kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日12月27日 1923虎の門事件、ほか写真wikipedia山口県光市の難波大輔の生家

12月27日
20241227金曜日旧暦11月27日先勝(乙丑きのとうしイッチュウ)月齢 25.8
甲辰年きのえたつ年丙子ひのえね月乙丑きのとうし日 年末まであと4日
吉方位  南西 大吉、北 吉。
https://ja.wikipedia.org/wiki/12%E6%9C%8827%E6%97%A5#%E5%BF%8C%E6%97%A5
12月27日の出来事
1923年 – 難波大助が裕仁親王(のちの昭和天皇)を狙撃した虎ノ門事件が発生。
1924年 – 北海道小樽市の国鉄手宮駅でダイナマイトが爆発。死者87人。
1939年 – トルコ東部エルズィンジャン県でマグニチュード7.8の地震(エルジンジャン地震)が発生。死者約3万3000人。
1971年 – 群馬県草津温泉スキー場の殺生河原で、スキーヤー6人が火山ガスにより中毒死[4]。
1985年 – ローマ空港・ウィーン空港同時テロ事件。2つの空港テロにより、幼児を含む19人が死亡、140人が負傷した。

2007年 – パキスタン元首相ベーナズィール・ブットーが暗殺(英語版)される。

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1923年 – 難波大助が裕仁親王(のちの昭和天皇)を狙撃した虎ノ門事件が発生。

虎ノ門事件(とらのもんじけん)は、1923年(大正12年)12月27日に、東京府東京市麹町区虎ノ門外[1]で、皇太子・摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)が無政府主義者の難波大助から狙撃を受けた暗殺未遂事件[2]。

関東大震災後に頻発したテロ事件の一つで、震災復興を進めていた第2次山本内閣は、引責による総辞職を余儀なくされた。

影響
当日の警護責任を取り、警視総監の湯浅倉平と警視庁警務部長の正力松太郎が懲戒免官になった。

難波の出身地であった山口県の知事に対して2ヶ月間の2割減俸、途中難波が立ち寄ったとされる京都府の知事は譴責処分となった[要出典]。また、難波の郷里の全ての村々は正月行事を取り止め謹慎し、難波が卒業した小学校の校長と担任は教育責任を取り辞職した[要出典]。

難波の父で、衆議院議員の難波作之進(庚申倶楽部所属)は事件の報を受けるや直ちに辞表を提出、閉門の様式に従って自宅の門を青竹で結び家の一室に蟄居し、食事も充分に摂らなかった。作之進は1925年(大正14年)5月に死亡した[10]。大助の長兄(正太郎)は勤めていた鉱業会社を退職し、家族以下蟄居生活を続けた[10]。

事件の翌日、皇太子が狙撃されるという事態にショックを受けた小川平吉が提唱し、北昤吉ら知識人、政治家、貴族院議員、軍人ら多数が参加した国粋主義思想団体である青天会が結成された。小川は難波を「露国共産党の先駆たる一兇徒」と断じて、コミンテルンの世界革命運動が社会に浸透して皇室を脅かすという考えから反共主義を広めた[要出典]。

難波の処刑後、1926年(大正15年)5月下旬、皇太子は岡山県・広島県・山口県を巡啓する[11][12]。5月29日、山口県滞在中の皇太子に対し内大臣牧野伸顕は難波家の救済を進言し、皇太子も対応を命じる[10]。皇太子の意向を受けて、東宮侍従長入江為守・山口県知事大森吉五郎・司法大臣江木翼等が協議し、大森知事は新聞記者に侍従長質問文と知事回答文を発表する[10]。6月4日、県知事は正太郎を県庁に招致し、皇太子以下の意向を伝えた[10]。

この難波作之進の死により選挙地盤は松岡洋右が引き継ぐこととなり、さらに戦後は岸信介や佐藤栄作という大物保守系政治家に引き継がれ、昭和史を動かす遠因となった。

その他
難波が犯行に使ったステッキ銃は、河上肇の「思い出断片」によると伊藤博文がイギリスのロンドンで手に入れて、人づてに難波作之進に渡ったものであった。難波は「気晴らしの狩猟のため」と称して持ちだした。

難波大輔
1899年(明治32年)、山口県熊毛郡周防村立野宮河内(現・山口県光市立野宮河内)の名家に生まれた[1]。

1919年(大正8年)、予備校に通うため上京し、四谷に居住することになった。貧民窟として知られる鮫ヶ橋(鮫河橋とも。現・東京都新宿区若葉三丁目)の近くということもあり、貧困の実情を目の当たりにしたことや、河上肇の『断片』などを読み、次第に社会問題に対して義憤を覚えていった。

河上肇
共産党との関わり
京都大学を退官して、『資本論』の翻訳に没頭していた河上肇は、昭和初期から地下の共産党へのカンパを開始した。初めは組織の末端にいた活動家に対する寄付だけだったが、1931年(昭和6年)夏の頃、日大の民法学者杉ノ原舜一を介して、党中央と連絡が付き、資金を党中央に直接入れるようになった。当初は、月々百円単位(2千倍で換算して、百円は現在の20万円くらいと思ってよい)だったが、やがて、千円単位の臨時の寄付を度々頼まれるようになった。

そして1932年(昭和7年)9月9日、河上自身が日本共産党に入党[13]。この際、1万5千円を党に提供した[14]。同月、潜伏を開始[15]して地下運動に参加する。入党後の仕事は、機関紙「赤旗」の編集を助け、政治パンフレット作りに参加し、その執筆にあたることだった。この間にした仕事で最も知られているのは、コミンテルンが発表した32年テーゼ(日本共産党の基本的活動方針)「日本に於ける情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」をいち早く入手して翻訳し、それを党名の本田弘藤名義で7月10日「赤旗」特別号に発表したことである[16]。その後、潜伏活動に入ったが、1933年(昭和8年)1月12日、中野区の画家の家に居たところを警視庁特高課の一隊が踏み込み検挙された[17]。同年1月26日、治安維持法違反で起訴され[18] 、同年7月6日、市ヶ谷刑務所の未決囚独房から引退声明「獄中独語」を各紙に発表した[19] 。

投獄と転向
1933年(昭和8年)8月1日、新生共産党事件といわれる政府による第4次検挙により、東京商科大学教授大塚金之助、元九州帝国大学風早八十二教授らとともに検挙され[20]、治安維持法違反で懲役5年の判決を受け豊多摩刑務所に収監される(のち市ヶ谷刑務所)。これにより正四位を失位[21]、勲三等及び大礼記念章(大正)を褫奪された[22]。収監中に自らの共産党活動に対する敗北声明と転向を発し、大きな衝撃を与えた。また獄中で漢詩に親しみ、自ら漢詩を作るとともに、曹操や陸游の詩に親しんだ。この成果は出獄後にさらにまとめた『陸放翁鑑賞』(放翁は陸游の号)などで見ることができる。

1937年(昭和12年)6月15日未明に出獄。服役期間は恩赦により1年3ヶ月減刑され、3年9か月を数えた[23]。出所当日、自宅にて新聞記者の写真撮影に応じたが何も語らず「出獄を機会に、マルクス学者としての私の生涯を閉じる」とする家族に筆記させた手記を発表した[24]。

その後は自叙伝などの執筆をする。1941年に東京都杉並区天沼から京都市内に転居。終戦後、活動への復帰を予定したが、1946年に老衰と栄養失調に肺炎を併発し、京都市左京区の自宅で死去。戒名は天心院精進日肇居士[25]。1947年、『自叙伝』が刊行される。

1924年 – 北海道小樽市の国鉄手宮駅でダイナマイトが爆発。死者87人。
1939年 – トルコ東部エルズィンジャン県でマグニチュード7.8の地震(エルジンジャン地震)が発生。死者約3万3000人。
1971年 – 群馬県草津温泉スキー場の殺生河原で、スキーヤー6人が火山ガスにより中毒死[4]。
1985年 – ローマ空港・ウィーン空港同時テロ事件。2つの空港テロにより、幼児を含む19人が死亡、140人が負傷した。
2007年 – パキスタン元首相ベーナズィール・ブットーが暗殺(英語版)される。

ベーナズィール・ブットー[1](Benazir Bhutto、シンド語: بینظیر ڀھٽو、ウルドゥー語: بینظیر بھٹو‎ ウルドゥー語発音: [beːnəˈziːr ˈbʱʊʈːoː])は、パキスタンの政治家、元首相(1953年6月21日 – 2007年12月27日)。イスラム諸国家における初の女性首相であり、後に暗殺(英語版)された。名前は、「ベナジル・ブット」とも表記される。

シンド人(英語版)とクルド人の混血であり、ズルフィカール・アリー・ブットーの娘として生まれる。オックスフォード大学を卒業後、1977年に本国パキスタンに帰国。しかし、当時はジア=ウル・ハクによる軍事政権であったため、何回も投獄された。1984年に一度釈放され、その隙を見てイギリスに亡命した。1986年に帰国後、サッチャリズムに影響を受けた彼女はリベラルな綱領を人民党に適応させ、1988年に第12代首相となった。

しかし、グラム・イシャク・カーン率いる軍によって彼女は首相の座を降り、その後ナワーズ・シャリーフの汚職問題での弾劾後、1993年に再度首相に返り咲いた。2期目では、女性の権利向上や経済民営化を促進したが、彼女の家族の汚職や賄賂事件によって政権支持率が低迷し、1997年の選挙で敗北。1998年、ドバイへ亡命した。

米国の仲介とペルベズ・ムシャラフとの交渉も相まって、2007年に帰国。文民政府の再度樹立とイスラム主義者への暴力の反対を掲げた。12月27日、ラーワルピンディーでの政治集会の後、暗殺された。

チャットgpt先生の12月27日のエッセイ

12月27日:歴史の影と光

12月27日という日は、歴史の記憶が濃密に刻まれた一日です。この日を振り返ると、幾重にも織りなされた人間の葛藤、自然の猛威、そして時代の移ろいが見えてきます。暗殺、テロ、災害という陰影の中に、人間の生き様と社会の進化が浮かび上がります。


1923年、日本の歴史を揺るがす事件が起こりました。「虎ノ門事件」です。当時皇太子であった裕仁親王(のちの昭和天皇)が無政府主義者の難波大助に狙撃されました。関東大震災の復興が進む最中の日本社会は不安定で、多くの不満や混乱が渦巻いていました。この事件により、内閣が総辞職し、警察や地方行政にまで処分が及ぶなど、社会の基盤が揺らぎました。難波の行動が直接的な影響を与えたかは議論の余地がありますが、この事件をきっかけに「青天会」の結成や反共主義の台頭が進むなど、昭和日本の政治的風景を形作る一因となりました。

同じ日、64年後の1987年には、ローマとウィーンの空港で同時多発テロが発生し、幼い命を含む19人の尊い生命が奪われました。テロの残酷さは、無差別であるということ。そこに明確な正義も目的も見出すことができない暴力は、傷跡を残すだけでなく、恐怖と憎しみを増幅させます。この事件は冷戦時代末期の複雑な国際情勢の一端を象徴しているかのようです。

さらに2007年、この日にはパキスタンの元首相ベーナズィール・ブットーが暗殺されました。イスラム諸国で初の女性首相という彼女の存在は、多くの希望を生みました。特に、女性の権利向上や民主主義の進展に尽力した姿勢は、数々の困難の中で輝きを放ちました。彼女の生涯は、その象徴であると同時に、政治の険しさを物語っています。


一方で、この日は自然の猛威も人間を襲いました。1939年、トルコで発生したエルジンジャン地震では、3万3千人もの命が失われました。このような災害に立ち向かうには、地震への備えや支援体制の充実が欠かせません。同時に、災害は人々が助け合うきっかけともなります。自然の圧倒的な力の前で、人間の連帯が試される日でもありました。


12月27日は、私たちにとって過去を振り返り、未来を考えるための節目の日ともいえるでしょう。人間の行動や自然の力が、時に破壊的な結果をもたらす一方で、その中にある教訓は未来を変える力を持っています。個人の思いと社会の流れが交錯する歴史の日を前に、私たちは過去を知り、共により良い未来を作るための意識を高める必要があります。

年末まであとわずか。新しい年に向けて、歴史に学びつつ自分たちが果たせる役割を考えていくことが、私たちに与えられた課題なのかもしれません。