kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日12月17日  1983ハロッズ爆破事件、ほか写真wikipediaハロッズ百貨店

12月17日

20251217水曜日旧暦10月28日先勝(庚申かのえさるコウシン)月齢 26.8

乙巳きのとみ年 戊子つちのえね月 庚申かのえさる日  年末まであと14日

吉方位 隠遁日 庚申かのえさる日

https://ja.wikipedia.org/wiki/12%E6%9C%8817%E6%97%A5

12月17日の出来事
1880年 – 東京・京橋にて臼井六郎による日本史上最後の仇討ち(あだうち)事件が発生。
1924年 – 北海道小樽駅構内の波止場で荷揚げ作業中の爆薬13トンが爆発。死者・行方不明者85人、負傷者264人[1]。
1944年 – 第二次世界大戦・バルジの戦い: マルメディ虐殺事件。1944年12月17日、ヨアヒム・パイパー親衛隊中佐指揮下のドイツ軍部隊により、捕虜となったアメリカ兵ら84人が殺害された。
1983年 – ロンドンの百貨店ハロッズでIRAによる爆弾テロ、5名が死亡(en:Harrods bombing)。
1987年 – 千葉県東方沖地震が発生、死者2名。

2021年 – 北新地ビル放火殺人事件が発生。大阪市北区北新地の雑居ビルで、放火殺人目的とみられる火災が発生し、26人(容疑者含む)が死亡した[5]。

2024年 – バヌアツの首都ポートビラの西方沖でM7.3の地震が発生。アメリカ大使館が入居するビルなどが倒壊、16人以上が死亡、210人以上が負傷した[6]。

—————————————————–

1880年 – 東京・京橋にて臼井六郎による日本史上最後の仇討ち(あだうち)事件が発生。

臼井 六郎(うすい ろくろう、1858年(安政5年) – 1917年(大正6年)9月4日)は、江戸時代末期(幕末)から大正時代にかけての士族。秋月藩家老・臼井亘理の長男。

日本史上最後の仇討をしたことで知られる。明治に改元される幕末最後の年に、藩内の政治的対立から暗殺された両親の仇討ちを13年後に果たしたが、明治政府が発布した仇討禁止令により犯罪者となり、裁判で懲役刑を宣告された。江戸時代であれば武士の誉れと称えられたものが、時代の変化により断罪されるという、明治維新の渦に翻弄された事件として世間を大いに賑わせた。仇探し中には山岡鉄舟や勝海舟といった著名人とも交友を持った。

六郎は取り調べにおいて、仇討ちを禁止する法令を知っていたか問われ、その法は知らないが養父から復讐は往古より禁制であると言われており、国法を犯した事は承知していると答えている。翌1881年(明治14年)9月22日に判決が下り、終身禁獄の刑を宣告された。当時の法律では謀殺に当たるため、本来は死罪(232条)であったが、閏刑(身分刑)が適用され終身刑に減刑された。

六郎は石川島懲役場[1] に投獄され、その後小菅の東京集治監に移された。入獄中は、同監の河野広中、大井憲太郎らより詩文などを学んだ[2]。規則を守ってよく働き、余暇には和歌を詠み詩を作るなど、模範囚として過ごした。鉄舟夫人・英子から度々六郎に衣服や食料の差し入れがあった。

1889年(明治22年)大日本帝国憲法発布の特赦によって罪一等を減ぜられ、禁獄10年に減刑となり、1891年(明治24年)9月22日、34歳で釈放された。出所の日、叔父の上野月下の他、鉄舟夫人の意を受けた書生が来ていた。書生は今夕、本郷根津の神泉亭で六郎の慰労会を行うので迎えに来たという。慰労会には鉄舟夫人・英子、自由民権指導者の大井憲太郎、星亨、貴族院議員原田一道、剣術家の伊庭想太郎や大学教授などそうそうたる顔ぶれで六郎を驚かせた。鉄舟は六郎の服役中に死去していた。

1924年 – 北海道小樽駅構内の波止場で荷揚げ作業中の爆薬13トンが爆発。死者・行方不明者85人、負傷者264人[1]。
1944年 – 第二次世界大戦・バルジの戦い: マルメディ虐殺事件。1944年12月17日、ヨアヒム・パイパー親衛隊中佐指揮下のドイツ軍部隊により、捕虜となったアメリカ兵ら84人が殺害された。

1983年 – ロンドンの百貨店ハロッズでIRAによる爆弾テロ、5名が死亡(en:Harrods bombing)。

この記事は1983年の爆破事件についてです。1993年の爆破事件については、1993年のハロッズ爆破事件をご覧ください。
「1983年ロンドン爆破事件」はここにリダイレクトされます。兵舎の攻撃については、1983年の王立砲兵兵舎爆撃を参照してください。
ハロッズ爆破事件
トラブルの一部

場所 イギリス、ロンドン
日付 1983年12月17日
13:21 (UTC)
ターゲット ハロッズ百貨店
攻撃タイプ 自動車爆弾
死亡 6名(警察官3名、民間人3名)
傷付いた 90
加害者 アイルランド共和国暫定軍
VTE
イギリスとヨーロッパ大陸のトラブル
ハロッズ爆破事件とは、1983年12月17日土曜日にイギリスのロンドン中心部にあるハロッズ百貨店の外で爆発した自動車爆弾のことである。暫定アイルランド共和国軍の隊員は時限爆弾を仕掛け、爆発の37分前に警告を発したが、その地域は避難しなかった。爆発により、警察官3人と民間人3人が死亡、90人が負傷し、大きな被害をもたらした。IRA陸軍評議会は、攻撃を許可していないと述べ、民間人の死傷者に対して遺憾の意を表明した。[1]爆撃後、IRAはイギリスの軍事目標への攻撃に重点を移した。

1987年 – 千葉県東方沖地震が発生、死者2名。
2021年 – 北新地ビル放火殺人事件が発生。大阪市北区北新地の雑居ビルで、放火殺人目的とみられる火災が発生し、26人(容疑者含む)が死亡した[5]。

2024年 – バヌアツの首都ポートビラの西方沖でM7.3の地震が発生。アメリカ大使館が入居するビルなどが倒壊、16人以上が死亡、210人以上が負傷した[6]。

チャットgpt先生の12月17日のエッセイ

12月17日という一日には、奇妙なほど多様な「破れ目」が刻まれている。
歴史の布がほころぶように、さまざまな時代・さまざまな場所で、価値観が揺らぎ、人々の生と死が交差する出来事が起きてきた。


■ 古き秩序が終わり、新しい秩序が始まった日

1880年の東京・京橋で起きた「日本最後の仇討ち」は、武士の時代が完全に幕を下ろしたことを象徴する事件だった。
臼井六郎は、忠義と復讐という武士の倫理に従い、亡き両親の仇を討った。しかし、時代はすでに明治。彼が貫いた「正義」は新しい国家の法によって罪とされた。

六郎が投獄され、詩歌に救いを求めつつも、模範囚として生きたという事実は、まるで一つの物語のようだ。
武士の時代に生まれながら、近代国家に生きることを強いられた彼の人生は、文明の転換点に立つ人間の痛みを象徴している。

12月17日という日には、こうした「価値観の転換の瞬間」が刻まれている。


■ 大地が揺れ、街が破れ、人が倒れる日

1924年の小樽、1987年の千葉東方沖、そして2024年のバヌアツ。
地震という容赦のない自然の力は、国境も時代も選ばずに襲いかかる。

爆薬13トンが暴発し、港湾が一瞬で破壊された小樽の惨事。
年末の慌ただしさの中、突然の揺れで命が奪われた千葉の地震。
そして2024年—ビルが崩れ、アメリカ大使館の入る建物までもが倒れ、多くの人が負傷したバヌアツの震災。

「昨日まであった景色」が今日には失われるという現実を、12月17日は何度も突きつけてくる。


■ 人が人に牙をむく日

1944年、バルジの戦いで起きたマルメディ虐殺。
1983年、ロンドンのハロッズを襲った自動車爆弾。
2021年、大阪・北新地ビル放火事件。

いずれも「意図的な暴力」が人の命を奪った日である。

戦争、政治的対立、個人の憎悪や絶望—動機は違えど、奪われた命に違いはない。
ハロッズ爆破では、警告がありながらも人々は避難できず、警官と民間人が亡くなった。
北新地の事件では、静かな医療ビルが炎の地獄と化した。

この日は、暴力がもたらす「穴」の深さを思い知らされる日でもある。


■ 歴史の裂け目に射す一筋の光

しかし、12月17日をただ「悲劇の多い日」としてしまっては、そこで終わってしまう。

仇討ちの六郎に差し入れを続けた鉄舟夫人。
出所の日、彼を迎えた多くの篤さを持つ人々。
IRAでさえ、民間人の死に遺憾を表し、標的を軍事拠点へと変更したという悔恨を示した。
震災や事故のたびに、人々が救助に走り、再建し、記憶を伝えようとした。

どれほど世界が裂けても、そこに「人の温度」が残り続ける。


■ 12月17日を生きるということ

年末まであと14日。
月は欠け、月齢26.8。
十干は「庚」、干支は「申」。
運勢としては「隠遁」を示す日だという。

奇しくも、歴史が物語る12月17日も、どこか「静かに自分と向き合う日」に似ている。
喧騒の裏で、見えないところで世界は変わり、人の心もまた静かに揺れ動く。

今日という日を過ごす私たちに必要なのは、ただ怖れたり憂うことではなく、
「歴史が重ねてきた痛みと、その中にある光を、少しだけ胸に置くこと」
なのかもしれない。

12月17日。
それは、世界の裂け目を見つめながら、なお人の温かさを信じるための一日である。