12月20日
20241220金曜日旧暦11月20日赤口(戊午つちのえうまボゴ)月齢 18.8
甲辰きのえたつ年丙子ひのえね月戊午つちのえうま日 年末まであと11日
吉方位 北西 大吉、南西 大吉。
https://ja.wikipedia.org/wiki/12%E6%9C%8819%E6%97%A5
12月20日の出来事
1858年(安政5年11月16日) – 西郷隆盛が、清水寺の僧侶月照とともに錦江湾へ入水自殺した。西郷は救助されたが、月照はそのまま亡くなった[1][2]。
1942年 – トルコ北中部でM6.9、1500人が亡くなった。
1950年 – 岡山県立聾学校寄宿舎火災。生徒16人死亡[3][4]。
1952年 – 乗客、乗組員115名を乗せ、ワシントンからサンアントニオに向かっていたアメリカ軍のC-124輸送機が墜落[5][6]。関係者132人中死亡101人生存31人。
1962年 – 沖縄県嘉手納基地付近でアメリカ軍の空中給油機KB-50が墜落。乗員7人、住民5人が死亡[7]。
1968年 – サンフランシスコでゾディアック事件の最初の殺人事件が起こる。
1987年 – フィリピンのタブラス海峡で貨客船ドニャ・パス号が小型タンカービクトル号と接触し沈没。公称で1575人、実際には4000人以上が死亡。
1995年 – アメリカン航空965便墜落事故。死亡159人生存4人。
2016年 – 2016年サン・パブリート市場花火爆発事故。死亡42人不明12人負傷84人。
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1858年(安政5年11月16日) – 西郷隆盛が、清水寺の僧侶月照とともに錦江湾へ入水自殺した。西郷は救助されたが、月照はそのまま亡くなった[1][2]。
生涯
文化10年(1813年)、大坂の町医者の長男として、讃岐吉原(現在の善通寺市)に生まれた。
文政10年(1827年)、叔父の蔵海の伝手を頼って京都の清水寺成就院に入り、天保6年(1835年)住職となった。しかし尊王攘夷主義に傾倒して公家たちや活動家たちと関係を持ち、徳川家定の将軍継嗣問題では一橋派に与したため、幕府から危険人物とみなされた。西郷隆盛と親交があり、西郷が尊敬する島津斉彬が急死したとき、殉死しようとする西郷に対し止めるように諭している。
安政5年(1858年)8月から始まった安政の大獄で追われる身となり、西郷とともに京都を脱出して土浦藩士・大久保要や水戸藩京都留守居役・鵜飼吉左衛門らの支援の元、しばらく大坂に留まっていた。さらに老中・間部詮勝の入京に先立ち、西郷の強い希望により、有村俊斎らの助力を受けて西郷の故郷である薩摩藩に海路逃れたが、藩では厄介者である月照の保護を拒否し「日向国送り」を命じる。これは、単に身柄を移送するのではなく、薩摩国と日向国の国境で殺害することを意味していた。これを知った月照は死を覚悟し、西郷とともに錦江湾に入水した。西郷は奇跡的に一命を取り留めたが、月照は死亡した。享年46であった。「眉目清秀、威容端厳にして、風采自ずから人の敬信を惹く」と伝えられている。
墓は、月照ゆかりの清水寺(京都市東山区)と西郷の菩提寺である南洲寺(鹿児島市)にあり、清水寺では月照の命日である11月16日に「落葉忌」として法要を行っている(新暦の毎年同月同日に実施)。
なお、月照の弟・信海(1821年 – 1859年)は、兄の死後、成就院の住職を継いだが、兄などとともに活躍したことから捕縛され、江戸で獄死した(享年39)。
1942年 – トルコ北中部でM6.9、1500人が亡くなった。
1950年 – 岡山県立聾学校寄宿舎火災。生徒16人死亡[3][4]。
1952年 – 乗客、乗組員115名を乗せ、ワシントンからサンアントニオに向かっていたアメリカ軍のC-124輸送機が墜落[5][6]。関係者132人中死亡101人生存31人。
1962年 – 沖縄県嘉手納基地付近でアメリカ軍の空中給油機KB-50が墜落。乗員7人、住民5人が死亡[7]。
1968年 – サンフランシスコでゾディアック事件の最初の殺人事件が起こる。
ゾディアック事件(ゾディアックじけん、英: Zodiac Killer)は、アメリカ合衆国で発生した連続殺人事件。現在も継続捜査中の未解決事件である。
「ゾディアック」とは英語で黄道帯を意味する語だが、犯人が声明文の中で「私はゾディアックだ(This is the Zodiac speaking.)」の一節を頻繁に用いたことでその名称として知られるようになった。
日付 1968年 – 1974年
概要 カリフォルニア州で発生した連続殺人事件
死亡者 5人(自称37人)
負傷者 2人
犯人 不明(犯人の親族を名乗る人物有)
1987年 – フィリピンのタブラス海峡で貨客船ドニャ・パス号が小型タンカービクトル号と接触し沈没。公称で1575人、実際には4000人以上が死亡。
船歴
ドニャ・パス号(1984年)
もともとは1963年4月25日に日本の尾道造船で建造され、琉球海運の鹿児島港~那覇港、東京~那覇航路で活躍していたひめゆり丸(定員608人)であった。これが1975年にフィリピンの船会社に転売された後、1979年6月5日に火災に遭い廃棄処分の憂き目に遭った。しかしフィリピン国内の船不足から改造を施す会社が現れ、1981年に名前をドニャ・パス号に変えて再起した。再起にあたっては船体上部に大幅に客室が加わるなど、元の面影が全くなくなるほどの重改造(定員増は3倍以上)が加えられていたという。公称では2,640tとされているが、疑問を挟む余地はある。
事故
1987年12月20日、クリスマス休暇を目前に、定員をはるかに上回る乗客と貨物を満載してレイテ島のタクロバンからマニラへ向かっていたドニャ・パス号は、ミンドロ島・パナイ島間のタブラス海峡にて22時頃、ガソリン1000トンを積んでいた小型タンカーのヴェクター(Vector)号と衝突した。
ほぼ瞬時の出来事であったらしく、両船ともに全く救難信号が発せられず、事故の衝撃でヴェクター号から漏れ出したガソリンに引火して大火災が発生。前述の通り大量の貨物と乗客で超過密の状態だったドニャ・パス号の人々は逃げる場所もなく、ほぼ全員が焼死した。それだけでなく、両船の周囲の海にも引火した大量のガソリンが流れ出し、文字通りの火の海になっていた状況もあって、火災の熱さに耐えられず船から海に飛び込んだ人々もことごとく溺れながら焼死し、両船とも数時間で全焼した後に沈没した[1]。
事故当時、付近を航行していた複数の船は、炎上する2隻の船を見かけて直ちに救助に向かったが、凄まじい勢いで燃える炎の前にはなす術もなく、火災が収まってから海に浮かんでいたわずかな生存者を見付けて船に収容するだけで手一杯であった。この事故における生存者は、ドニャ・パス号の乗客22人とヴェクター号の乗組員2人の計24人だけであった(ドニャ・パス号の乗組員は全員死亡)。また、ドニャ・パス号には、他の乗客と同じくクリスマス休暇のため故郷に帰る予定のフィリピン軍の兵士が1,000人ほど乗っていたが、このうち助かった兵士は1人だけであった。
死者は公称で1,575名であるが、海運会社(スルピシオ・ラインズ社、Sulpicio Lines)の発表では4,375名。フィリピン国内の航路については普段から乗船名簿の記述が徹底されていない、子供の乗客は乗船名簿に記載されない、クリスマス休暇が近かったため故郷に帰る目的で通常より多くの人々が乗船していた等の事情により、今回の事故時の正確な乗客数は把握しきれておらず、2,000人以上の乗客が乗船名簿に記載されていなかったと考えられている。仮に後者の死者数が正確であれば、戦争を除いた平時における史上最悪の海難事故となる[2]。なお、事故があった海域から実際に回収された遺体は250人ほどに過ぎず、残りの遺体は現在も見付かっていない。
衝突の原因は両船とも乗組員がほぼ死亡したため不明である。しかし状況証拠から、改造による高重心化や過積載によって機動性に欠けていたドニャ・パス号側の操船ミスではないかと考えられている(無線機が装備されておらず、ライフジャケットが取り出せなかったとの情報もある)。そもそも生存者の証言によると、船長を含むドニャ・パス号の乗組員たちはほとんどがデッキの上でパーティーを行っていたり休憩所でテレビを見ており、事故発生時には乗客たちと一緒にパニックに陥った。また、衝突時は多くの乗客が就寝しており、停電が発生したという生存者の証言もある。
ただし、ヴェクター号も船長は二等航海士で機関長は無資格というように適切なライセンスを持った人物がおらず、フィリピン国内を航行する際に必要な許可をとっていないなどの問題もあった。
事故後、スルピシオ社は乗客一人当たり400米ドルの賠償金を支払ったが、乗船名簿に載っていない被害者については補償の対象外とされた。
1995年 – アメリカン航空965便墜落事故。死亡159人生存4人。
概要
アメリカン航空965便(機体番号N651AA)はこの日、乗員8名、乗客155名を乗せ、マイアミ国際空港を定刻より約2時間遅れで離陸した。
機長はアメリカン航空で長年の飛行経験を積んだベテランであり、アルフォンソ・ボニーリャ・アラゴン国際空港への着陸経験もあった。また、機体は新型のボーイング757-223であり、優れた自動操縦装置を持っていた。
コロンビアのカリ郊外のアルフォンソ・ボニーリャ・アラゴン国際空港へ着陸するため降下中に機体が山に激突。事故発生8時間後に生存者は救助された。159名が死亡、4名が重傷を負った。犠牲者のうち1人は、救出後に病院で死亡した。クリスマス休暇前ということで、出稼ぎでアメリカに渡っていたコロンビア人が多く搭乗していた。搭乗者の中には、1960年代に怪奇派覆面レスラー「ザ・マミー」として活躍したプロレスラーのベンジー・ラミレスがおり、彼も事故の犠牲になった[1]。
経験を積んだベテランパイロットが乗り込み、優れた自動操縦装置を持つ新型のボーイング757が迷走して墜落したことは、航空業界に大きな衝撃を与えた。
2016年 – 2016年サン・パブリート市場花火爆発事故。死亡42人不明12人負傷84人。
2016年サン・パブリート市場花火爆発事故(2016ねんサン・パブリートいちばはなびばくはつじこ)は、2016年12月20日にメキシコのメヒコ州トゥルテペック(英語版)市(メキシコシティの北にある都市)のサン・パブリート市場で花火が爆発した事故[2][7][8]。少なくとも42人が死亡し[4]、多くの負傷者が出た[5]。
チャットgpt先生の12月20日のエッセイ
12月20日:過去を振り返り未来を紡ぐ日
12月20日は、年末の喧騒が迫る中で歴史の重みと人間の営みを振り返る一日です。この日には、人類の記憶に深く刻まれた出来事が数多くあり、その一つひとつが何かしらの教訓を含んでいます。
1858年、西郷隆盛と月照が錦江湾で入水自殺を試みた事件。歴史の教科書で触れる「尊王攘夷」の激動の時代を象徴する出来事ですが、その背景には、月照の覚悟と西郷の救いを求める心の葛藤が垣間見えます。結局、西郷は助かり、月照は命を落としましたが、この体験は後の西郷の思想や行動に大きな影響を与えたとされています。彼らの友情と覚悟は、現代の私たちにも信念の重要性を問いかけてきます。
一方、1987年のフィリピンでのドニャ・パス号沈没事故は、人間の過失がもたらす惨劇の象徴です。定員を大幅に超える乗客と安全基準を無視した運行体制が、最悪の結果を招きました。この悲劇を通じて、安全対策の徹底と責任の重要性を改めて認識することができます。同じ日に起きた1995年のアメリカン航空965便の墜落も、航空業界の過信が招いた教訓です。技術が進歩しても、人間の注意力とシステムの柔軟性が欠けては、悲劇を防ぐことはできません。
さらに、2016年のメキシコでの花火市場爆発事故では、人々が集う祝祭の場が一転して地獄絵図となりました。年末の歓喜を準備する中で、安全性への配慮を軽視したことが多くの命を奪いました。この日を振り返るたびに、人間が「楽しむこと」と「安全性」のバランスをどう保つべきか、考えさせられます。
こうした歴史的な出来事を振り返る12月20日は、私たちが時に傲慢になりがちな人間のあり方を顧みる日ともいえるでしょう。過去の失敗や悲劇から学び、より良い未来を築くための糧とすること。それこそが、この日を迎える私たちに課せられた責任なのかもしれません。
年末まであとわずか11日。忙しさに追われる中でも、この日を振り返り、私たち自身の行動を見つめ直す余白を持ちたいものです。そして、過去の記憶と未来への希望を胸に、明日へと進む活力を得たいと思います。