2月12日
20260212木曜日旧暦12月25日赤口(丁巳ひのとみテイシ)月齢 24.2
丙午ひのえうま年 庚寅かのえとら月 丁巳ひのとみ日 年末まであと322日
吉方位 陽遁日 丁巳ひのとみ日 西 大吉
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2月12日の出来事
1554年 – ロンドン塔に幽閉されていた元イングランド女王ジェーン・グレイが斬首される。16歳没。
1921年 – 第一次大本事件。出口王仁三郎ら大本の幹部が不敬罪で一斉検挙。
1945年 – 鎌倉空襲。日本側に被害の記録は残されていない[1][3]。
2009年 – コンチネンタル航空3407便墜落事故: ニュージャージー州ニューアークからニューヨーク州バッファローに向かっていたコンチネンタル航空3407便が、バッファロー空港に近い住宅に墜落。乗っていた48人全員と地上にいた1人の計49人が死亡した[4]。
2013年 – グアム通り魔殺人事件。日本人観光客3人が死亡、11人が負傷した[7]。
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1554年 – ロンドン塔に幽閉されていた元イングランド女王ジェーン・グレイが斬首される。16歳没。
ジェーン・グレイ(英: Jane Grey、1537年10月12日? – 1554年2月12日)は、16世紀中頃のイングランドの女王(在位:1553年7月10日[注釈 1] – 19日)。異名に、九日間の女王(ここのかかんのじょおう、Nine-Day Queen)がある。
数奇な縁でイングランド史上初の女王として即位したが、在位わずか9日間でメアリー1世により廃位され、その7か月後に大逆罪で斬首刑に処された。そうした経緯から、イギリスでは古来彼女のことを「クイーン・ジェーン」(Queen Jane、ジェーン女王)とは呼ばずにレディー・ジェーン・グレイ(Lady Jane Grey、ジェーン・グレイ令嬢)と呼んできた。ジェーンを正統なイングランド君主とはみなさない史家や学者も少なくないが、イギリス王室はジェーンをテューダー朝第4代として公式に歴代君主の一人に数えている[1]。
来歴
ジェーンの血統に着目したウォリック伯(のちのノーサンバランド公ジョン・ダドリー)は、政敵サマセット公エドワード・シーモア(エドワード6世の母方の伯父)に反逆の汚名を着せ処刑した後、自分の息子ギルフォード・ダドリー[注釈 2]とジェーンを結婚させた。そうして、王位継承のライバルとなるヘンリー8世の長女メアリーがカトリックであることを利用し、熱烈なプロテスタントのエドワード6世を説き伏せ、病床の国王から自分の死後ジェーンを即位させることを指示する勅令を得た。ノーサンバランド公の最終目的は、ジェーンとギルフォードの息子(ノーサンバランド公の孫)を王位につけることにあったという。
エドワード6世が死去すると、ノーサンバランド公はジェーンの即位を宣言したものの、陰謀を察知したメアリーが逃亡し[注釈 3]、身柄を拘束できなかった。そのためメアリー派の反攻を許すこととなり、1553年7月19日にサフォークでメアリーが即位を宣言、ジェーンと夫ギルフォードらが逮捕された。ついでギルフォードの兄弟であるジョン、アンブローズ、ロバート、ヘンリーらダドリー一族も逮捕された。
その後、ジェーンはロンドン塔幽閉を経て、1554年2月12日、夫ギルフォードとともに斬首された。王位に就いたメアリーは当初、ジェーンの処刑に躊躇したと言われるが、ジェーンを処刑しなければメアリーとアストゥリアス公フェリペ王子との婚約を解消するというスペインからの申し入れを受けて、処刑を決断したという[注釈 4]。この時、メアリーはプロテスタントの信者であったジェーンに対し、カトリックに改宗すれば命を助けるとの温情を示したが、ジェーンは毅然として改宗を拒み死を選んだとも伝えられる。なお、ジェーンが処刑された1554年2月は、ジェーンを王位に即けることを要求したワイアットの乱が発生した月でもあり、ジェーンの処刑はこの乱の影響もあったと考えられている。
処刑後、遺体は夫ギルフォードとともにセント・ピーター・アド・ヴィンキュラ王室礼拝堂 (Chapel Royal of St. Peter ad Vincula) に葬られた。満16歳の生涯であった。
1921年 – 第一次大本事件。出口王仁三郎ら大本の幹部が不敬罪で一斉検挙。
概要
明治維新以降、帝国政府(大日本帝国)は宗教に対する統制を強化し、神道系新宗教(黒住教、金光教、天理教等)も教派神道として国家の公認下に入った[2]。一方、明治時代後期に誕生した大本教(事件当時は皇道大本)は、教祖出口王仁三郎の活動により教勢を拡大し、知識人・軍人の入信、新聞社の買収、政治団体との連携や海外展開により大きな影響力を持つようになった[1]。大本教(王仁三郎)の活動に政府・警察・司法当局は危機感を抱き、結果、二度の大本事件に発展した[1]。1921年(大正10年)2月、当局は大本に不敬罪と新聞紙法違反を適用し、王仁三郎含め三名を起訴した(第一次大本事件)[1]。1935年(昭和10年)12月、当局は治安維持法を適用して王仁三郎夫妻以下1000名近くを検挙(起訴61名)[1]。大本関連の施設は破壊され、関連組織も解体された(第二次大本事件)[1]。
一連の大本事件は国家権力による宗教団体への統制と弾圧であり、一種の国策捜査であった[3]。同時に国家神道と新宗教の神話体系・歴史観の対立という側面も強い[4]。わけても第二次大本事件は第一次大本事件にくらべて遥かに大規模であり、また昭和史に与えた影響も大きいが、その評価は現代でも定まっていない[5]。大本聖師/二代教主輔出口王仁三郎についての解釈が難しいからである[6]。二度とも王仁三郎逮捕の後に大本の建造物は破壊され、信者の中から分派(第一次事件前後では神道天行居・生長の家など。第二次事件前後では世界救世教・三五教など)が独立した[7]。
1945年 – 鎌倉空襲。日本側に被害の記録は残されていない[1][3]。
2009年 – コンチネンタル航空3407便墜落事故: ニュージャージー州ニューアークからニューヨーク州バッファローに向かっていたコンチネンタル航空3407便が、バッファロー空港に近い住宅に墜落。乗っていた48人全員と地上にいた1人の計49人が死亡した[4]。
2013年 – グアム通り魔殺人事件。日本人観光客3人が死亡、11人が負傷した[7]。
チャットgpt先生の2月12日のエッセイ
2月12日 ―― 声を奪われた者たちの記憶
2月12日は、歴史の表舞台に立った者よりも、むしろその背後で沈黙を強いられた人々の記憶が折り重なる日である。
1554年2月12日、ロンドン塔で斬首されたジェーン・グレイは、王冠を望んだ女王ではなかった。彼女は政治的野心の結節点に置かれただけの、16歳の少女だった。
「九日間の女王」という呼び名は華やかだが、その実態は、信仰と血統と権力闘争に翻弄され、最後まで自分の意思を奪われ続けた人生である。
彼女が処刑の直前、カトリックへの改宗を拒んだという逸話が事実であれ伝説であれ、そこに人々が見てきたのは、奪われ続けた存在が、最後の瞬間にだけ示した主体性だった。
時代も場所も異なるが、1921年の第一次大本事件もまた、国家権力と個人(あるいは信仰)の衝突を象徴する出来事だった。
出口王仁三郎と大本教は、単なる宗教運動ではなく、国家神道が独占しようとした「世界の説明権」に異議を唱えた存在だった。
不敬罪という名のもとに行われた一斉検挙は、法の形を取りながらも、実態は思想そのものへの恐怖の表出だったと言える。
信仰が危険視されるとき、問題にされるのは教義ではなく、その背後にある「別の未来像」なのだ。
1945年の鎌倉空襲は、記録が乏しい。被害がなかったのか、記録されなかったのか、それとも残す余裕すらなかったのか。
だが、空襲という事実だけが残っている。
歴史には、語られない空白があり、その空白こそが、戦争の本質を物語ることがある。
2009年の航空機事故、2013年のグアム通り魔事件。
これらは「事件」として整理され、数字として記録される。
しかし、そこにいた一人ひとりには、それぞれの日常があり、未来があった。
近代以降の悲劇は、個人の顔を持たないまま、統計の中に埋もれていくことが多い。
2月12日を貫く共通点があるとすれば、それは力の非対称性だ。
王権と少女、国家と宗教、戦争と市民、偶発的暴力と無防備な日常。
いずれも、強い側の論理によって、弱い側の声が掻き消された瞬間である。
それでも、歴史に記されるということは、完全に消え去らなかったということだ。
ジェーン・グレイの名は、女王としてではなく、選択を迫られた一人の人間として残った。
大本事件は、国家と宗教の関係を問い直す材料として、今も議論され続けている。
記録の少ない空襲や、数字に還元された犠牲者たちもまた、「忘れられていない」という形で、かろうじて存在を保っている。
2月12日は祝日ではない。
だが、祝われない日だからこそ、声を持たなかった者たちに耳を澄ます日として、静かな意味を持ち続けているのかもしれない。
歴史は勝者によって書かれると言われる。
それでも、こうした日付の重なりは、勝者ではない者たちの影が、確かに歴史の中に残っていることを教えてくれる。

