kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日2月17日  1944エニウェトクの戦い、ほか写真wikipedia米海兵隊の上陸

2月17日

20260217火曜日旧暦1月1日先勝(壬戌みずのえいぬジンジュツ)月齢 29.2

丙午ひのえうま年 庚寅かのえとら月 壬戌みずのえいぬ日 年末まであと317日

吉方位 陽遁日 壬戌みずのえいぬ日 東 大吉

https://ja.wikipedia.org/wiki/2%E6%9C%8817%E6%97%A5

2月17日の出来事
1600年 – ジョルダーノ・ブルーノが火刑に処せられる。
1937年 – 日蓮宗の殉教的宗徒「日蓮会殉教衆青年党」(死のう団)の5人が皇居・国会議事堂前などで切腹を図る。(死のう団事件)
1944年 – 第二次世界大戦・ギルバート・マーシャル諸島の戦い: エニウェトクの戦い。
年月日:1944年2月17日-2月18日  場所:エニウェトク環礁 結果:アメリカ軍の勝利
損害:日本軍 3000人中 戦死3000人 米軍10000人中 戦死傷 1000人。
1944年 – 第二次世界大戦・ギルバート・マーシャル諸島の戦い: トラック島空襲。
年月日:1944年2月17日 – 2月18日  場所:トラック島  結果:連合軍の勝利
損害:日本軍 戦死 地上600人 海上7000人。 米軍 戦死40人。
1955年 – 横浜市の聖母の園養老院が漏電で全焼。98人焼死。(聖母の園養老院火災)

1972年 – 群馬県妙義山中で連合赤軍幹部の森恒夫と永田洋子を逮捕。

1978年 – 北海道幌加内町母子里の北海道大学演習林で最低気温氷点下41.2℃を記録(非公式記録をも含めた日本の最低気温を記録。天使の囁き記念日)。

2024年 – 岩手県奥州市の黒石寺で、千年続く奇祭「黒石寺蘇民祭」が開かれる。関係者の高齢化や担い手不足を理由に今年で最後の開催となった[13]。

2025年 – カナダ、トロントのピアソン国際空港でデルタ航空の子会社のエンデバー航空が運航していたボンバルディアCRJ900型機が着陸時に横転して上下逆さまになる事故が発生。21人が負傷。

→詳細は「デルタ航空4819便着陸失敗事故」を参照

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1600年 – ジョルダーノ・ブルーノが火刑に処せられる。
1600年1月8日、ベラルミーノはブルーノを異端とし死刑判決を下した。同年2月17日、ローマ市内のカンポ・デ・フィオーリ広場に引き出されたブルーノは火刑に処された。処刑の様子はブレスラウの学生ガスパール・ショップ (Gaspar Schopp) が目撃し、家族へ送った手記により後世に伝えられている。それによると、ブルーノは処刑を宣告する執行官に対して「私よりも宣告を申し渡したあなたたちの方が真理の前に恐怖に震えているじゃないか」と言い、結果舌枷をはめられた。さらに、刑の直前に司祭が差し出した十字架へは侮蔑の一瞥をくれただけで顔を背け、死の際には1つも声を発さなかったという。遺灰はテヴェレ川へ投げ捨てられ、遺族に対しては葬儀ならびに墓の造営も禁じられた。
1937年 – 日蓮宗の殉教的宗徒「日蓮会殉教衆青年党」(死のう団)の5人が皇居・国会議事堂前などで切腹を図る。(死のう団事件

死のう団事件(しのうだんじけん)は、1930年代に法華教系統の新宗教「日蓮会」の青年部「日蓮会殉教衆青年党」(通称「死のう団」)を巡って発生した、一連の騒擾事件。 1933年(昭和8年)7月2日に、集団で「死のう死のう」と叫びながら行進して逮捕されたことに端を発したもの。当初、「死のう団事件」は、この事件のことを指していた。
しかし、約3年半のちの1937年(昭和12年)2月17日、彼らのうち5名が国会議事堂など5ヶ所で割腹を図る事件が発生するに及び、一層大きな衝撃を社会に与えた。そのため、この割腹事件をもって「死のう団事件」と称することが多い。

背景
日蓮会
日蓮会は、東京府荏原郡蒲田村出身の江川桜堂、本名江川忠治(1905年 – 1938年)が1927年(昭和2年)に創立した新宗教である。

既成宗教の頽廃、そして国家権力に対する日蓮宗の妥協的態度に激しい怒りを覚えていた江川は、日蓮宗の教義の一切を排し、「日蓮上人に直参する(直々に教えを乞う)」と称して、日蓮の遺文そのものを教義とする団体を形成、自らは盟主に就任した。彼らは、蒲田に建設した「日蓮会館」を拠点として、積極的に辻説法を行った。発足当初は勉強会に近かった日蓮会であったが、既成宗教を悪し様に罵るその布教活動は大衆の人気を博し、信者に加わる者も現れ始めた。最盛期の1931年(昭和6年)頃には、500名ほどの信者を擁していたとみられる。

「死のう団」結成
1933年(昭和8年)1月、日蓮会の新年会に出席した若者らは、このままではいけないと口々に言い合った。現状への不満を募らせた彼らの出した結論は、「青年部の結成」であった。江川に忠実で、かつ先鋭的であった若年層の面々は、結成が決まると直ちに結盟書を作成し、これに血判を押した。

彼らが行動の柱に据えた「不惜身命(ふしゃくしんみょう。理想実現のために身命を惜しまず。本来は仏教から)」の理念は、しかし時を経るごとに本義から乖離し、死ぬこと自体を目的としたものに変質していく。のちの悲劇の前兆であった。

宣言
我が祖国の為めに、死なう!!!
我が主義の為めに、死なう!!!
我が宗教の為めに、死なう!!!
我が盟主の為めに、死なう!!!
我が同志の為めに、死なう!!! 日蓮会青年部 (原文ママ)

以上のような宣言を立てた江川と青年会員らは、皆で「死のう、死のう、死のう」と繰り返し叫び、陶酔に浸った。

翌月、青年部は「日蓮会殉教衆青年党」と改称された。同党は、のちに「死のう団」として世間の注目を集めることとなる。

割腹

割腹した団員
1937年(昭和12年)2月17日正午過ぎ、宮城前広場に、1人の男が現れた。「死のう」と書かれたビラを大量に撒いた32歳のその男は、突如持っていた短刀で腹を掻き切り、通行人に発見されて日比谷病院に搬送された。

同じ頃、竣工したばかりの新国会議事堂の前にタクシーが停まった。車から降りた2人の男は二手に別れ、1人は首相官邸に向かった。もう1人は議事堂の周りを歩き始めたが、突如警備の目を盗んで鉄柵を乗り越え、正面玄関に向かって走り出した。男はビラを撒きながら「死のう」と繰り返し絶叫した。気付いた警官や憲兵が駆け寄ってくると、男は立ち止まり、取り出した短刀を己の腹に突き立てた。

首相官邸を目指した男は、目標が見付からず焦りの色を見せたが、やがて意を決してある屋敷に入り、玄関脇で割腹した。傷を負いながらも満足気な顔をしていた男は、この屋敷が外務次官邸であったことを病院で聞かされると、無念の表情を浮かべた。

また12時45分頃、警視庁正面玄関ホール(当時の庁舎は霞ヶ関にあった)に現れた22歳の党員が、その場に正座して割腹を図っているところを特別警備隊の巡査に取り押さえられた。2時20分頃には、27歳の党員が内務省3階の便所で腹を切り、発見した守衛によって医務室に運ばれた。

5名の男は、こうして東京市内5ヶ所でそれぞれ腹を切った。ただし、上述の通り彼らは江川に従い、刃先だけしか出ないよう細工を施した短刀で切腹したため、いずれも致命傷は負わなかった。新聞は、再び大きな騒ぎを起こした「死のう団」を好奇の目で、あるいは気味悪げに報じた。

同日21時頃、2人の女が歌舞伎座4階の立見席から「死のう」と叫びながら大量のビラを撒いた。銀座の街頭でも女が、また品川駅に向かう電車の中でも男が、それぞれビラを撒いた。

警視庁は、直ちに日蓮会館の捜索に乗り出した。留守番役をしていた者やビラを撒いた者が身柄を拘束された。

3月3日、代議士の久山に付き添われて、江川が警視庁に出頭。「申し訳ございません」と頭を下げた江川に対し、特高部長は正業に勤しむよう諭して釈放した。

江川の死と日蓮会の終焉
生来病気がちであった江川は、肋膜炎や中耳炎を悪化させ、さらには結核を併発していた。日に日に衰弱する江川を、残った党員は東大病院に入院させた。彼らは無理をして治療費を捻出し、江川の療養生活を支えた。しかし病状は一向に好転する気配はなく、医師も見放すほどであった。1938年(昭和13年)3月15日、江川は「日蓮会館で死にたい」と、病の癒えぬまま退院。5日後の3月20日早朝に死去した。時に33歳であった。

これと前後して、信者らの「殉死」が相次いだ。まず、死にゆく江川を悲嘆した女が、青酸カリを飲み自殺。また、江川の死去した日の午後、先に警視庁で切腹を企てた男が、江川の甥の家で青酸カリを飲んだ上、割腹して果てた。その5日後には、女性信者2名が猫要らず(殺鼠剤)を飲み、帝国女子医学薬学専門学校(現在の東邦大学)付属病院に運ばれたが死亡した。

同年6月10日、宮城前広場で腹を切った男が、千葉県竹岡(現在の千葉県富津市竹岡)に向かう定期船「湘南丸」に乗り込んだ。甲板に立った彼は、沖合4 kmに差し掛かったところで突如「死のう」と叫び、ビラを撒きながら海中に没した。遺体は遂に発見されなかった[注釈 3]。

同年7月、日蓮会館は取り壊され、通称「死のう団」は完全に壊滅した。

1944年 – 第二次世界大戦・ギルバート・マーシャル諸島の戦い: エニウェトクの戦い
年月日:1944年2月17日-2月18日  場所:エニウェトク環礁 結果:アメリカ軍の勝利
損害:日本軍 3000人中 戦死3000人 米軍10000人中 戦死傷 1000人。
1944年 – 第二次世界大戦・ギルバート・マーシャル諸島の戦い: トラック島空襲
年月日:1944年2月17日 – 2月18日  場所:トラック島  結果:連合軍の勝利
損害:日本軍 戦死 地上600人 海上7000人。 米軍 戦死40人。
1955年 – 横浜市の聖母の園養老院が漏電で全焼。98人焼死。(聖母の園養老院火災

1972年 – 群馬県妙義山中で連合赤軍幹部の森恒夫と永田洋子を逮捕。
1978年 – 北海道幌加内町母子里の北海道大学演習林で最低気温氷点下41.2℃を記録(非公式記録をも含めた日本の最低気温を記録。天使の囁き記念日)。

2024年 – 岩手県奥州市の黒石寺で、千年続く奇祭「黒石寺蘇民祭」が開かれる。関係者の高齢化や担い手不足を理由に今年で最後の開催となった[13]。

蘇民祭の由来

『備後国風土記』の逸文によると「北海より南方に旅をしていた武塔神が人間に化身し、貧しい蘇民将来(そみんしょうらい)と裕福な巨丹(こたん)という2人の兄弟に一夜の宿を求めたところ巨丹はこれを拒み、蘇民将来は快く旅人を泊め粟飯で貧しいながらも精一杯もてなした。それから数年後、妻を娶り子を為した蘇民将来の所に再び武塔の神が現れ、自分の正体が建速須佐之男命であることを明かすと共に茅の茎で作った輪を身に付け「我は蘇民将来の子孫である」と唱えれば無病息災が約束されるであろうと告げた」とされ、この逸話を基に平安時代中期には蘇民祭の原形が出来上がっていたのではないかと考えられている。武塔神の正体も地域により様々で、黒石寺においては薬師如来であったとされる。

黒石寺に残されている記録では1773年の「黒石寺書上」に以下の記載がある。

一、年々正月七日夜妙見宮之神事往古者妙見山におひて有之右儀式ニ相用候鬼面十二有之相用申候処高山故か飛行き尤恐敷儀数多有之候ニ付其後薬師堂におひて祭礼儀式仕来候何時与薬師堂江相移申候哉往古儀ニ而相知不申候右鬼面本式ニ相宛候得者何国共なく飛行き候由ニ而何時相失候哉当時ハ二ツ相残居今ニ至る迄七日之晩子供之頭へ爲冠附人相付よしたいまつ爲持参詣群衆の中を相廻り儀式相勤申候右子共鬼子と申唱来候

  • 年々右正月七日夜儀式ニ相用候薪ハ同六日ニ爲伐生割木を薬師堂の土間江三ケ所ニ焼切火ますます燃立候時参詣之諸人東西与投合 或ハ火を以打合申候是往古与祭礼之儀式ニ御座候右焼木を柴焼木(さいとうぎ)と申唱候

黒石寺蘇民祭

概要

以下は2024年まで行われていた黒石寺蘇民祭の概要であり、他の蘇民祭では細部が異なる場合がある。

旧暦正月7日夜から翌8日暁にかけて行なわれる。参加者である男子は祭の1週間前から精進潔斎に務めなければならず、肉・魚・ニラやニンニクのような臭いの強い食物、或いはそれらを調理した火を通した食物を口にすることが禁じられる。

22時に鳴らされる梵鐘の音を合図に祭が始まる。浄飯米(おはんねり)を持った祈願者の男女が水垢離(みずごり)をした後「ジャッソー、ジョヤサ」(邪〈ジャ〉を正〈ソ〉すの略)と掛け声を発しながら本堂を三巡し、五穀豊穣を始めとする幸福を祈願する。

23時30分より、全裸に下帯のみを身に付けた男たちが行列を為して福物の柴燈木(ひたき)と呼ばれる松明を掲げながら行進。2時、本堂で数え7歳の男児2人が扮する鬼子が本堂に入り福物の餅を境内にまいた後、再び境内に戻る。

5時、鬼子が本堂に再び入った後「袋出し」の5 – 6名の男が「蘇民袋」と呼ばれる麻袋を抱えて現れる。全裸の親方が小刀で蘇民袋を切り裂き、福物の小間木(こまき)を境内の男女が拾う一方で柴燈木登りに参加した男たちは引き裂かれた蘇民袋を激しく奪い合う。最終的に、蘇民袋の首にいちばん近い部分を持っていた者がその年の取主(とりぬし)となり、その年は東西どちらの土地が豊作となるかが決まる。

地元住民以外でも当日、境内で届け出れば参加は可能であるが、前述の精進潔斎を厳守して宗教行事であることの心得を要する。

旧くは黒石寺に限らずどの蘇民祭も下帯を含め一切の衣服を着用しない全裸で行われていたが、観光客の増加と共にストリーキング目的の参加者も増加して問題視され、黒石寺も2007年以降は下帯の着用が義務付けられ、全裸で行う伝統が途絶えた。親方は同年以後も全裸を続けているが、2008年に岩手県警水沢署は「宗教行事であってもわいせつ物陳列罪が適用され得る」と警告し、この年は実際に摘発が行われることは無かったが、渡海紀三朗文部科学大臣は「伝統文化について、警察が判断するのはそぐわない気がする」と岩手県警の警告に疑義を呈する見解を示した[3]。「年々、いかがわしい雰囲気が強くなり、神聖な祭の姿が失われている」「マスコミが押しかけ、伝統的な神聖さが失われている」と嘆く地元民も多く、伝統的な雰囲気を守るためならばある程度の規制は必要、とする意見も年々増している。2008年は後述のポスター掲示問題が発生し、取材者や野次馬が多数押し寄せた。主催者も観客規制するなど様々提案しているが実現していない[4]。

関係者の高齢化や担い手不足の要因から、2024年の開催を最後に終了の予定であることを住職が発表した[5]。2025年から伝統を継承するため護摩祈祷を続けていく方針[6]。

ポスター掲示問題

2008年の蘇民祭に先駆けて奥州市が作成したポスターは、上半身裸で胸毛の濃い男性が大きく写っているデザインであった。本ポスターについてJR東日本は「駅はいろいろな人が利用する。このポスターのデザインに不快感を持つ人も出てくる可能性は高い」として駅構内の掲示を拒否した[7]。

2025年 – カナダ、トロントのピアソン国際空港でデルタ航空の子会社のエンデバー航空が運航していたボンバルディアCRJ900型機が着陸時に横転して上下逆さまになる事故が発生。21人が負傷。

→詳細は「デルタ航空4819便着陸失敗事故」を参照

チャットgpt先生の2月17日のエッセー


二月十七日という、重い火と祈りの日

二月十七日は、歴史の年表の中で静かに、しかし確かに「重さ」を帯びている日だ。
英雄の戴冠や祝祭の始まりよりも、むしろ思想が焼かれ、信念が暴走し、命が極限まで追い詰められた瞬間が、この日に集積している。

1600年、ローマの広場でジョルダーノ・ブルーノは火刑に処された。
宇宙は無限であり、真理は一つの教義に閉じ込められないという思想は、当時の世界秩序にとってあまりに危険だった。
彼は最後まで声を上げず、十字架にも縋らなかったという。
沈黙の中で燃やされたのは、ひとりの哲学者だけではない。「考える自由」そのものだった。

三百年以上を経た1937年の東京でも、信念は別のかたちで臨界点に達する。
「死のう団」と呼ばれた若者たちは、理想を生きることと、死ぬことを混同した。
本来は「身命を惜しまず真理を守る」ための言葉が、「死そのもの」を目的に変質していく過程は、思想が人を救うことも壊すこともあるという、残酷な実例だ。
彼らの刃は浅く、死には至らなかったが、その空虚さはむしろ痛々しい。
命を投げ出そうとした行為のあとに残ったのは、救済ではなく、時代の冷たい視線だった。

1944年の二月十七日、太平洋の島々では、個人の思想など顧みられない規模で命が消費された。
エニウェトク、トラック島。
数字として並べられる戦死者数は、あまりに大きく、あまりに無言だ。
ここではもはや「信念」ですらなく、国家という抽象が人間を呑み込んでいく。
燃えたのは思想ではなく、身体だった。

戦後の日本においても、この日は安らぎを与えない。
養老院火災で失われた98人の命、山中で逮捕された連合赤軍幹部、極寒の地で記録された氷点下41.2度。
いずれも、人間の弱さと、社会の綻びと、自然の無慈悲さが交差する出来事だ。

しかし二月十七日は、ただ暗いだけの日ではない。
岩手・黒石寺の蘇民祭がこの日に結ばれてきたことは象徴的だ。
裸身で寒夜に立ち、穢れを祓い、無病息災を願うその姿は、命を「捨てる」のではなく「守る」ための極限行為である。
死と隣り合わせの所作が、破壊ではなく再生を目的としている点で、同じ「極端」でも方向がまったく異なる。

二月十七日は、問いかけてくる。
人は何のために信じ、何のために耐え、どこで踏みとどまるべきなのか、と。

火に焼かれる思想、刃を向けられる身体、寒さに晒される裸の祈り。
それらはすべて、「人間が意味を求めすぎた結果」なのかもしれないし、
「それでも意味を求めずにいられない存在」である証なのかもしれない。

この日は祝日でも記念日でもない。
けれど、歴史の底で静かに燻る火を思い出させる日だ。
信念が熱を帯びすぎたとき、人はどこへ行くのか。
そして、命を賭けずに守れる真理は、本当に存在しないのか。

二月十七日は、その答えを与えない。
ただ、重たい問いだけを、毎年、黙って差し出してくる。