4月30日
20240430火曜日旧暦3月22日赤口 甲子きのえねコウシ 月齢 21.4
年末まではあと245日ある。4月の最終日
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4月30日の出来事
1908年 – 日本海軍の巡洋艦「松島」が寄港地の馬公で爆沈、207名の死者を出す。
1945年 – 前日結婚したアドルフ・ヒトラーとエヴァ・ブラウンが自殺。
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1908年 – 日本海軍の巡洋艦「松島」が寄港地の馬公で爆沈、207名の死者を出す。
日露戦争では、哨戒と掃海活動に従事した。
1908年(明治41年)4月30日、海軍兵学校第35期卒業生の少尉候補生による遠洋航海で寄港した澎湖諸島の馬公で、火薬庫爆発を起こして轟沈した[11]。殉職者は、艦長と副長を含む乗員221名、少尉候補生33名、計254名に上った。死亡者には、大山巌の長男である大山高 少尉候補生、瓜生外吉の長男である瓜生武雄少尉、珍田捨巳の次男である珍田垂穂 少尉候補生もいた。慰霊碑が馬公、殉難者之碑が佐世保市内にある。この時、僚艦橋立に乗組んでいた永野修身大尉(当時)が真っ先に短艇を指揮して救援に向かったという話がある。
1945年 – 前日結婚したアドルフ・ヒトラーとエヴァ・ブラウンが自殺。
自殺
詳細は「アドルフ・ヒトラーの死」を参照
ヒトラーの死を伝える『星条旗新聞』号外
4月23日、赤軍がベルリン市内に突入した(ベルリン市街戦)。4月29日、親衛隊全国指導者ヒムラーが独断で英米に対し降伏を申し出たことがBBCで放送され、ヒトラーに最後の打撃を与えた。彼は激怒し、彼を全職責から解任するとともにその逮捕命令が出されたが、もはやその執行すらできない状態であった。
終末が近づいたことを悟ったヒトラーは、個人的、政治的遺書(英語版)の口述を行った。後者の中で戦争はユダヤ人に責任があるとした。そして大統領兼国防軍最高司令官職に海軍元帥カール・デーニッツ、首相にゲッベルス、ナチ党担当大臣にボルマンをそれぞれ指名した。さらに「国際ユダヤ人」に対する抵抗の継続を訴えた。
個人的遺書では愛人エヴァ・ブラウンとの結婚と、自殺後に遺体を焼却することを述べた。この遺書をタイプした秘書トラウドル・ユンゲにヒトラーは「ドイツ人は私の運動(ナチズム)に値しないことを自ら証明した」と語り、自らの政治活動が終焉したことを認めた[229]。
遺書をタイプした後の午前2時[230][注 9]、エヴァと結婚式を挙げた。そして4月30日、毒薬の効果を確かめるため愛犬ブロンディを毒殺した後、午後3時にエヴァと共に自室に入り、自殺した。56歳没。
自殺の際ヒトラーは拳銃を用い(青酸カリを使ったとする説もある[231])、エヴァは毒を仰いだ。遺体が連合軍の手に渡るのを恐れ、140リットルのガソリンがかけられ焼却された。焼け残った遺体は後に赤軍が回収し、検死もソ連医師のみによるものだったこと、また側近らの証言も曖昧で矛盾したものが多かった為、長い間ヒトラーの死の詳細は西側諸国には伝わらなかった。これらのことが後年「ヒトラー生存説」が唱えられる原因となった。
ソ連によりヒトラーの死体は秘密裏に埋められたが、1970年に掘り起こされ、完全に焼却されたあとにエルベ川に散骨された。これらの情報は、冷戦終結後の1992年に旧ソ連のKGBと、後継組織であるロシアのFSBに保管されていた記録が公開されたことによって明らかになった。
アドルフ・ヒトラーの死
アドルフ・ヒトラーの死(あどるふひとらーのし)の項目では、1945年4月30日、ナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーが総統地下壕の一室で、夫人のエヴァ・ブラウンとともに自殺を遂げた経緯について記述する。
自殺の手段は、拳銃と劇薬であるシアン化物を複合的に用いたものとされている。ヒトラーの生前の意向に従い、夫妻の死体はガソリンをかけて燃やされたが、その残骸は赤軍により発見、回収された。ソ連によりヒトラーの死体は秘密裏に埋められたが、1970年に掘り起こされ、完全に焼却されたあとにエルベ川に散骨された。これらの情報は、冷戦終結後の1992年に旧ソ連のKGBと後継組織であるロシアのFSBに保管されていた記録が公開されたことによって明らかになった。
余波
5月1日、ラジオ局「帝国放送局ハンブルク」(Reichssender Hamburg)は通常の放送を中断し、ワーグナーの「ニーベルングの指輪」第四部「神々の黄昏」の演奏を流し、その合間にまもなく重大放送が発表されるとアナウンスした。その後、ブルックナーの「第七交響曲」が流されたあと、アナウンサーが総統大本営発表としてヒトラーが総統官邸で戦死し、遺言で後継者にカール・デーニッツ海軍元帥を指名したことを発表した[47]。デーニッツはドイツ国民に総統の死を悼むよう要求し、ヒトラーは首都を防衛するため英雄的な死を遂げたと述べた[48] 。この放送の際に、地下放送局のものらしい「ウソだ」との声が一瞬割り込んでいる。デーニッツの演説が終わると、ドイツ国歌とナチス党歌「旗を高く掲げよ」が演奏され、その後にデーニッツによる「全軍に対する布告」が放送され、兵士が存在する限りボリシェヴィキ(ソ連軍)との戦闘を継続し、総統への忠誠は自分に引き継がれるとして、将兵の義務を果たすよう求め、義務を放棄するものは卑怯者であり、裏切り者であると呼びかけた[49]。
この「全軍に対する布告」は可能な限りの通信手段を用いて各部隊に伝達された。軍と国家を維持するため、デーニッツは西部での英米への部分降伏を画策し、東部のドイツ軍部隊を西方に移動した。この結果、約180万人ものドイツ軍将兵が赤軍の捕虜になることを回避することができた。デーニッツの方策は一定の成功を収めたが、一方で戦闘は5月8日まで継続されることとなり、人的被害は拡大した[50]。
死から13時間が経過した5月1日の朝、スターリンはヒトラーの自殺を知った[51]。5月1日午前4時、陸軍参謀総長ハンス・クレープス大将が、条件つき降伏を模索するために第8親衛軍司令官ワシーリー・チュイコフ大将と会っており、その際にクレープスはチュイコフにヒトラー死亡の情報を伝えた[52][53]。スターリンはドイツの無条件降伏を要求し、さらにヒトラーが死亡したことを確認するよう求めた。スターリンは赤軍の防諜部隊スメルシに、ヒトラーの死体を発見するよう命じた[54] 。5月2日の早朝、赤軍は総統官邸を制圧した[55]。官邸地下の総統地下壕では、クレープス大将とヴィルヘルム・ブルクドルフ大将が頭部を撃ち抜いて自殺した[56]。同日、スメルシの指揮官イワン・クリメンコがヒトラーの死体の捜索を始め、午後5時、ゲッベルス夫妻の焼け焦げた死体を見つけた[57]。
5月4日、クリメンコは、ヒトラーとエヴァ、そして犬2匹(ブロンディとその子ヴルフと考えられている)のひどく焼けた死体が発見した[58]。ヒトラーらの亡骸は砲弾のクレーターに埋もれており、翌日に掘り起こされた[59][60]。スターリンはヒトラーの死を確信するのに慎重を期しており、その情報を公に発表することを禁止した[61][62]。1945年5月11日までに、ヒトラーの歯科医フーゴ・ブラシュケ(英語版)、歯科助手のケーテ・ホイザーマン、歯科技師のフリッツ・エヒトマンらにより、クレーターから回収された歯の残骸がヒトラーとエヴァのものであることが確認され、回収された下顎(歯の治療跡があった)が、ヒトラーのものであることが証明された[63][64]。公式な検死報告書には、銃弾によるヒトラーの頭蓋骨の損傷、口腔内のガラス破片の両方について記録されており、スターリン自身が1945年に認可したが、彼は大敵の死を容易には信じようとしなかった[65][66]。ヒトラーとエヴァの遺骸は、スメルシによって埋めたり掘り出されたりを繰り返した。ヒトラーらの遺骸は当初、1945年6月上旬にベルリン西方の森に墓標なしで埋められたが、その後再び掘り出され、最初の埋葬から8か月後、マクデブルクの赤軍駐屯地に秘密裏に埋葬された[67]。
変装して逃走するヒトラーの想像図(アメリカのシークレットサービスが1944年に作成し、1945年にドイツ全土で貼り出された)
政治的な目的から、ソ連はヒトラーの運命について諸説を発表した[68][69]。1945年以降の数年間、ソ連はヒトラーが逃走して生存しており、西側諸国によって保護されていると主張していた[68] 。このようなソ連の策略により、西側関係者の間にもヒトラーの生死について一時的な混乱がもたらされた。ニュルンベルク裁判におけるアメリカの検事トーマス・J・ドッド(英語版)は、「ヒトラーが死んだと言い切ることは誰にもできない」と述べた。ポツダム会談中の1945年8月、アメリカ大統領ハリー・S・トルーマンはスターリンに「本当にヒトラーは死んだのか」と質問したが、彼はぶっきらぼうに「ノー」とだけ返答した。1945年11月、ベルリンのイギリス占領地区における防諜部門のトップであったディック・ホワイト(英語版)は、部下のヒュー・トレヴァー=ローパーにヒトラーの死についての調査を行うよう命令し、ソ連のヒトラーが西側で生存しているという主張への反証を試みた。トレヴァー=ローパーによる調査の成果は1947年に本として出版された[70]。
当時唯一のドイツの同盟国であった日本政府は、同盟国の最高指導者であるヒトラー自殺の報を、5月2日にノルウェーのオスロのドイツ兵隊放送でヒトラーの死を知った駐日ドイツ大使館からの報告で知ることとなった[71]。日本政府は同盟国の最高指導者として当然行うはずの公的な弔意表明や半旗の掲揚は一切行わず、自殺という道を選んだヒトラーに対する軽蔑が表れていた[71]。日本政府は、ラジオでヒトラーの死を伝えるとともに、同時にデーニッツが国家元首の座に就いたことと、東郷茂徳外務大臣が「ドイツは三国同盟に違反した」ことを述べるにとどまった。
チャットgpt先生の4月30日のエッセイ
4月30日の出来事を振り返ると、様々な出来事が歴史に残る日でした。
まず、1908年には日本海軍の巡洋艦「松島」が馬公で爆沈し、200人以上の乗員が犠牲となったことがあります。これは哨戒と掃海活動中に起きた悲劇で、少尉候補生を含む多くの乗員が犠牲になりました。
そして、1945年には第二次世界大戦末期において、前日に結婚したアドルフ・ヒトラーとエヴァ・ブラウンが自殺したことがあります。ヒトラーの自殺はナチス・ドイツの終焉を象徴し、その余波は世界に大きな影響を与えました。自殺の詳細やその後の動きには多くの議論があり、ソ連の情報操作や西側諸国の混乱も含まれています。
この日の出来事は、歴史における重要な節目であり、その影響は長く続きました。