12月24日
20251224水曜日旧暦11月5日先負(丁卯ひのとうテイボウ)月齢 4
乙巳きのとみ年 戊子つちのえね月 丁卯ひのとう日 年末まであと7日
https://ja.wikipedia.org/wiki/12%E6%9C%8824%E6%97%A5
12月24日の出来事
1854年(嘉永7年11月5日) – 安政南海地震。死者数千人。
1949年 – 聞慶虐殺事件: 韓国の慶尚北道聞慶市で、韓国陸軍第3歩兵師団第25歩兵連隊の第7中隊第3大隊第2および第3小隊によって、非武装の民間人が88名が虐殺される。
1854年(嘉永7年11月5日) – 安政南海地震。死者数千人。
1865年 – 南部連合の退役軍人らがクー・クラックス・クラン (KKK) を設立。
1878年 – 大背美流れ 大背美流れ(おおせみながれ)[1][2][3]または背美流れ(せみながれ)[5]は、1878年(明治11年)に和歌山県東牟婁郡太地(現・太地町)沖で起きた捕鯨船の海難事故。不漁続きで悪天候の中、沖合まで出漁した捕鯨船団が壊滅し、100人以上の漁師が行方不明となった。日本の捕鯨史上最大の惨事とされる[2]。死亡者 8名[4]
行方不明者 107名[4]
1949年 – 聞慶虐殺事件: 韓国の慶尚北道聞慶市で、韓国陸軍第3歩兵師団第25歩兵連隊の第7中隊第3大隊第2および第3小隊によって、非武装の民間人が88名が虐殺される。
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1865年 – 南部連合の退役軍人らがクー・クラックス・クラン (KKK) を設立。
概説
「白人至上主義団体」とされるが、正確には「北方人種至上主義」(ノルディック・イデオロギー)で、主に黒人、アジア人、ヒスパニック、ユダヤ人などの他の人種の市民権に対し異を唱え、同様にカトリックや、同性愛者の権利運動、フェミニズムなどに対しても反対の立場を取っている。
マニフェスト・デスティニーを掲げ、プロテスタントのアングロ・サクソン人(WASP)などの北方系の白人のみがアダムの子孫であり、唯一、魂を持つ、神による選ばれし民として、他の人種から優先され隔離されるべきである、と主張する選民思想団体。
名前の由来はギリシャ語の「kuklos(円環、集まりの意)」の転訛と英語の「clan(氏族、一族)」を変形させたものと言われる。別の説として、ライフル銃の操作音を字体化したという説もある。
戦争を経て5000人規模の組織となった第2のKKKは、アメリカ南部のノスタルジア、愛国心、騎士道、倫理観を守ることに焦点を当てた[3]。 第2のKKKは「黒人を躾ける」とした以前のKKK以上に強硬的な過激派として活動し、その思想も従来の黒人差別のみならず有色人種全体の排撃を主張した。人種主義に加えて民族主義や宗教色も強まり、セム人種ユダヤ系やムスリムも攻撃の対象としたKKKは白人貧困層の絶大な支持を集め、幾つかの州では少なからぬ政治的影響力を持つに至った。他にカトリック教徒や共産主義者も攻撃対象とされた。1923年にはオクラホマ州だけで2,500件以上の暴行事件を起しており、放火や殺人が日常的に行われた。暴力行為も凄惨の限りを尽くし、両手を攻撃、縄で縛って列車に轢かせる、焼印を押すなど残虐さを極めた。
1878年 – 大背美流れ 大背美流れ(おおせみながれ)[1][2][3]または背美流れ(せみながれ)[5]は、1878年(明治11年)に和歌山県東牟婁郡太地(現・太地町)沖で起きた捕鯨船の海難事故。不漁続きで悪天候の中、沖合まで出漁した捕鯨船団が壊滅し、100人以上の漁師が行方不明となった。日本の捕鯨史上最大の惨事とされる[2]。死亡者 8名[4]
行方不明者 107名[4]
事故発生
1878年(明治11年)は特に不漁の年で、太地の村々では年末になっても年を越す支度金も無いほどの困窮に瀕していた[2][3]。12月24日、雨天の中勢子舟が沖合で親子連れのセミクジラを発見した[4][注釈 2]。雨天しかも夕刻という悪条件[3]、さらに敬遠してきたセミクジラの親子連れだったため、燈明崎にあった山見の責任者である山旦那の和田金右衛門頼芳は、今回の鯨は見逃すと判断した[3]。しかし金右衛門の従弟で鯨組の責任者だった和田覚右衛門は、今回の鯨は天の恵みであり、危険を冒しても鯨組の経営を楽にすべきと主張した[6]。覚右衛門のほかにも、明るい正月を迎えたいという村民の願いは強く、全村挙げての鯨漁が始まった[7]。
悪天候の中、漂流する捕鯨船団の姿は山見からも見えなくなった。
横殴りの暴風雨に[6]潮の流れが強いため網は1度目は切れ、2度目は外れてしまい[4]、セミクジラは沖に逃れた[7]。船団も鯨を追って沖合に向かい、船団のかがり火は地上からも見えなくなった。船団は夜を徹して鯨を追い、ついに翌12月25日の朝10時に捕獲した[4]。ところが、船団は地上から離れすぎたため太地に戻るのに時間がかかった上、西風が強くなり荒天となった。夕刻になり1隻が水と米を補給するために太地に戻ってきたが、日没も近づいたため、船団は止む無く捕らえた鯨を切り離した。しかし日没後に西風が強くなり、船団はなおも漂流した[4][6]。
さらに翌日の12月26日には、船団が地上から見えなくなったため、太地では妙法山[注釈 3]などに村人を派遣するなど大騒ぎになった。漂流する船団は陸地を見失い、12月27日には綱で船を繋いだが、散らばった船は1隻が沈没し3隻が漂着し全壊したほかは行方不明となり[4]、船団の船全てが失われた[7]。
船を失い漂流した生還者は、マグロ漁船などに救助された[4]。伊豆諸島の神津島に漂着した[7]3名は、3ヶ月以上経った1879年(明治12年)3月18日に太地に戻ることができた。しかし最終的に生還できたのは80名で、8名が死亡し、107名以上が行方不明となった[4]。死者・行方不明者の中には、手伝いの老人や子供も含まれる[6]。
1949年 – 聞慶虐殺事件: 韓国の慶尚北道聞慶市で、韓国陸軍第3歩兵師団第25歩兵連隊の第7中隊第3大隊第2および第3小隊によって、非武装の民間人が88名が虐殺される。
聞慶虐殺事件(ムンギョンぎゃくさつじけん/ぶんけいぎゃくさつじけん)とは、1949年12月24日に大韓民国慶尚北道聞慶郡(現:聞慶市)で韓国軍が共匪に協力したなどとして非武装の住民88人を虐殺し、共匪の犯行としていた事件[1][2][3][4][5][6]。
概要
1949年12月24日に大韓民国慶尚北道聞慶郡山北面(ko)で、共産匪賊に協力したなどとして、韓国陸軍第2師団第25連隊の第7中隊第2小隊第3小隊が非武装の女性、子供、老人の88人を射殺した[2][1][4]。虐殺事件は長らく共産匪賊による蛮行とされてきたが、2005年に成立した真実和解のための過去史整理基本法によって設立された真実・和解のための過去史整理委員会によって2007年6月26日に韓国政府の犯行であったことが明らかにされた[4][5]。
チャットgpt先生の12月24日のエッセイ
12月24日――静けさの裏に刻まれた歴史
冬至を越えたばかりの冷えた空気の中で迎える十二月二十四日。
現代ではクリスマス・イブとして、灯りの温かさや人の笑顔が街に満ちる。しかし、同じ日付を辿ってみると、静寂の裏側には、いくつもの痛ましい出来事が刻み込まれている。
1854年のこの日、土佐や紀伊を襲った安政南海地震では数千の命が奪われた。海の向こうから突然押し寄せる巨大な力は、人の営みを一瞬で飲み込んでしまう。歴史の中で繰り返し語られる自然災害の一つだが、そこには顔も名前もある多くの人々の暮らしがあった。
1878年の「大背美流れ」は、太地の漁村が年の瀬を越えられるかどうかという切迫した事情の中で起きた惨事だった。
不漁と荒天。追うべきか、退くべきか――その決断は、村人たちの生活と誇り、未来をかけたものだった。
海は時に恵みを与え、時に無慈悲である。その海へ漕ぎ出した人々の祈りや焦りを思うと、数字以上の重さが胸にのしかかる。
また歴史は、自然だけでなく人の心の闇も記録している。
1865年には、アメリカ南部でクー・クラックス・クランが結成された。人種や宗教をめぐる偏見と暴力の象徴となった存在だ。
1949年の韓国・聞慶虐殺事件では、非武装の女性や子どもまでもが銃口の前に立たされ、真実は長く覆い隠された。国家と歴史の中で何が語られ、何が隠されるのか――その問いは今も続く。
こうして振り返ると、十二月二十四日は祝祭日としての明るさとは裏腹に、人間の弱さや苦しみ、誤り、そして自然の猛威が噴き出した日でもある。
しかし同時に、そこには「生き残った人が語り継ごうとした歴史」も存在する。
悲劇は忘れるためではなく、繰り返さないために記録される。
祝いの日の灯りが温かいのは、その影の深さを知っているからなのかもしれない。
年末まで残り七日。
一年の終わりの忙しさの中で、こうした歴史を一度だけ立ち止まって思い返すことには意味がある。
今日を無事に迎えられたこと、身近な人がそばにいること、その当たり前がどれほど貴いものなのかを静かに感じる日として――。

