kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日12月18日 1916ヴェルダンの戦い終結、ほか写真wikipedia戦没者墓地

12月18日

20251218木曜日旧暦10月29日友引(辛酉かのととりシンユウ)月齢 27.8

乙巳きのとみ年 戊子つちのえね月 辛酉かのととり日 年末までは、あと13日

吉方位 隠遁日 辛酉かのととり日

https://ja.wikipedia.org/wiki/12%E6%9C%8818%E6%97%A5

12月18日の出来事
紀元前218年 – 第二次ポエニ戦争: トレビアの戦い。年月日:紀元前218年12月18日
場所:プラケンティア(現在のピアチェンツァ)近郊、トレビア川 結果:カルタゴの勝利
損害 カルタゴ軍40000人中 損害僅少。 ローマ軍40000人中 戦死傷20000人。
1695年(元禄8年11月13日) – 生類憐れみの令に伴い、徳川綱吉が武蔵・中野村に16万坪の「犬小屋」を設置する。
1876年 – 伊勢暴動が発生。戦争:地租改正反対一揆 年月日:1876年(明治9年)12月18日 – 12月24日 場所:三重県・愛知県・岐阜県・堺県
結果:官軍の勝利(地租引き下げ成功の観点からは一揆軍の勝利) 損害 政府側 僅少。 一揆側 15000人以上中 死者35人 負傷48人。
1916年 – 第一次世界大戦: ヴェルダンの戦いが終結。年月日:1916年2月21日 – 12月19日

場所:フランスの旗 フランス共和国 ロレーヌ地方ムーズ県ヴェルダン 結果:フランス共和国の勝利 損害:フランス軍 戦死傷500000人 内死亡不明162308人 ドイツ軍 戦死傷400000人 内死亡100000人。

1950年 – 埼玉県大宮市の東北本線踏切で、東武バスが上野駅行列車の側面に衝突。乗員・乗客13人が死亡、重軽傷4人[2]。

2023年 – 中国内陸部の甘粛省臨夏回族自治州積石山県で、マグニチュード6.2の地震が発生。151人が死亡し、数十万人が被災した[7]。

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紀元前218年 – 第二次ポエニ戦争: トレビアの戦い。年月日:紀元前218年12月18日
場所:プラケンティア(現在のピアチェンツァ)近郊、トレビア川 結果:カルタゴの勝利
損害 カルタゴ軍40000人中 損害僅少。 ローマ軍40000人中 戦死傷20000人。

結果と影響
この戦闘におけるローマ軍の損害は20,000名を超えた。これに対しカルタゴ軍の損害は軽微で、大半は中央のガリア歩兵であった。予想外の大敗を喫したローマ軍は、プラケンティアまで後退した。2人の執政官は、カルタゴ軍の進撃を阻止することは不可能であると考え、北部イタリアの放棄を決定、軍を後退させた。

ローマの正規軍に対して正面から挑み、これを打ち破ったことによって、ハンニバルの名声は大いに高まった。カルタゴ軍に参加するガリア兵は増加の一途をたどり、まもなくカルタゴ軍の兵力は50,000名を超えた。ハンニバルはさらなる戦果を求めて南下した。

1695年(元禄8年11月13日) – 生類憐れみの令に伴い、徳川綱吉が武蔵・中野村に16万坪の「犬小屋」を設置する。

1876年 – 伊勢暴動が発生。戦争:地租改正反対一揆 年月日:1876年(明治9年)12月18日 – 12月24日 場所:三重県・愛知県・岐阜県・堺県
結果:官軍の勝利(地租引き下げ成功の観点からは一揆軍の勝利) 損害 政府側 僅少。 一揆側 15000人以上中 死者35人 負傷48人。

伊勢暴動(いせぼうどう)は、1876年(明治9年)12月に三重県飯野郡(現在の三重県松阪市)に端を発し、愛知県・岐阜県・堺県まで拡大した地租改正反対一揆である。受刑者は50,773人に上り、当時最大規模の暴動事件となった[2]。

現行の高等学校「日本史」の教科書では、茨城県で発生した真壁騒動(真壁一揆)と並び、地租改正反対一揆の代表とされている[注 1]。この暴動を通して、地租が3%から2.5%に引き下げられたことから「竹槍でドンと突き出す二分五厘」とうたわれた[注 2]。

1916年 – 第一次世界大戦: ヴェルダンの戦いが終結。年月日:1916年2月21日 – 12月19日
場所:フランスの旗 フランス共和国 ロレーヌ地方ムーズ県ヴェルダン 結果:フランス共和国の勝利 損害:フランス軍 戦死傷500000人 内死亡不明162308人 ドイツ軍 戦死傷400000人 内死亡100000人。

影響
ヴェルダンの戦いはいくつかの教訓を残した。

1つ目は、要塞の価値の再認識である。大戦当初のベルギーのリエージュ要塞の早期陥落やロシア、オーストリアの要塞が意外に早く落ちたため、要塞の価値について疑問視されるようになっていた。しかしながらこのヴェルダンの戦いによって要塞は再び注目されるようになった。

2つ目はフランス自動車隊の活躍である。本来ヴェルダンの背後連絡線としては道路のほか、鉄道が1つだけであった。が、その鉄道はドイツ軍の砲撃によって使用困難になっていたため、貨物自動車を使用して増援部隊を送ったのである。例をあげるならば、3月から5月の間に40万人もの兵士がヴェルダンに送られた。このことにより自動車の価値は初めて世上に認められるようになったのである。

3つ目は、フランス軍の士気低下である。いつまでも終わらぬ戦争に交戦各国の兵士たちの士気は低下していたが、フランス軍では特に著しかった。このことは1917年のニヴェル攻勢での反乱につながる。

4つ目は、「同数同質の敵の防御陣地を、歩兵の徒歩行軍で突破することは至難」というファルケンハインの洞察の正しさが(敗北と本人の失脚によって)証明されたことである。この洞察は1918年春季攻勢において再確認された。そして、「歩兵の徒歩行軍で」という前提条件が変更されて防御陣地の突破が可能になるには、はるか後年の機甲部隊による電撃戦を待たねばならなかった。

1950年 – 埼玉県大宮市の東北本線踏切で、東武バスが上野駅行列車の側面に衝突。乗員・乗客13人が死亡、重軽傷4人[2]。

2023年 – 中国内陸部の甘粛省臨夏回族自治州積石山県で、マグニチュード6.2の地震が発生。151人が死亡し、数十万人が被災した[7]。

チャットgpt先生の12月18日のエッセイ


12月18日という日を歩く

年の瀬が近づく12月18日は、暦の上では友引。古くから人々は、この日の吉凶や方位に目を配り、ひそやかな気配を読み取ってきた。月齢27.8の細い月は、空の片隅に淡く光り、年末まで残り13日という静かな焦燥感を照らしている。

しかし、歴史の中で同じこの日には、静けさとはまったく別の景色が広がっていた。

今から二千年以上前の紀元前218年、トレビア川のほとりで、ローマとカルタゴの運命を揺るがす戦いが行われた。ハンニバルの軍勢は雪に覆われたイタリア北部でローマ軍を破り、その名をヨーロッパ中に轟かせた。カルタゴ軍の損害が軽微であったのに対し、ローマ軍は2万人の損害を負い、撤退を余儀なくされた。12月18日は、歴史の季節風が冷たく吹き抜けた日でもあったのだ。

時代は移り、江戸の元禄8年。徳川綱吉が生類憐れみの令のもと、中野村に16万坪を占める「犬小屋」を設けたのもこの日である。武断の世に慈悲を求めようとした政策は、時に奇異をもって語られるが、そこには人間が道徳と現実のあいだで揺れ動く姿がある。

明治9年の12月18日には、伊勢暴動が三重の地で火を噴いた。地租改正に苦しむ農民たちの不満はやがて各地へと広がった。竹槍一本で世を変えようとした人々の叫びは、やがて地租が2.5%へ引き下げられる結果を引き寄せる。怒りが単なる破壊ではなく、新たな秩序の調整へとつながった稀有な事例でもある。

さらに20世紀初頭、ヨーロッパでは第一次世界大戦の中でヴェルダンの戦いが長きにわたり続き、12月18日から19日にかけてようやく幕を閉じた。人類史でも屈指の凄惨な戦いは、要塞の価値や補給の重要性を再認識させるとともに、兵士たちの心を深く疲弊させた。勝者と敗者を分ける線はあったが、「勝利」という言葉が重く沈黙するような、痛ましい戦いだった。

その後も、1950年の大宮での列車事故、そして2023年の積石山地震と、この日は時に大きな悲しみをも刻んできた。

だが、歴史を眺めるとき、不思議なことに気づく。過ぎ去った出来事のひとつひとつは決して同じではないのに、それらが重なり合って作る「12月18日」は、いつも人間という存在の複雑さを映し出していることだ。

戦い、苦悩、失敗、努力、そして再生。
時に暖かく、時に苛烈で、どこか不器用な人間の営みが、この日には凝縮しているように思える。

今日という日を静かに過ごす私たちも、知らず知らずのうちに同じ流れの中に立っている。歴史の波の上に置かれたひとつの現在として、12月18日はまた新しい記憶を刻む。

残り少ない今年の日々の中で、この一日が、少しだけ特別な重みを帯びて感じられてくる。歴史を知ることは、過去の出来事を思い出すだけでなく、自分の歩いている道の風景を深くすることなのだ。