kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日2月15日 1944モンテカッシーノ修道院爆撃ほか、写真wikipedia爆撃された修道院

2月15日

20260215日曜日旧暦12月28日先負(辛酉かのととりシンユウ)月齢 27.2

丙午ひのえうま年 庚寅かのえとら月 辛酉かのととり日 年末まであと319日

吉方位 陽遁日 辛酉かのととり日 南 大吉

https://ja.wikipedia.org/wiki/2%E6%9C%8815%E6%97%A5

2月15日の出来事
1877年 – 西南戦争: 西郷隆盛率いる薩摩軍の部隊が、熊本へ向けて鹿児島を出発。西南戦争年月日:1877年1月29日 – 1877年9月24日 場所:熊本県、宮崎県、大分県、鹿児島県
結果: 明治政府(新政府軍)の勝利 損害:明治政府軍 100000人動員 戦死6400人 私学党軍 30000人 戦死6800人。
1929年 – 東京市の戸山脳病院で火災。患者11人が死亡[3]。
1938年 – 東京都下のカフェー、バー、喫茶店などで一斉手入れ。約2000人の不良学生が検挙される[4]。
1944年 – 第二次世界大戦・イタリア戦線: 連合軍がモンテ・カッシーノ修道院を爆撃。(モンテ・カッシーノの戦い)戦争:第二次世界大戦、イタリア戦線 年月日:1944年1月17日 – 5月18日 場所:イタリア モンテ・カッシーノ 結果:連合軍の戦略的勝利 損害:連合軍240000人動因 戦死傷100000以上 ナチドイツ軍 80000人動員 戦死傷20000人以上。
1961年 – サベナ航空548便墜落事故。ベルギーブリュッセル郊外 72人死亡全員。

1989年 – アフガニスタン紛争: ソ連軍のアフガニスタンからの撤退が完了。

年月日:1978年4月 - 1992年4月[1]

場所:アフガニスタン[1]

結果:ムジャーヒディーン側の勝利。ソ連軍は撤退し、アフガニスタンの政権は崩壊[1]。

損害:ソ連側 15,000人以上戦死[3] ムジャーヒディーン側 戦死90000人以上 難民600000人以上

2013年 – ロシア・チェリャビンスク州に隕石が落下し、多数の負傷者が出る[7]。(2013年チェリャビンスク州の隕石落下)死者 0人 負傷者 1491人 損害 4474棟の建造物が損壊 被害総額10億ルーブル(約30億円)

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1877年 – 西南戦争: 西郷隆盛率いる薩摩軍の部隊が、熊本へ向けて鹿児島を出発。西南戦争年月日:1877年1月29日 – 1877年9月24日 場所:熊本県、宮崎県、大分県、鹿児島県
結果: 明治政府(新政府軍)の勝利 損害:明治政府軍 100000人動員 戦死6400人 私学党軍 30000人 戦死6800人。

1929年 – 東京市の戸山脳病院で火災。患者11人が死亡[3]。
1938年 – 東京都下のカフェー、バー、喫茶店などで一斉手入れ。約2000人の不良学生が検挙される[4]。
1944年 – 第二次世界大戦・イタリア戦線: 連合軍がモンテ・カッシーノ修道院を爆撃。(モンテ・カッシーノの戦い)戦争:第二次世界大戦、イタリア戦線 年月日:1944年1月17日 – 5月18日 場所:イタリア モンテ・カッシーノ 結果:連合軍の戦略的勝利 損害:連合軍240000人動因 戦死傷100000以上 ナチドイツ軍 80000人動員 戦死傷20000人以上。

モンテ・カッシーノの戦い(モンテ・カッシーノのたたかい、英: Battle of Monte Cassino)は、第二次世界大戦中、1944年1月17日から5月19日にかけてイタリアのモンテ・カッシーノで行われた戦い。連合軍のイタリア戦線におけるグスタフ・ライン(英語版)の突破およびローマ解放のために企画された。

1944年初頭、グスタフ・ラインの西半分は、ラーピド川・リーリ川・ガリリャーノ川およびその周囲の尾根や山頂を守るドイツ軍により支えられていた。その中にあって、モンテ・カッシーノ頂上にある修道院(529年ごろ建立された歴史的建築物)には守備兵は配置されておらず、修道院城壁下の急斜面に防御陣地が築かれていた。2月15日、カッシーノの街を見渡せる山頂にあった修道院に対し、アメリカ軍は1,400トンに及ぶ爆弾で修道院を爆撃し、修道院は破壊された。その理由は修道院が枢軸軍守備隊の監視所として使用される懸念があったためである(枢軸軍がそこに進駐していなかったという主張が認められるまでには長い時間がかかった)。爆撃の2日後、ドイツ軍降下猟兵がこの廃墟を守備するために投入された。1月17日から5月18日まで、グスタフ・ライン守備隊は連合軍の4度に渡る攻撃をうけた。この間連合軍は32kmの前線に20個師団を投入しドイツ軍を駆逐したが、甚大な損害を被った[5]。

1961年 – サベナ航空548便墜落事故。ベルギーブリュッセル郊外 72人死亡全員。

1989年 – アフガニスタン紛争: ソ連軍のアフガニスタンからの撤退が完了。

年月日:1978年4月 - 1992年4月[1]

場所:アフガニスタン[1]

結果:ムジャーヒディーン側の勝利。ソ連軍は撤退し、アフガニスタンの政権は崩壊[1]。

損害:ソ連側 15,000人以上戦死[3] ムジャーヒディーン側 戦死90000人以上 難民600000人以上

2013年 – ロシア・チェリャビンスク州に隕石が落下し、多数の負傷者が出る[7]。(2013年チェリャビンスク州の隕石落下)死者 0人 負傷者 1491人 損害 4474棟の建造物が損壊 被害総額10億ルーブル(約30億円)

チャットgpt先生の2月15日のエッセイ


二月十五日という、壊れる日の記憶

二月十五日は、歴史の中で何度も「取り返しのつかない瞬間」を迎えてきた日である。
それは勝利の日でも、祝福の日でもない。むしろ、人間が恐れや疑念、正義という名の焦りによって、何かを壊してしまった記憶が、静かに積み重なっている。

1877年、この日、西郷隆盛率いる薩摩軍は鹿児島を発ち、熊本へと向かった。
それは旧時代の理想と新しい国家の論理が、同じ国の中で刃を向け合う決定的な一歩だった。西南戦争は「明治政府の勝利」として記録されるが、そこに並ぶ数字——動員十万人、戦死数千人——は、勝敗では片づけられない重さを持つ。近代国家の成立は、常に内部の断絶と引き換えだったことを、この日は思い出させる。

1944年2月15日、イタリアのモンテ・カッシーノ修道院は爆撃によって破壊された。
千年以上前に建てられ、戦場の只中にあっても中立を保っていた修道院は、「使われるかもしれない」という疑念だけで瓦礫と化した。皮肉なことに、その廃墟は直後にドイツ軍の防御拠点となる。
守られていたものが壊された瞬間、戦争は一段と過酷な姿を露わにする。人は「必要だった」と言い訳するが、壊された歴史や祈りは、二度と元には戻らない。

1961年、ベルギー郊外で起きた航空機事故では、乗員乗客72人全員が命を落とした。
戦争ではない。敵もいない。ただ、人間の作った技術が、人間を守れなかった日である。
二月十五日は、戦場であろうとなかろうと、「完全な安全」という幻想がいかに脆いかを示す。

そして2013年、ロシア・チェリャビンスクに落下した隕石。
死者は出なかったが、空から降ってきた光と衝撃は、多くの負傷者と街の破壊を残した。ここには人間の意志すら介在しない。歴史は、人が起こす悲劇だけでなく、人の力が及ばない出来事によっても刻まれることを、この日付は教えてくれる。

二月十五日は、何かが始まる日というより、何かが壊れ、失われ、後になって意味づけされる日のように思える。
その意味づけは、いつも後追いだ。爆撃の正当化も、戦争の評価も、事故の原因究明も、すべては失われた後に行われる。

だからこそ、この日は問いを投げかけてくる。
「それは本当に避けられなかったのか」
「壊さずに済む選択肢はなかったのか」

二月十五日は答えを与えない。
ただ、過去の重さを静かに並べ、人間が同じ問いを何度繰り返してきたかを、淡々と示すだけである。
その沈黙こそが、この日の本当の意味なのかもしれない。