kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日12月1日  1934スターリン大粛清開始キーロフ暗殺、ほか写真wikipediaキーロフの葬儀

12月1日

20251201月曜日旧暦10月12日先負(甲辰きのえたつコウシン)月齢 10.8

乙巳きのとみ年 丁亥ひのとい月 甲辰きのえたつ日  年末まであと30日

https://ja.wikipedia.org/wiki/12%E6%9C%881%E6%97%A5

12月1日の出来事
1934年 – ロシア共産党中央委員会書記セルゲイ・キーロフが暗殺。スターリンによる大粛清の契機となる。スターリンの粛清による総数は概数で600万以上とされる。

1937年 – 大阪市営渡船、桜島発天保山行き「第三桜島丸」(11.5トン)が悪天候と定員超過が重なり沈没[4]。死者・行方不明者57人。

1941年 – 第二次世界大戦: 御前会議で、ハル・ノートによるアメリカの要求は受け入れられないとして対米英開戦を決定。

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1934年 – ロシア共産党中央委員会書記セルゲイ・キーロフが暗殺(48歳没)。スターリンによる大粛清の契機となる。スターリンの粛清による総数は概数で600万以上とされる。

セルゲイ・キーロフ暗殺事件 – Wikipedia
セルゲイ・キーロフ暗殺事件(セルゲイ・キーロフあんさつじけん、Убийство Сергея Кирова, ウビーストヴァ・シェルゲーヤ・キーラヴァ)とは、1934年12月1日、レニングラードにあるスモーリヌイ修道院(ロシア語版)レニングラード党本部の建物にて、ボリシェヴィキ全連邦共産党中央委員会書記の一人であるセルゲイ・キーロフ (Серге́й Ки́ров) が、同じく共産党員であるレオニード・ニコラーエフ(ロシア語版)の手で殺された出来事を指す[1]。

1934年12月28日から12月29日にかけて、ソ連最高裁判所軍事諮問委員会(ロシア語版)の法廷が開かれ、ニコラーエフに加えて13人の人物が被告人として出廷した。彼らはいずれもキーロフ殺害の準備の陰謀に加担した罪で起訴された。キーロフの殺害はのちに「レニングラード本部事件」と呼ばれた[12]。法廷の議長を務めたのはヴァシーリー・ウルリフ (Васи́лий У́льрих) であった。ニコラーエフが自白の内容を認めたのは、他の被告が不在の状況下でウルリフがニコラーエフを尋問したときのことであった。1934年12月29日午前5時45分、ニコラーエフ以下全員に死刑が宣告され、その一時間後に銃殺された。判決を聞いたニコラーエフは「残酷だ!」[13][14]、「嵌めやがったな!」と絶叫した[5][11][12][15]。

ニコラーエフの親族の運命
ニコラーエフの妻、ミルダ・ドラウレ(ロシア語版)は、1901年8月、ロシア帝国時代のサンクト・ピチェルブルクにて、ラトヴィア人の家庭に生まれた。1919年にソ連共産党(ボリシェヴィキ)に入党し、1925年にレオニード・ニコラーエフと結婚し、1927年に長男・マルクス、1931年に次男・レオニードを産んだ。彼女はスモーリヌイ修道院にて、技術者として働いていた。夫が逮捕されると、彼女は党を除名されたのち、捕らえられ、尋問を受けたのち、1935年3月10日に銃殺刑に処せられた[17]。ミルダの妹・オルガとその夫・ローマンも銃殺された[18]。
ニコラーエフの母親、二人の姉妹、妹の夫、ニコラーエフの兄の妻とその妹、その妹の夫、ニコラーエフの隣人、彼らはいずれも銃殺されたか、刑務所に送られて死亡した[6]。

大粛清
大粛清
→詳細は「大粛清」を参照
セルゲイ・キーロフ暗殺


セルゲイ・キーロフは政治局員・党エリートであり、その弁舌と貧困層への真摯な態度で大きな人気があった。彼はスターリンの忠実な部下であったが、いくつかの意見の相違もあり、多くの歴史家がスターリンは彼を潜在的な脅威として考えていたとする[246]。実際、一部の党員はスターリンの後継者としてキーロフに対して秘密裏に接近していた。1930年代のスターリンは、高まりつつあったキーロフの人気についてますます心配していた。1934年に開催された新しく中央委員会を決める投票で、スターリンは1108の反対票を受けた一方、キーロフはどの候補よりも少ない3の反対票を受けたのみであった[247]。この一件は、スターリンのキーロフに対する反感をますます強めたものと思われる。

1934年12月1日、キーロフはレニングラードにおいてレオニード・ニコラエフ(en:Leonid Nikolaev)という青年によって暗殺された。ニコラエフは当時のNKVD長官ゲンリフ・ヤゴーダと関係があり、スターリンがヤゴーダを通じてニコラエフをそそのかしキーロフを暗殺させたとする説は根強い[248]。キーロフの死はボリシェヴィキをぞっとさせたが、スターリンは暗殺の知らせを聞くと、レニングラードに向かい暗殺事件の真相を究明するため、異例の現地指揮を行った。

キーロフ暗殺に対するスターリンの公式の対応は、嫌疑のかかっているスパイと反革命分子を探し出すことで安全対策を強化するというものであった。しかし実質的には、スターリンは自身の指導体制を脅かすことになる可能性のある者たちを排除していったのだった。スターリンは自身の生立ちから人一倍コンプレックスを強く感じるゆえ、異常なまでの権力欲と顕示欲の塊であり、その目的を達するためなら手段を全く選ばなかったのである。この過程は、それから広範にわたる追放へと変移していった。キーロフの暗殺は、1936年8月から1938年11月まで続くことになる大粛清の前兆であった。

「人民の敵」
キーロフが暗殺されると、スターリンはトロツキー、カーメネフ、ジノヴィエフを含めた自身の反対勢力者たちを陰謀に巻き込むための構想を抱いた[249]。調査と裁判は拡大していった[250]。1934年1月の第17回党議会においては過半数の代議員が彼の言いなりであった[246]。見せしめの裁判あるいはトロツキーやレニングラードの政治局員セルゲイ・キーロフの暗殺のあとに法律を改定する[246]。この党大会で選出された党中央委員会の委員および中央委員候補139人のうち、98人が逮捕・銃殺された。党大会の党員1956人のうちの1108人が「人民の敵」(ロシア語враг народа, “vrag narodaヴラグ ナローダ”)(en:Enemy of the people)という烙印を押され、秘密裁判で死刑判決を受けると直ちに処刑された。スターリンは、裁判所に対して「人民の敵」と判断した者には死刑判決を下すこと、そしてただちに死刑を執行するよう命令していた。取り調べの際には「肉体的圧迫」、すなわち拷問を用いることを認め、罪を認めない者には拷問によって力ずくで「罪」を認めさせた。

共産党中央政治局の最高責任者の座に君臨していたスターリンは権力をほぼ絶対的なものまでに強化し、政治的反対者、自身のイデオロギーに反対する者、ボリシェヴィキ中央委員会の古参党員たちを策略によって逮捕・追放した。スターリンは大粛清を、日和見主義者と反革命分子を追放する試みとして正当化した[253][254]。党による粛清の標的とされた者たちはNKVDトロイカによる公開裁判後に矯正労働キャンプ(グラグ)への収容あるいは処刑という、より厳しい措置が取られた[253][255][256]。

軍事指導者たちの多くは反逆罪の判決を受け、赤軍の陸軍将校の大粛清に繋がっていく[257]。あまりにも多くの、かつて高い地位にいた革命家たちや党員への粛清はレオン・トロツキーをして「スターリン政権とレーニン政権とは『血の川』によって隔てられてしまった」と言わしめた[258]。トロツキーは「スターリンは反対者の意見にではなく、その頭蓋骨に攻撃を加える」との言葉も遺している[259]。

1937年 – 大阪市営渡船、桜島発天保山行き「第三桜島丸」(11.5トン)が悪天候と定員超過が重なり沈没[4]。死者・行方不明者57人。

1941年 – 第二次世界大戦: 御前会議で、ハル・ノートによるアメリカの要求は受け入れられないとして対米英開戦を決定。

チャットgpt先生の12月1日のエッセイ


◆ 12月1日 ― 歴史の影が長く落ちる日

12月の幕開けは、どこか特別な響きをもって訪れる。カレンダーの残りは30日。年末の気配がようやく現実味を帯び、心のどこかで時の流れを振り返る準備が始まる。
しかし歴史をひもとけば、この日はしばしば「節目」ではなく、「転回点」として記憶されてきた。

1934年12月1日、レニングラードのスモーリヌイ修道院に響いた銃声は、ひとつの命だけでなく、数百万もの生を暗い運命へと追いやる引き金となった。
セルゲイ・キーロフ暗殺事件。
スターリン体制の下で膨張していた疑心は、この日を境に爆発的な暴力へと形を変え、大粛清の奔流となってソ連社会を呑み込んでいく。

事件に直接関わったとされたレオニード・ニコラーエフが「残酷だ!」「嵌めやがったな!」と叫んで処刑され、その家族までが次々と命を奪われていく連鎖は、粛清という言葉の本質が“処断”ではなく“破壊”であることを示している。
国家が恐怖を統治の道具にしたとき、その矛先は個人の境界線を容易く越え、親族へ、友人へ、隣人へと広がっていく――それを12月1日の出来事は痛々しく証明している。

同じ12月1日は、日本でも悲劇が起きてきた。
1937年、大阪市営渡船「第三桜島丸」が悪天候と定員超過の中で沈没し、57人が帰らぬ人となった。日常の営みの中で起きた事故であるがゆえに、その無念さは深い。
そして1941年の同日、御前会議では「ハル・ノートは受諾不可能」との結論が下され、対米英戦争への道が決定的となった。12月1日は、やがて8日へ、そして長い戦争の闇へとつながる前夜祭でもあった。

静かな冬の入口に立つ今日、私たちは自然と一年を振り返るが、歴史の中の12月1日は、むしろ未来へ向けて問いを投げかけてくる。

権力の不安はどこまで社会を巻き込むのか。
恐怖の前に、個人はどれほど脆い存在になってしまうのか。
判断の一日が、歴史の曲がり角となることを、人はどれほど自覚できていたのか。

けれど、この日をただ「暗い日」と記憶するだけでは、歴史は救われない。
恐怖ではなく対話を、暴力ではなく制度の透明性を、そして偶然に命を奪われる人を減らすための知恵を、私たちは積み重ねることができる。

12月が始まるということは、今年という物語の終章を生きはじめるということだ。
けれど、そのページに書く言葉はまだ、私たち自身の手の中にある。

12月1日は、過去の影を静かに思い起こしつつ、未来の選択を慎重に考えるための、ひそやかな呼びかけの日なのかもしれない。