12月31日
20251231水曜日旧暦11月12日仏滅(甲戌きのえいぬコウジュツ)月齢 11
乙巳きのとみ年 戊子つちのえね月 甲戌きのえいぬ日 12月の末日、1年の末日(大晦日)である
吉方位 隠遁日 甲戌きのえいぬ日
https://ja.wikipedia.org/wiki/12%E6%9C%8831%E6%97%A5
12月31日の出来事
1600年 – イギリス東インド会社設立[1]。
1703年(元禄16年11月23日) – 元禄地震。南関東に大きな被害。死者6700人以上。
1775年 – アメリカ独立戦争: ケベックの戦い。損害:大陸軍50名戦死 英軍5名戦死。
1862年 – 南北戦争: ストーンズリバーの戦い 時 1862年12月31日 – 1863年1月2日 場所 テネシー州マーフリーズバラ 結果 戦術的に引き分け
戦略的に北軍の勝利 損害:北軍 南軍 双方で2万人の戦死傷。
1942年 – 第二次世界大戦: バレンツ海海戦が行なわれる。年月日:1942年12月31日
場所:バレンツ海 結果:イギリス側の戦略的勝利 損害:ドイツ軍 330人戦死 英軍200人戦死。
1942年 – 香川県苗羽村(現:小豆島町)柚の浜沖合で内海汽船所属の「錦丸」(42トン)が転覆。死者・行方不明者72人(推定)[3]。
1986年 – プエルトリコ・サンフアンにてデュポン・プラザ・ホテル放火事件が発生し、多くの犠牲者を出した。原因 争議行為上の脅し目的で倉庫に放火したところ、炎が拡大した。死者 98人。
2014年 – 2014年上海外灘雑踏事故: 中華人民共和国・上海市の外灘で年越しを迎えようとした市民が、広場の階段で転倒し群集事故に。36人が死亡、47人が負傷した。
2015年 – ケルン大晦日集団性暴行事件。2015年12月31日から2016年1月1日にかけてケルン中央駅とケルン大聖堂前の広場にて、アラブ人・北アフリカ人を主体とした1,000名以上の男によって女性に対する集団性的暴行・強盗事件が繰り広げられた[4][5][6]。警察は性的暴行、強盗による女性からの被害届が516件(1月10日時点)に上ることを確認している[14]。
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1600年 – イギリス東インド会社設立[1]。
イギリス東インド会社(イギリスひがしインドがいしゃ、英: East India Company(EIC))はアジア貿易を目的に設立されたイギリスの勅許会社である。アジア貿易の独占権を認められ、イングランド銀行及びインドの商業資本から貸付を受けながら17世紀から19世紀半ばにかけてアジア各地の植民地経営や交易に従事した。
香辛料貿易を主業務としたが次第にインドに行政組織を構築し、徴税や通貨発行を行い法律を作成して施行し、軍隊を保有して反乱鎮圧や他国との戦争を行うインドの植民地統治機関へと変貌していった。セポイの乱後、インドの統治権をイギリス王室に譲渡、1858年に解散した。
☆インドにおける会社の大拠点はベンガルのカルカッタ、東海岸のマドラス、西海岸のボンベイである。フランス東インド会社と抗争し、1757年にプラッシーの戦いで、同社の軍隊がフランス東インド会社軍を撃破し、インドの覇権を確立した。以後単なる商事会社のみならず、インド全域における行政機構、軍隊としての性格をも帯びるようになった。その軍事力として多くの傭兵が活躍したが、ピーター・ウォーレン・シンガーによるとイギリス東インド会社の傭兵の半数は日本人であったとのことである。
元禄地震(げんろくじしん)は、元禄16年11月23日(1703年12月31日)午前2時ごろ、関東地方を襲った巨大地震。
震源は相模トラフ沿いの東経139.8度、北緯34.7度の地点[注 1]と推定され、房総半島南端の千葉県の野島崎付近にあたる。 地震の規模(マグニチュード)はM7.9〜8.2と推定されている[3]。元禄大地震(げんろくおおじしん、げんろくだいじしん)あるいは元禄の大地震(げんろくのおおじしん)とも呼ばれ、大正関東地震に対比して元禄関東地震(げんろくかんとうじしん)の名称もしばしば使用される。
1703年(元禄16年11月23日) – 元禄地震。南関東に大きな被害。死者6700人以上。
大正12年(1923年)に起きた関東地震(関東大震災)と類似のタイプの海溝型地震である上に、震源分布図も類似することから大正関東地震以前の相模トラフ巨大地震と考えられている。ただし、規模や震源域、地殻変動などは大正関東地震よりも大きいものであった[1][注 2]。大規模な地盤変動を伴い、震源地にあたる南房総では海底平面が隆起して段丘を形成した元禄段丘が分布し、野島岬は沖合の小島から地続きの岬に変貌したという。
1775年 – アメリカ独立戦争: ケベックの戦い。損害:大陸軍50名戦死 英軍5名戦死。
ケベックの戦い(英: Battle of Quebec)は、アメリカ独立戦争初期の大陸軍によるカナダ侵攻作戦中、1775年12月31日にケベック市を守るイギリス軍との間に行われた戦闘である。この戦闘はアメリカ側にとってこの戦争では初の大きな敗北となり、高い代償を払った。リチャード・モントゴメリーが戦死、ベネディクト・アーノルドが負傷、ダニエル・モーガンなど400名以上が捕虜になった。ケベック植民地総督のガイ・カールトンが指揮したケベックの守備隊はイギリス軍正規兵とカナダ人民兵の寄せ集めだったが、極少数の損失を出しただけだった。
1862年 – 南北戦争: ストーンズリバーの戦い 時 1862年12月31日 – 1863年1月2日 場所 テネシー州マーフリーズバラ 結果 戦術的に引き分け
戦略的に北軍の勝利 損害:北軍 南軍 双方で2万人の戦死傷。
ストーンズリバーの戦い(ストーンズリバーのたたかい、英:Battle of Stones River、あるいは第二次マーフリーズボロの戦い、英:Second Battle of Murfreesboro、南部では単にマーフリーズボロの戦い、英:Battle of Murfreesboro)は、南北戦争の西部戦線における「ストーンズリバー方面作戦」の頂点として、中部テネシー州で1862年12月31日から1863年1月2日に行われた戦闘である。南北戦争の主要戦闘の中でも両軍とも最高の損失率となった。戦闘自体は引き分けだったが、北軍が2度にわたる南軍の攻撃を撃退し、その後に南軍が撤退したことで、東部戦線におけるフレデリックスバーグの戦いでの敗北後沈滞していた北軍の士気を大いに上げ、南軍の中部テネシー州支配という願望を打ち砕いた。
1942年 – 第二次世界大戦: バレンツ海海戦が行なわれる。年月日:1942年12月31日
場所:バ
レンツ海 結果:イギリス側の戦略的勝利 損害:ドイツ軍 330人戦死 英軍200人戦死。
1942年 – 香川県苗羽村(現:小豆島町)柚の浜沖合で内海汽船所属の「錦丸」(42トン)が転覆。死者・行方不明者72人(推定)[3]。
1986年 – プエルトリコ・サンフアンにてデュポン・プラザ・ホテル放火事件が発生し、多くの犠牲者を出した。原因 争議行為上の脅し目的で倉庫に放火したところ、炎が拡大した。死者 98人。
デュポン・プラザ・ホテル放火事件(Dupont Plaza Hotel arson)は、1986年12月31日(大晦日)に、プエルトリコのサンフアンにあるホテル・デュポン・プラザ(現:サンファン・マリオット・リゾート&ステラリス・カジノ(英語版))で発生した放火事件である。
事件当時、ホテルの従業員たちと経営陣との間で労働争議が行われており、ホテルに対して不満を抱いていた3人の従業員が脅しのつもりで火をつけた結果、96人から98人が死亡し、140人の負傷者を出す大惨事となった。
本件は、プエルトリコ史上最悪のホテル火災として知られ、死者数はアメリカ合衆国で発生したホテル火災の中で2番目に多い[2]。
2014年 – 2014年上海外灘雑踏事故: 中華人民共和国・上海市の外灘で年越しを迎えようとした市民が、広場の階段で転倒し群集事故に。36人が死亡、47人が負傷した。
2014年上海外灘雑踏事故(2014ねんシャンハイがいたんざっとうじこ)は2014年12月31日に中国上海市外灘陳毅広場で発生した群集事故。2015年1月1日時点で36名が死亡、47名が負傷する大惨事となった[1]。
概要
事故が発生したのは、上海市内を流れる黄浦江沿いの遊歩道の陳毅広場と呼ばれる中心部で、ライトアップされた建築物をバックに新年のカウントダウンをしようとした市民や観光客らでごった返して、階段の途中で将棋倒しが発生した[2]。事故発生後、習近平総書記・李克強総理は直ちに負傷者の手当てと迅速な調査、安全対策に全力を挙げるよう関係部署に指示した。また、上海市当局は事故対策本部を設置。市トップの韓正上海市共産党委員会書記は救援に全力を挙げるよう指示するとともに、1日未明、上海市内の病院を訪れ負傷者を見舞った[3][4]。また、この事故を受けて上海市では緊急会議を開き、多くのカウントダウン〜ニューイヤーイベントが中止と決まった[5]。
死者は16歳から36歳の男性11名、女性25名であり、多くは若い学生であった。なお台湾人1名、マレーシア人1名も本事故で亡くなった[6][7]。
事故翌日、多くの市民が事故現場を訪れ、献花した[8]。
2015年 – ケルン大晦日集団性暴行事件。2015年12月31日から2016年1月1日にかけてケルン中央駅とケルン大聖堂前の広場にて、アラブ人・北アフリカ人を主体とした1,000名以上の男によって女性に対する集団性的暴行・強盗事件が繰り広げられた[4][5][6]。警察は性的暴行、強盗による女性からの被害届が516件(1月10日時点)に上ることを確認している[14]。
被害女性の一人の証言では、交際相手とともに電車を降りたところで若い外国人のギャングに囲まれると、男たちによって設けられた200mの列を通され、その間に全身を100回以上つかまれたとしている。悲鳴をあげたり振り払っても行為はやむことがなかったとしている[4][5][6]。この女性はジャケットを羽織り、ズボンをはいていたためにそれ以上の犯行を受けないで済んだとしている[4][5][6]。中には、暴徒に下着を引き裂かれて下着がなくなって泣き叫んでいる若い女性達の姿もあった[15]。また、男たちは”ficky, ficky,” と性行為を意味するスラングを叫んでいた[4]。
事件当時、警察は証拠不足により5名しか逮捕することが出来なかった[4]。
1月1日、ケルン警察は12月31日の夜はリラックスした雰囲気で至って平和であったと発表し[18][19]、さらに、翌週になるまで事件についてメディアに一切公表を行わなかった[20]。
事件後の対応と反応
この事件は、第二次世界大戦(独ソ戦)末期からナチス・ドイツ敗北後の1945年のソ連軍占領下の大規模強姦や、2011年にジャーナリストのララ・ローガン(英語版)がエジプトの首都カイロのタハリール広場からの生中継を行った際に、300名以上の群衆から集団で性的暴行を受けた事件を想起されるものであった[5][28]。
チャットgpt先生の12月31日のエッセイ
12月31日――終わりに立つということ
12月31日は、暦の上で「終わり」が幾重にも重なる日である。一年の末日、大晦日。旧暦では冬の深まりを告げ、月齢はまだ満ちきらぬ11。甲戌の日は、草木が固い地に根を張るような、内に力を蓄える性質を持つという。仏滅であり、隠遁日ともされるこの日は、祝祭の喧騒の裏で、静かに区切りを受け止めることを求めてくる。
歴史を振り返れば、12月31日は決して「穏やかな締めくくり」だけの日ではなかった。1600年、イギリス東インド会社が設立され、商業会社がやがて国家を超える権力を持つ時代が始まった。取引と利益の名のもとに、行政、軍事、支配が一体化していく近代世界の萌芽が、この年の終わりに置かれている。年の瀬とは、次の時代が水面下で動き出す瞬間でもある。
1703年の元禄地震は、その象徴的な例だろう。人々が年越しを迎えようとする深夜、相模トラフが激しく動き、南関東に甚大な被害をもたらした。自然は人の区切りを待たない。終わりの日に突然訪れる破壊は、日常の連続性がいかに脆いかを突きつける。後の関東大震災と並び語られるこの地震は、「歴史は繰り返す」のではなく、「警告を重ねる」のだという事実を思い出させる。
戦争史においても、12月31日は重い意味を持つ。1775年のケベックの戦い、1862年から始まるストーンズリバーの戦い、1942年のバレンツ海海戦。いずれも年の終わりに始まり、あるいは決定的な局面を迎えた。人類は「新しい年」を目前にしても、武器を下ろすことはなかった。むしろ節目の時こそ、勝敗や主導権をめぐる賭けが激しくなる。終わりは、希望と同時に焦燥も生むからだ。
同時に、この日は多くの「事故」と「事件」を記憶している。1942年の小豆島沖での船の転覆、1986年のデュポン・プラザ・ホテル放火事件、2014年の上海外灘雑踏事故、2015年のケルン大晦日集団性暴行事件。祝うために集まった人々、日常を生きていた人々が、一瞬で被害者になる現実がここにある。群衆、興奮、緊張、そして管理の欠如。年の終わりは、人間の弱さと社会の歪みが露わになる時間でもある。
それでも人は、12月31日を「希望の日」として手放さない。なぜなら終わりを意識するからこそ、始まりを願えるからだ。破壊と悲劇、支配と暴力が刻まれたこの日が、同時に「反省」と「更新」の日であることに、私たちは意味を見いだしてきた。
甲戌の日が示すように、地中で力を蓄える時間は、外からは見えない。しかし、その静かな蓄積がなければ、新しい年の芽吹きはない。12月31日は、派手に前進する日ではない。むしろ立ち止まり、歴史の重みと人間の愚かさを直視し、それでも次へ進む覚悟を整える日なのだ。
一年の終わりに立つということは、過去を清算することではない。過去を抱えたまま、次の一歩を選び取ること。その厳しさと尊さを、12月31日は静かに教えている。

