衆の人気を博し、信者に加わる者も現れ始めた。最盛期の1931年(昭和6年)頃には、500名ほどの信者を擁していたとみられる。
「死のう団」結成
1933年(昭和8年)1月、日蓮会の新年会に出席した若者らは、このままではいけないと口々に言い合った。現状への不満を募らせた彼らの出した結論は、「青年部の結成」であった。江川に忠実で、かつ先鋭的であった若年層の面々は、結成が決まると直ちに結盟書を作成し、これに血判を押した。
彼らが行動の柱に据えた「不惜身命(ふしゃくしんみょう。理想実現のために身命を惜しまず。本来は仏教から)」の理念は、しかし時を経るごとに本義から乖離し、死ぬこと自体を目的としたものに変質していく。のちの悲劇の前兆であった。
宣言
我が祖国の為めに、死なう!!!
我が主義の為めに、死なう!!!
我が宗教の為めに、死なう!!!
我が盟主の為めに、死なう!!!
我が同志の為めに、死なう!!! 日蓮会青年部 (原文ママ)
以上のような宣言を立てた江川と青年会員らは、皆で「死のう、死のう、死のう」と繰り返し叫び、陶酔に浸った。
翌月、青年部は「日蓮会殉教衆青年党」と改称された。同党は、のちに「死のう団」として世間の注目を集めることとなる。
割腹
割腹した団員
1937年(昭和12年)2月17日正午過ぎ、宮城前広場に、1人の男が現れた。「死のう」と書かれたビラを大量に撒いた32歳のその男は、突如持っていた短刀で腹を掻き切り、通行人に発見されて日比谷病院に搬送された。
同じ頃、竣工したばかりの新国会議事堂の前にタクシーが停まった。車から降りた2人の男は二手に別れ、1人は首相官邸に向かった。もう1人は議事堂の周りを歩き始めたが、突如警備の目を盗んで鉄柵を乗り越え、正面玄関に向かって走り出した。男はビラを撒きながら「死のう」と繰り返し絶叫した。気付いた警官や憲兵が駆け寄ってくると、男は立ち止まり、取り出した短刀を己の腹に突き立てた。
首相官邸を目指した男は、目標が見付からず焦りの色を見せたが、やがて意を決してある屋敷に入り、玄関脇で割腹した。傷を負いながらも満足気な顔をしていた男は、この屋敷が外務次官邸であったことを病院で聞かされると、無念の表情を浮かべた。
また12時45分頃、警視庁正面玄関ホール(当時の庁舎は霞ヶ関にあった)に現れた22歳の党員が、その場に正座して割腹を図っているところを特別警備隊の巡査に取り押さえられた。2時20分頃には、27歳の党員が内務省3階の便所で腹を切り、発見した守衛によって医務室に運ばれた。
5名の男は、こうして東京市内5ヶ所でそれぞれ腹を切った。ただし、上述の通り彼らは江川に従い、刃先だけしか出ないよう細工を施した短刀で切腹したため、いずれも致命傷は負わなかった。新聞は、再び大きな騒ぎを起こした「死のう団」を好奇の目で、あるいは気味悪げに報じた。
同日21時頃、2人の女が歌舞伎座4階の立見席から「死のう」と叫びながら大量のビラを撒いた。銀座の街頭でも女が、また品川駅に向かう電車の中でも男が、それぞれビラを撒いた。
警視庁は、直ちに日蓮会館の捜索に乗り出した。留守番役をしていた者やビラを撒いた者が身柄を拘束された。
3月3日、代議士の久山に付き添われて、江川が警視庁に出頭。「申し訳ございません」と頭を下げた江川に対し、特高部長は正業に勤しむよう諭して釈放した。
江川の死と日蓮会の終焉
生来病気がちであった江川は、肋膜炎や中耳炎を悪化させ、さらには結核を併発していた。日に日に衰弱する江川を、残った党員は東大病院に入院させた。彼らは無理をして治療費を捻出し、江川の療養生活を支えた。しかし病状は一向に好転する気配はなく、医師も見放すほどであった。1938年(昭和13年)3月15日、江川は「日蓮会館で死にたい」と、病の癒えぬまま退院。5日後の3月20日早朝に死去した。時に33歳であった。
これと前後して、信者らの「殉死」が相次いだ。まず、死にゆく江川を悲嘆した女が、青酸カリを飲み自殺。また、江川の死去した日の午後、先に警視庁で切腹を企てた男が、江川の甥の家で青酸カリを飲んだ上、割腹して果てた。その5日後には、女性信者2名が猫要らず(殺鼠剤)を飲み、帝国女子医学薬学専門学校(現在の東邦大学)付属病院に運ばれたが死亡した。
同年6月10日、宮城前広場で腹を切った男が、千葉県竹岡(現在の千葉県富津市竹岡)に向かう定期船「湘南丸」に乗り込んだ。甲板に立った彼は、沖合4 kmに差し掛かったところで突如「死のう」と叫び、ビラを撒きながら海中に没した。遺体は遂に発見されなかった[注釈 3]。
同年7月、日蓮会館は取り壊され、通称「死のう団」は完全に壊滅した。
1944年 – 第二次世界大戦・ギルバート・マーシャル諸島の戦い: エニウェトクの戦い。
年月日:1944年2月17日-2月18日 場所:エニウェトク環礁 結果:アメリカ軍の勝利
損害:日本軍 3000人中 戦死3000人 米軍10000人中 戦死傷 1000人。
1944年 – 第二次世界大戦・ギルバート・マーシャル諸島の戦い: トラック島空襲。
年月日:1944年2月17日 – 2月18日 場所:トラック島 結果:連合軍の勝利
損害:日本軍 戦死 地上600人 海上7000人。 米軍 戦死40人。
1955年 – 横浜市の聖母の園養老院が漏電で全焼。98人焼死。(聖母の園養老院火災)
1978年 – 北海道幌加内町母子里の北海道大学演習林で最低気温氷点下41.2℃を記録(非公式記録をも含めた日本の最低気温を記録。天使の囁き記念日)。
チャットgpt先生の2月17日のエッセイ
2月17日は歴史の中で様々な出来事が交錯する日である。特に印象的なのは、1600年のジョルダーノ・ブルーノの火刑、1937年の死のう団事件、そして1944年のエニウェトクの戦いとトラック島空襲である。
死のう団事件は、1930年代の日本社会の不安定さを象徴する出来事であった。日蓮会という新興宗教の青年部が、国家や既存宗教への反発を背景に「不惜身命」を標榜し、自己犠牲の精神を過激化させた。この事件は、狂信的な信念が暴力的な行動に転じる様を示しており、現代におけるカルト宗教の問題を予見させる側面がある。彼らの行動は、当時の社会の閉塞感の表れとも言えるが、その過激な行動は時代のあだ花として記憶されるべきものであろう。
また、1944年のエニウェトクの戦いやトラック島空襲は、太平洋戦争の激戦の一つであり、日本軍の壊滅的な敗北を象徴する出来事であった。戦局が厳しさを増す中で、多くの命が失われたことを忘れてはならない。
2月17日は、こうした歴史の悲劇を振り返る日として、私たちに多くのことを考えさせる機会を与えてくれる。