12月12日
20241212木曜日旧暦11月12日仏滅(庚戌かのえいぬコウジュツ)月齢 10.8
甲辰きのえたつ年丙子ひのえね月庚戌かのえいぬ日 年末まであと19日
吉方位 北 大吉、北東 大吉。
https://ja.wikipedia.org/wiki/12%E6%9C%8812%E6%97%A5
12月12日の出来事
316年(建興4年11月12日) – 西晋が滅亡する。詳細不明だが滅亡に際し、1000万人規模の殺戮、餓死等があったことが、次代の東晋人口より推察される。
1098年 – 第1回十字軍: マアッラ攻囲戦が終結。年月日:1098年11月 – 12月
場所:マアッラト・アン=ヌウマーン(マアッラ)結果:十字軍の勝利 損害:マアッラ市民20000人が虐殺された。
1939年 – 北海道猿払村沖でソ連の貨客船「インディギルカ号」が座礁・沈没。700人以上が死亡。
1953年 – 青森県新和村一家7人殺害事件。青森県中津軽郡新和村(現:弘前市)で一家7人が射殺され、現場の家が全焼し1人が焼死した。
1965年 – 古谷惣吉連続殺人事件(警察庁広域重要指定105号事件):西日本(近畿地方・九州)にて独居老人8人を殺害したとして指名手配されていた古谷惣吉が兵庫県西宮市内(芦屋市との境界付近)で逮捕される。
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316年(建興4年11月12日) – 西晋が滅亡する。詳細不明だが滅亡に際し、1000万人規模の殺戮、餓死等があったことが、次代の東晋人口より推察される。
西晋(せいしん、拼音: Xījìn)は、司馬炎によって建てられた中国の王朝(265年 – 316年)。成立期は中国北部と西南部を領する王朝であったが、呉を滅ぼして三国時代を完全に終焉させ、後漢末期以降分裂していた中国を約100年振りに再統一した。国号は単に晋だが、建康に遷都した後の政権(東晋)に対して西晋と呼ばれる。
1098年 – 第1回十字軍: マアッラ攻囲戦が終結。年月日:1098年11月 – 12月
場所:マアッラト・アン=ヌウマーン(マアッラ)結果:十字軍の勝利 損害:マアッラ市民20000人が虐殺された。
マアッラ攻囲戦(マアッラト攻囲戦、Siege of Ma’arra / Siege of Maarat)は第1回十字軍の攻城戦の一つ。1098年11月から12月まで、アンティオキアの南にあるシリア北西部の都市マアッラ(マアッラト、現在のマアッラト・アン=ヌウマーン)を舞台に戦われた。十字軍は攻城戦の末マアッラを占領したが、占領後に飢えた兵士らが市民の死体を食べる人肉食を行ったという話が、西洋の年代記作者やムスリムの年代記作者らにより記録されている。この惨害の記憶はムスリムの間に何世紀も残ることになった。
十字軍は戦闘の末、12月11日にマアッラの城壁上を占領し、市民らは市内に引き揚げ、十字軍は市内への突入をひとまず待った[2]。双方はその夜、翌日の戦いに備えて休息に入ったが、十字軍のうち貧しい兵士らが市内に乱入して略奪を始めた。12月12日の朝、守備兵は十字軍の指揮官の一人であるボエモンと交渉に入り、降伏すれば安全を保障するという約束を引き出した[2]。ムスリムの民兵や市民たちは降伏したが、たちまち十字軍により虐殺された。ボエモンは町の城壁と塔を掌握していたが、市内はもう一人の指揮官であるレーモンが掌握していた。二人は仲が悪く、マアッラ全体を誰が占領するかで言い争いを続けており、指揮系統は機能せず、ボエモンと守備隊の交わした降伏の条件はレーモンの部下らのもとには届かなかった。
攻囲戦後、十字軍はマアッラの城壁を壊し始めた。一方、兵士らはレーモンに対してエルサレムへの一日も早い行進を主張し、ボエモンや諸侯との争いを延々と続けるレーモンを突き上げた。最後にはレーモンも折れ、他の諸侯から行軍への理解を得るための折衝を始めた。エルサレムへの行進は翌1099年1月に再開された。1月13日にはたいまつを手にした十字軍がマアッラの家々に火をつけて回り、城壁のみならず町も完全に破壊された[3]。
人肉食
マアッラは十字軍の将兵が期待したほど豊かな町ではなく、略奪しても十字軍の食料や金品や装備の不足を補うことはできなかった。加えて冬も近づいていた。レーモンらがエルサレムへの行軍再開の折衝をアンティオキアで続けている間、飢えた将兵はムスリムの市民の死体を食べ始めたとされる。
年代記作家・カンのラウル(Raoul de Caen / Ralph of Caen)が書いた『ゲスタ・タンクレーディ』(Gesta Tancredi)には次のようにある。
ある者によれば、彼らは食糧不足のためやむなく、異教徒の大人を鍋で煮て、子供は鉄串に突き刺してあぶり焼いて貪り食った[2]。
シャルトルのフーシェ(Fulcher of Chartres)も、『エルサレムへの巡礼者の事績』(Historia Hierosolymitana)でこの事件について次のように書く。
これを語るには身震いがする。わが民の多くが、あまりにも過酷な飢えによる狂気にさいなまれ、死んでいるサラセン人たちから尻肉を切り取って刻み調理をした。しかしまだ肉に充分火の通っていないうちに、獰猛な口で貪り食ったのだ[4]。
エクスのアルベール(Albert of Aix)はこう書く。
キリスト教徒は殺したトルコ人やサラセン人を食べるに躊躇しなかったのみならず、イヌまで食べた (ラテン語: Nam Christiani non solum Turcos vel Sarracenos occisos, verum etiam canes arreptos(…))[5][3]
1939年 – 北海道猿払村沖でソ連の貨客船「インディギルカ号」が座礁・沈没。700人以上が死亡。
1953年 – 青森県新和村一家7人殺害事件。青森県中津軽郡新和村(現:弘前市)で一家7人が射殺され、現場の家が全焼し1人が焼死した。
1965年 – 古谷惣吉連続殺人事件(警察庁広域重要指定105号事件):西日本(近畿地方・九州)にて独居老人8人を殺害したとして指名手配されていた古谷惣吉が兵庫県西宮市内(芦屋市との境界付近)で逮捕される。
チャットgpt先生の12月12日のエッセイ
12月12日という日:歴史の重みと人間の営み
12月12日という日は、一見すると年の瀬に向かう師走の一日ですが、その日付を掘り下げると、歴史の中でいくつもの運命的な出来事が刻まれていることに気づかされます。世界史や日本史、どちらの観点から見ても、この日は人間の営みの光と影を映し出す日と言えます。
西晋の滅亡と千年の記憶
紀元316年、司馬炎が築いた西晋は滅亡を迎えました。かつて中国を統一し繁栄を謳歌した王朝が、民族対立や内紛、飢饉による混乱で崩壊し、その結果生じた「1000万人規模の殺戮や餓死」という推測は、歴史の残酷さを物語っています。この出来事は「中華」の理想が幾度も破壊と再生を繰り返してきた象徴的な瞬間でもあります。大国の滅亡に伴う膨大な数の犠牲者の存在を思うと、歴史の記録には載らない無数の「声なき声」の重みを感じずにはいられません。
第1回十字軍とマアッラ攻囲戦
一方で1098年、この日を含む期間に行われたマアッラ攻囲戦では、十字軍による勝利の影に数万の市民虐殺がありました。さらに、飢餓に追い詰められた兵士たちは死者の肉を食べるという、人間の本能と理性が試された場面が語られています。この記録は、宗教や理念の名の下での戦争が、いかにして人間を極限に追いやるかを示す一例です。同時に、歴史的な「勝利」とは決して単純な栄光ではなく、複雑で時に醜い過程を伴うことを教えてくれます。
日本の悲劇:猿払村沖と新和村一家殺害事件
日本でも12月12日は、幾つかの痛ましい出来事が起きた日です。1939年、北海道猿払村沖でソ連の貨客船「インディギルカ号」が座礁し、多くの命が失われました。その後の救助活動や寒冷地での対処がどれほど過酷だったか、想像するだけで胸が詰まります。また、1953年には青森県で一家7人が殺害される事件が発生し、年の瀬を迎えるはずの村を深い悲しみに包みました。これらの事件を振り返ると、私たちの日常の脆さと、平和の大切さを改めて実感します。
歴史の中の人間らしさを考える
こうした過去の出来事を振り返ると、人間は歴史の中で多くの過ちを繰り返しつつも、その中で生き延びる術を探してきたことが見えてきます。12月12日という日も、単なるカレンダーの一日ではなく、多くの物語を抱えた「特別な一日」として心に留める価値があります。
この日を迎えるにあたり、私たちは歴史を学び、過去の教訓を未来の平和に繋げていく責務を感じます。穏やかな冬の日常がどれほど貴重なものか、静かに噛み締めながらこの一日を過ごしたいものです。