2月16日
20260216月曜日旧暦12月29日仏滅(辛酉かのととりシンユウ)月齢 28.2
丙午ひのえうま年 庚寅かのえとら月 辛酉かのととり日 年末まであと318日
吉方位 陽遁日 辛酉かのととり日 南 大吉
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2月16日の出来事
901年(延喜元年1月25日) – 菅原道真が大宰府へ向けて出発する。
1665年(寛文5年1月1日) – 落雷により大坂城の天守閣が炎上。
1945年 – 第二次世界大戦・太平洋戦争・日本本土空襲: アメリカ軍機1,200機が関東各地を攻撃。以降、空襲が激化する。19450815までで空襲による総計死者240000人から1000000人とされる。
1998年 – チャイナエアライン676便墜落事故。台湾。死亡203人全員と地上7人。
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901年(延喜元年1月25日) – 菅原道真が大宰府へ向けて出発する。
生誕 承和12年6月25日[1](845年8月1日)
死没 延喜3年2月25日[2](903年3月26日)
別名 尊称:菅公、菅丞相、天神、天神様
神号 天満大自在天神
日本太政威徳天
Episode
・「和魂漢才」という言葉を生み出したとされる。日本固有の精神「大和魂」と、中国伝来の学問「漢才」という対なる概念のことで、また、その両者を合わせるといった思想。のちに和魂洋才という言葉が派生した。ただし、この言葉が出てくる『菅家遺誡』は、鎌倉時代から室町時代に成立したと見られており[109] 後世に平田篤胤によって加筆改竄された偽書ではないか、という指摘がなされている[110]。
・心だに 誠の道にかなひなば 祈らずとても 神や守らん(人は、心さえ誠の道にそっていれば、あらためて祈りを捧げなくても、神がきっと守ってくれるだろう。)[注釈 31][112]
・勝楽寺延命院には、讃岐国が栄えるよう道真が「一」の字を奉納したという言い伝えがある。「一」には物事のはじめ、又は全体を知るという意味があり、古来よりこの「一」と縁を結べば諸願成就すると言われている。[113]
・菅原家は代々焼物、神聖文字、占呪法(気・密教・呪術等の秘法)、土木事業、行事、儀式、法律等を祖業[注釈 32]とし道真もこれを受け継いでいる[115]。また、仙人、道士を研究し秘法の実践に余念がなかった[116]。
・梅の花を好んだことで有名だが、桜花の美しさを「弥勒菩薩が悟りをひらくという龍華樹も遠く及ばない」と称え[62]、菊の花も若い頃から栽培するほど好み[63]、薔薇の美しさを、妖艶で人を虜にして惑わす妖魔と例えている[64]。
大宰府
讃岐時代と同様に北九州の庶民の暮らしぶりについても詩を綴っている。延喜元年(901年)十月頃の作『菅家後集』「叙意一百韻」で、人を騙して銭をまきあげる布商人、何の苦もなく簡単に殺人を犯す悪党、のどかな顔をして肩を並べている群盗、汚職で私腹を肥やす役人などが慣習として蔓延っており「粛清することはもはや不可能」と評する程の治安の悪さを綴っている。
また、自分のみじめな姿を見に来る野次馬への苦痛、自分の心が狂想におちいってること[注釈 18]、仏に合掌して帰依し座禅を組んでいること[注釈 19]、言論封殺のため自由に詩を作ることを禁じられたこと、自身の体が痩せこけ白髪が増えていってることや、着物が色あせていくこと[注釈 20]、政敵の時平一派にたいする憤り、かつて天皇へ忠誠を誓ったことへの後悔、捏造された罪状が家族・親戚まで累が及ぶことと、過去の功績の抹殺にたいしての痛恨と悲憤を綴っている。
・道真の生誕地については諸説ある。各地に伝わる『天神縁起』によれば、承和12年(845年)春頃、十一面観音菩薩[注釈 22]を安置する高松山天門寺にある菅生池の菅の中より忽然と容顔美麗(振り分け髪をした薄桃色の着物を着る少女の姿[84])なる5・6歳の幼児が化現し、光を放ちながら飛び去り[85]、是善邸南庭に現れ「私には父母がいないのでそなたを父にしたい」と語った子供が、道真だという[84][注釈 23]。[注釈 24]
長男次男を幼くして相次いで亡くした是善は、臣下の島田忠臣に命じ伊勢神宮外宮神官の度会春彦を通じて豊受大御神に祈願して貰った。そうして生まれたのが道真だという。その縁で、春彦は白太夫[注釈 25] として道真の守役となり生涯にわたり仕える事になったという。
菅原天満宮によれば是善が出雲にある先祖の野見宿禰の墓参りをした際、案内してくれた現地の娘をたいそう寵愛した。そして生まれたのが道真だという。
・江戸時代に書かれた『古朽木』によれば、道真は梅の種より生まれたという。
『野馬台詩(歌行詩)』の主釈によれば、菅原道真と吉備真備は兄弟で、兄が道真、弟が真備だという。
道真は丑年丑の日丑の刻生まれだったという伝承がある。
・おとぎ話『桃太郎』は、道真が讃岐守に就いていた時分に、当地に伝わる昔話をもとに作り上げ、それを各地に伝えた、という伝説が女木島に伝わっている。
また、『竹取物語』の竹取の翁の名が「讃岐造」であること、自身の神秘的な出生にまつわる伝承[注釈 36]から道真が作者ではないかという説がある。
右大臣
寛平2年(890年)の頃、與喜山で仕事をしていた樵夫の小屋に、何者かが「これを祀れ」と木像を投げこんだという。樵夫はその頃、長谷寺に道真が参詣に来ていたので、「木像は道真公の御作ではないか」と思い、大切に祀ったという。その像が與喜天満神社に現存する木造神像として伝えられている。
寛平7年(895年)に法華経や金光明経を手写し伊香具神社へ納経したという。[126][注釈 37]
また、道真自刻として伝わる志明院の眼力不動明王[注釈 38]、清閑寺の十一面千手観音像、大報恩寺の千手観音立像、他に、住吉神社の神鏡[注釈 39]、氣比神宮の為当太神御神幣有奉納鉾太刀など、さまざまなものを神社仏閣へ奉納している。
寛平8年(896年)2月10日、勅命により道真が長谷寺縁起文を執筆していたところ、夢に3体の蔵王権現が現れ、「この山は神仏の加護厚く功徳成就の地である」と、告げられたという。[129]
左遷
左遷のおり道真は嫡子を哀れみ「日月は天地の父母なり、梅は寒苦を経て清香を発し、松は千年を経て尚、志節道義を失わず」と諭したという。[137]
延喜2年(902年)正月7日に道真自ら悪魔祓いの神事をしたところ、無数の蜂が参拝者を次々と襲う事件がおきた。そのとき鷽鳥が飛来して蜂を食いつくし、人々の危難を救ったのが鷽替え神事の由来とされる。また他にも、道真が賊に襲われたとき牛が身をていして守ってくれた伝説や、道真が難破に巻き込まれたとき昔飼っていた愛犬の霊が宿った犬石が助けてくれたという犬島伝説が伝わる。
道真がいろは歌の作者とする説がある。7段書きにした場合に下の部分が「咎なくて死す」となるため、『菅原伝授手習鑑』を契機に江戸時代中期頃広まったという。[157]
晩年、道真は無実を天に訴えるため、身の潔白を祭文に書き、七日七夜天拝山山頂の岩の上で爪立って、祭文を読上げ天に祈り続けた。すると、祭文は空高く舞上り、帝釈天を過ぎ梵天まで達し、天から『天満大自在天神』と書かれた尊号がとどいたという。
・天満宮は蒙古襲来のさいに必勝祈願を行うよう朝廷の命を受けた社の一つであることが鎌倉時代中期の貴族の日記から判っている。[130]
1665年(寛文5年1月1日) – 落雷により大坂城の天守閣が炎上。
1945年 – 第二次世界大戦・太平洋戦争・日本本土空襲: アメリカ軍機1,200機が関東各地を攻撃。以降、空襲が激化する。
1945年 – 第二次世界大戦・太平洋戦争・日本本土空襲: アメリカ軍機1,200機が関東各地を攻撃。以降、空襲が激化する。19450815までで空襲による総計死者240000人から1000000人とされる。
戦略爆撃の準備
太平洋戦争1941年11月、アメリカ陸軍参謀総長ジョージ・マーシャルは秘密記者会見で、米領フィリピンの基地から日本都市を焼夷弾爆撃する構想を述べる[1]。日米開戦直前、アメリカ政府はボーイングに、まだ試験飛行もしていないB-29爆撃機を250機も発注し、真珠湾攻撃で発注数を倍加させ、翌1942年2月にはゼネラル・モーターズ、ノース・アメリカン、ベル・エアクラフトにも協力を求め1,600機の生産を命じた[2]。しかし、実現まで2年を要した[2]。
1942年に日本軍が焼夷弾によるアメリカ本土空襲を行うと、米軍も焼夷弾の開発に踏み切り[3]、1942年には投下後バラバラになって着地すると尾部からナパームを噴射しながら跳びはねるという強力な着火能力を持つM69焼夷弾が開発された[2]。M69を開発した国防研究委員会(NDRC)焼夷弾研究開発部門長で、スタンダード・オイル社副社長のラッセルは「軍需工場を爆撃する精密爆撃よりも焼夷弾による市街地絨毯爆撃を行うべきだ」と主張した[2]。
1943年のNDRC作成の情報部焼夷弾レポートでは「日本の都市はほとんどが木造住宅でしかも過密なため大火災がおきやすい、住宅密集地域に焼夷弾を投下して火災をおこし、住宅と混在する、ないしはその周囲にある工場も一緒に焼き尽くすのが最適の爆撃方法である」と報告された[2]。
1943年8月27日、アメリカ陸軍航空軍司令官ヘンリー・アーノルド大将は日本本土空襲計画を提出する。日本都市産業地域への大規模で継続的な爆撃を主張し、焼夷弾の使用にも言及していた[4]。アーノルドは科学研究開発局長官ヴァネヴァー・ブッシュから「焼夷攻撃の決定の人道的側面については高レベルで行われなければならない」と注意されていたが、アーノルドが上層部へ計画決定要請を行った記録はない[5]。
1943年2月に、日本都市の建築特性に適した爆撃戦略を練るためにアーノルドは、作戦分析委員会COAに目標の検討を依頼しており[1]、COAから1944年10月10日付で『極東における経済目標に関する追加報告書』が提出され、第一目標を航空産業、第二目標を都市工業地域、第三目標を機雷の空中投下による航行妨害としており、第二目標は本州六都市に対する焼夷攻撃であり、9月のCOA会議では六都市の住民58万4000人を殺した時に起こる完全な混乱状態の可能性が論じられた。戦略情報局長ウィリアム・マックガヴァンは心理的効果を主張し、日本の子供は火事に対する恐怖を刷り込まれているので焼夷弾はパニックと結びつきやすいので、地域爆撃を全面支持し、「地獄を引き起こせ。国中の日本人に参ったと言わせろ」と提案した。アーノルドはこの追加報告書を採択した[6]。
アメリカ陸軍航空軍司令官ヘンリー・アーノルドは中国からのB29の爆撃をやめさせてその部隊をマリアナに合流させ、1945年1月20日、ハンセルの後任としてカーチス・ルメイ少将を司令官に任命した。アーノルドはルメイが中国から行った高い精度の精密爆撃の腕を買い、1944年11月13日の時点でルメイの異動を検討していた[11]。また、ルメイは、中国で作戦中の1944年12月、漢口大空襲でB-29と焼夷弾による大規模な都市空襲を実行して市街地に大損害を与えた経験があった。
ルメイは既にハンセルによって準備、実験された無差別爆撃の方針、戦術を基本的に踏襲したが[10]、ルメイの独創性は進入高度の変更にあった。従来は高度8,500メートルから9,500メートルの昼間爆撃を行っていたが、高度1,500メートルから3,000メートルに変更、理由はジェット気流の影響を受けないこと、エンジン負荷軽減で燃料節約し多くの爆弾を積めること、爆撃が正確に命中すること、火災を密度で合流し大火災にできることであった。しかし低空では敵の迎撃機、対空砲があるため夜間爆撃にした。また機銃、弾薬、機銃手を外し爆弾を200キログラム増やせるようにし、編隊ではなく単機直列に変更、これに乗員は恐怖したが、B29の損害は軽微だった[12]。3月10日の東京大空襲から焼夷弾を集中投下する無差別爆撃が本格的に開始され、耐火性の低い日本の家屋に対し高い威力を発揮した。
1945年4月7日以降、米軍は硫黄島の戦いで制圧した硫黄島に配備したP-51戦闘機やP-47戦闘機、イギリス海軍空母艦載機のシーファイアなどの戦闘機も空襲に参加、B-29爆撃隊の護衛にあたり、地上施設の攻撃も行った[13]。硫黄島は日本爆撃の際に損傷したり故障したりしたB-29の不時着用の基地として重要だった[13]。また、B-29は関門海峡や主要港湾への大規模な機雷投下も行い日本の海上輸送を妨害した(飢餓作戦)[14]。
公式な第二次世界大戦の最後の戦死者は、8月15日の午前10時過ぎに、イギリス海軍空母「インディファティガブル」から化学製品工場を爆撃すべく千葉県長生郡に飛来したグラマン TBF アヴェンジャーが日本軍に撃墜され、乗組員3名が死亡したものだった。なお、同作戦でシーファイアが零式艦上戦闘機との戦闘で撃墜され、フレッド・ホックレー少尉がパラシュート降下し捕えられ、その約1時間後に玉音放送があったもののそのまま解放されず、夜になり陸軍将校により斬首された事件も発生した(一宮町事件)。
なお、空襲以外の日本本土への攻撃として、英米海軍艦船などによる釜石艦砲射撃や室蘭艦砲射撃のような艦砲射撃も行われており、茨城県日立市、静岡県の清水市(現在の静岡市清水区)や浜松市など製鉄所や軍需工場が存在するいくつかの工業都市が破壊された。1945年(昭和20年)5月31日には台北大空襲が行われた。
日本の合計死者数 空襲全体を通じて
調査団体、研究者、新聞社各紙によって数値のばらつきがあり、最少の約24万から最大の100万人の説が存在する。また、負傷者も30万人程度という説もある[43]。
B-29の損失数
米国戦略爆撃調査団(USSBS)による統計[44]
日本本土を爆撃したB-29
延べ出撃機数 33,401機
作戦中の総損失機数 485機
延べ出撃機数に対する損失率 1.45%
作戦中の破損機数 2,707機
投下爆弾 147,576トン
搭乗員戦死 3,041名
1998年 – チャイナエアライン676便墜落事故。台湾。死亡203人全員と地上7人。
チャットgpt先生の2月16日のエッセイ
二月十六日――追われる者と、焼かれる街と
二月十六日は、静かな日付ではない。
歴史をたどると、この日は「理不尽に追われた者」と「名もなく焼かれた者たち」の気配が、幾層にも折り重なっている。
九〇一年、菅原道真が大宰府へ向けて都を発った。
それは旅立ちというより、追放だった。
学問と誠を尽くした末に、政治の闇に呑まれ、都から切り離される――この構図は、日本史において何度も繰り返される。
道真は剣を取らず、兵を集めず、ただ詩を書き、仏に合掌し、自らの潔白を天に訴えた。
「心だに誠の道にかなひなば」という歌は、無力の中でなお誠を手放さない者の、ぎりぎりの倫理宣言だった。
その千年以上後、二月十六日は再び「力の差」を露わにする。
一九四五年、空から一二〇〇機の爆撃機が関東を覆い、街は炎に包まれた。
それは軍需工場を狙う戦いではなく、都市そのものを恐怖と混乱に沈めるための計画だった。
木造家屋、過密な路地、逃げ場のない夜――人々の暮らしそのものが、戦略の前提条件に組み込まれていた。
道真の時代、言葉は封じられた。
この時代、声は炎にかき消された。
どちらも、個人の尊厳が巨大な構造によって踏み潰される瞬間だった。
二月十六日には、落雷で焼け落ちた大坂城もあり、空から墜ちた航空機もある。
雷も、爆弾も、事故も、理由を問わず命を奪う。
だが、それらを「仕方がない」とまとめてしまうとき、人は同じ過ちを繰り返す。
興味深いのは、道真が死後「天神」となり、恐れと敬意の対象になったことだ。
抑圧された者は、しばしば神格化される。
それは贖罪であり、同時に責任転嫁でもある。
生きている間に救えなかったから、死後に祀る――この構図もまた、歴史の癖だ。
二月十六日は問いかけてくる。
力に追われた者の誠は、どこへ行くのか。
炎の中で失われた声は、誰が引き受けるのか。
祈らずとも守られる世界を理想とした道真の言葉は、
皮肉にも、最も祈りが必要だった時代を越えて、今も残っている。
この日を思い出すこと自体が、
小さく、だが確かな抵抗なのかもしれない。

