11月9日

20261109月曜日旧暦10月1日仏滅(24番丁亥ひのといテイガイ)月齢 29.4

43番丙午ひのえうま年 36番己亥つちのとい月 24番丁亥ひのとい日

吉方位 隠遁日 丁亥ひのとい日 北 北東 大吉 年末まであと52日

https://ja.wikipedia.org/wiki/11%E6%9C%889%E6%97%A5

11月9日の出来事

1180年(治承4年10月20日)- 治承・寿永の乱: 富士川の戦い。

戦争:治承・寿永の乱

年月日:治承4年(1180年11月9日)文献によって異説あり

場所:駿河国大堀川(現・富士市)

結果:目立った交戦のないまま平氏の撤退

戦力と損害:源氏 4万騎 平氏 2000騎が潰走壊滅

1799年(フランス革命暦ブリュメール18日) – フランス革命: ブリュメールのクーデタ。ナポレオンが軍事クーデターを起こし総裁政府を倒す。フランス革命が終焉。

1867年(慶応3年10月14日) – 徳川慶喜が二条城で大政奉還を宣言。

1888年 – 切り裂きジャックが売春婦のメアリー・ジェイン・ケリーを殺害。確実に切り裂きジャックの犯行とされる最後の事件。

1923年 – ミュンヘン一揆が鎮圧。

1925年 – ナチス親衛隊 (SS) が発足。

1938年 – 水晶の夜(クリスタルナハト)。この日の夜から翌日未明にかけてドイツ各地でユダヤ人に対する襲撃が行われる。

1963年 – 三井三池三川炭鉱炭じん爆発。死者458人。

1963年 – 鶴見事故。横浜市鶴見区の東海道貨物線で貨物列車が脱線。東海道線上下線の旅客列車の多重衝突事故を引き起こし、死者161人。本事故と上記の事故は同日に発生し、両事故とも多数の犠牲者を出したことから、「血塗られた土曜日」「魔の土曜日」とも呼ばれた。

1974年 – 東京湾でLPG・石油タンカー「第十雄洋丸」が衝突炎上事故を起こす。(第十雄洋丸事件)。33名死亡、7名負傷。

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1180年(治承4年10月20日)- 治承・寿永の乱: 富士川の戦い。

戦争:治承・寿永の乱

年月日:治承4年(1180年11月9日)文献によって異説あり

場所:駿河国大堀川(現・富士市)

結果:目立った交戦のないまま平氏の撤退

戦力と損害:源氏 4万騎 平氏 2000騎が潰走壊滅

平家の撤退

『玉葉』によると18日、『吾妻鏡』によると20日、甲斐源氏の兵は富士川の東岸に進む。また、『吾妻鏡』によると頼朝は駿河国賀島に進んだとある[注釈 3]。平家方はその西岸に布陣した。兵糧の欠乏により平家方の士気は低下し、まともに戦える状態になかった。『吾妻鏡』によると、この時点での平家方は4000余騎でかなり劣勢であり、さらに脱走者が相次いで2000騎ほどに減ってしまう有様だった。この要因として、平氏軍の大半が遠征の中途で徴発された駆り武者によって占められていることなどが挙げられている[4][注釈 4]。両軍の兵力差から、平家方は戦う前から戦意を喪失しており、奇襲に対してかなり神経質になっていたものと思われる。

両軍が対峙したその夜、平氏軍は突如撤退し、大規模な戦闘が行われないまま富士川の戦いは終結する。

なお、従来は頼朝が富士川の戦いの当事者と見なされていたが、近年の見解では合戦に勝利した主体そのものが甲斐源氏であり、『吾妻鏡』の記述は治承・寿永の乱で頼朝が常に源氏の中心であったかに装う後世の創作で、実際には頼朝は後方にあって副次的な役割しか果たしていないという説が有力である[6]。近年発行の出版物では甲斐源氏主体説をとるものが増えている[7]。

1799年(フランス革命暦ブリュメール18日) – フランス革命: ブリュメールのクーデタ。ナポレオンが軍事クーデターを起こし総裁政府を倒す。フランス革命が終焉。

概要

テルミドール9日のクーデターによって、総裁政府の実権を握ったエマニュエル=ジョゼフ・シエイエスは政局を安定させるべく、強力な政府を求め憲法の改正を考えていた。憲法改正を支持する元老会を通過させることはできても、憲法擁護派の多い五百人会を説得するのは無理と思い、エジプト遠征から帰還したばかりのナポレオンを利用した軍事クーデターを画策した。

このことからわかるように、そもそもナポレオンはクーデターを成功させる剣の役割でしかなかった。ナポレオン自身も「シエイエスらが首謀しただけで、私は手先に過ぎず、主役ではなかった。ただ果実だけは頂いた」と述懐している。ナポレオンの役割は当初は受け身であって、首謀者ではなかった。それでもナポレオン自身にはエジプト遠征での敵前逃亡罪の嫌疑がかかっており、クーデターを起こすことは、自明の理であった。

シエイエスらが統領として職務に入るとき、議長を誰とするか諮ったおりに、民衆の人気と武力を背景に持つナポレオンがいち早く買って出たのである。こうして第1コンスルとなってシエイエスらを抑えたナポレオンは5年後の1804年に帝政を敷き、ナポレオン1世として皇帝に即位した。

1867年(慶応3年10月14日) – 徳川慶喜が二条城で大政奉還を宣言。

概要

江戸時代、徳川将軍家は日本の実質的統治者として君臨していたが、「天皇が国家統治を将軍に委任している」とする大政委任論も広く受容されていた。

幕末になると、朝廷が自立的な政治勢力として急浮上し、主に対外問題における朝廷と幕府との不一致により、幕府権力の正統性が脅かされる中で、幕府は朝廷に対し、大政委任の再確認を求めるようになった。

文久3年(1863年)3月・翌元治元年(1864年)4月に、それぞれ一定の留保のもとで大政委任の再確認が行われ、それまであくまで慣例にすぎないものであった大政委任論の実質化・制度化が実現した。

幕末の朝幕交渉において再確認された「大政」を天皇に返上したのが、慶応3年10月(1867年11月10日)の慶喜による大政奉還だが、大政奉還の時点では慶喜は征夷大将軍を辞職していない。慶喜は将軍職辞職願を10月24日(1867年11月19日)に提出したが、引き続き諸藩への軍事指揮権を有する将軍職が勅許され、幕府が廃止されるのは12月9日(1868年1月3日)の王政復古の大号令においてである。

大政奉還の目的は、内戦を回避しつつ、幕府独裁制を修正し、徳川宗家を筆頭とする諸侯らによる公議政体体制を樹立することにあった。しかし、大政奉還後に想定された諸侯会同が実現しない間に、薩摩藩を中核とする討幕派による内乱(鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争)が起こった。

1888年 – 切り裂きジャックが売春婦のメアリー・ジェイン・ケリーを殺害。確実に切り裂きジャックの犯行とされる最後の事件。

1923年 – ミュンヘン一揆が鎮圧。

ミュンヘン一揆(ミュンヘンいっき、ドイツ語: München Putsch)は、1923年11月8日から9日に、ドイツ国のミュンヘンでエーリヒ・ルーデンドルフ、アドルフ・ヒトラーら国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス)を始めとする州右派勢力によって結成されたドイツ闘争連盟(英語版)が起こしたクーデター未遂事件。半日あまりで鎮圧され、ヒトラーら首謀者は逮捕された。

名称

ドイツでは主に、首謀者の名前から「ヒトラープッチ (Hitlerputsch)」もしくは「ヒトラー・ルーデンドルフ・プッチ(Hitler-Ludendorff-Putsch)」と呼ばれているほか、事件が発生したビアホール[注釈 1]「ビュルガーブロイケラー」の名をとって「ビュルガーブロイケラープッチ (Bürgerbräukellerputsch)」と呼ばれている。英語でも「ビア・ホール・プッチ(Beer Hall Putsch)」と呼ばれる事が多い。プッチ(独: Putsch)はドイツ語におけるクーデターや暴動に近いニュアンスを持った用語であり、日本においては「一揆」と訳されることが多い。

1925年 – ナチス親衛隊 (SS) が発足。

          概要

元は総統アドルフ・ヒトラーを護衛する党内組織(親衛隊)として1925年に創設された。

1929年にハインリヒ・ヒムラーが親衛隊全国指導者に就任し、彼の下で党内警察組織として急速に勢力を拡大。ナチスが政権を獲得した1933年以降には政府の警察組織との一体化が進められた。保安警察(ゲシュタポと刑事警察)、秩序警察、親衛隊情報部、強制収容所など第三帝国の主要な治安組織・諜報組織はほぼ全て親衛隊の傘下に置かれていた。1934年には正規軍である国防軍から軍事組織の保有を許可され、親衛隊特務部隊(後の武装親衛隊)を創設した。以降特務部隊以外の親衛隊員は一般親衛隊と呼ばれるようになった。

第二次世界大戦中、武装親衛隊がヨーロッパ各地で戦ったが、警察業務の親衛隊はドイツ及びドイツ占領下のヨーロッパ諸国においてナチ支配の維持、反ナチ勢力の弾圧、ユダヤ人狩りなどにあたった。戦時中に親衛隊は絶滅収容所やアインザッツグルッペンを組織してユダヤ人の絶滅を図ろうとした(ホロコースト)。そのため親衛隊は悪名高い組織となり、戦後のニュルンベルク裁判では全ての親衛隊組織は「犯罪組織(英:Criminal Organization)」であるとする認定を受けた。21世紀に入って尚、隊員達は本人の死亡が確認されるまで犯罪者として追跡され、居所が確認されれば逮捕、裁判に掛けられている[1]。

隊のモットーは「Meine Ehre heißt Treue(My honor is called fidelity:忠誠こそ我が名誉、我が名誉は忠誠を宣する事)」。

1938年 – 水晶の夜(クリスタルナハト)。この日の夜から翌日未明にかけてドイツ各地でユダヤ人に対する襲撃が行われる。

水晶の夜(すいしょうのよる、ドイツ語: Kristallnacht、クリスタルナハト)とは、1938年11月9日夜から10日未明にかけてドイツの各地で発生した反ユダヤ主義暴動、迫害である。ユダヤ人の居住する住宅地域、シナゴーグなどが次々と襲撃、放火された。

暴動の主力となったのは突撃隊(SA)のメンバーであり、総統アドルフ・ヒトラーや親衛隊(SS)は暴動を止める事なく、傍観者として振る舞った。ナチス政権による「官製暴動」の疑惑も指摘されている(後述)。

事件当時は「帝国水晶の夜(Reichskristallnacht)」と呼ばれていた[1]。この事件により、ドイツにおけるユダヤ人の立場は大幅に悪化し、後に起こるホロコーストへの転換点の一つとなった。

水晶の夜という名前は、破壊された店舗のガラスが月明かりに照らされて水晶のようにきらめいていたことに由来する。この呼称は、ナチス政権側から一連の暴力を賛美するものとして使用されたものであり[要出典]、現代ドイツにおいては、「11月ポグロム(ドイツ語: Novemberpogrome)」、「1938年11月ポグロム(ドイツ語: Novemberpogrome 1938)」、「帝国ポグロムの夜(ドイツ語: Reichspogromnacht)」などが用いられる。ただし、イスラエル政府をはじめ、ヤド・ヴァシェムや米国ホロコースト博物館など、世界中の多くの被害者側ないしユダヤ人側の政府・施設では、正式に「水晶の夜(Kristallnacht)」という言葉を使い続けており、「水晶の夜」が、被害者やユダヤ人の感情を傷つける言葉や(日本で)言い換えが必要な言葉でないことが判る。

1963年 – 三井三池三川炭鉱炭じん爆発。死者458人。

1963年 – 鶴見事故。横浜市鶴見区の東海道貨物線で貨物列車が脱線。東海道線上下線の旅客列車の多重衝突事故を引き起こし、死者161人。本事故と上記の事故は同日に発生し、両事故とも多数の犠牲者を出したことから、「血塗られた土曜日」「魔の土曜日」とも呼ばれた。

1974年 – 東京湾でLPG・石油タンカー「第十雄洋丸」が衝突炎上事故を起こす。(第十雄洋丸事件)。33名死亡、7名負傷。

チャットgpt先生の11月9日のエッセイ

11月9日――歴史は、権力の移動とシステムの崩壊を記録する

11月9日という日を眺めると、ひとつの共通した構造が浮かび上がる。

それは、既存の秩序が内部から揺らぎ、権力の配置が変わり、組織や国家の実力が露呈する日ということである。

1180年、富士川の戦い。
1799年、ブリュメール18日のクーデタ。
1867年、大政奉還。
1923年、ミュンヘン一揆。
1925年、ナチス親衛隊の発足。
1938年、水晶の夜。
1963年、三井三池三川炭鉱の炭じん爆発と鶴見事故。
1974年、第十雄洋丸事件。

時代も地域も異なる出来事だが、そこには権力、組織、統治、技術、そしてシステムの限界という共通項がある。

歴史は英雄の物語として語られがちだが、実際には個人の意思だけで動くものではない。人員、資金、兵站、情報、制度、組織間の利害。それらが一定の均衡を保っている間は秩序が成立する。しかし、その均衡が崩れれば、昨日までの常識は一気に通用しなくなる。

1.富士川の戦い――戦争は兵力の数だけでは決まらない

1180年の富士川の戦いは、戦闘そのものよりも、戦闘が成立しなかったことに意味がある。

平氏軍は東国へ進出したものの、兵糧の不足、士気の低下、兵士の離脱によって組織としての戦闘能力を失いつつあった。

対する源氏側は、単純な兵力比較以上に、現地勢力との結びつきや動員力で優位に立っていた。

結果として、平氏軍は大規模な交戦を行わず撤退した。

ここで重要なのは、軍隊とは兵士の集合体ではないということだ。

兵士が何人いるかよりも、兵士をどれだけ維持できるか。命令をどこまで浸透させられるか。補給を継続できるか。組織として戦う意思を共有できるか。

これらが実際の戦闘能力を決める。

さらに近年の研究では、富士川の戦いの勝利を主導したのは甲斐源氏であり、源頼朝の役割を相対化する見解も有力になっている。

これは歴史の記述そのものにも、権力構造が反映されることを示している。

勝者が歴史を記録するだけではない。後世に成立した政治的正統性が、過去の出来事の主役を再配置するのである。

2.ブリュメール18日のクーデタ――権力は制度の隙間から移動する

1799年、ナポレオンはブリュメール18日のクーデタによって総裁政府を倒した。

ただし、この政変は最初からナポレオン一人が設計したものではなかった。

シエイエスらは政治体制の立て直しを企図し、そのために軍事力と国民的人気を持つナポレオンを必要とした。

つまり、政治家が制度を変更するために軍人を利用しようとしたのである。

ところが、軍事力を背景に持つナポレオンは、単なる協力者にとどまらなかった。

結果的に、クーデタを計画した側ではなく、実行力を持った側が権力の果実を手にした。

ここには組織政治の典型的な構造がある。

戦略を立案する者と、実行手段を握る者は、必ずしも同じ権力を持たない。

制度を設計する者がいても、その制度を実際に動かす人間が別に存在するなら、最終的な主導権は実行能力を持つ側に移る可能性がある。

ナポレオンはその後、第一統領となり、1804年には皇帝に即位する。

革命によって旧体制を倒したフランスは、最終的に新しい個人支配の体制へと移行した。

政治体制が変わっても、権力を集中させる仕組みそのものが消えるとは限らない。むしろ、古い制度の崩壊によって、より強力な集中構造が生まれることもある。

3.大政奉還――権力を返上しても、権力構造は消えない

1867年、徳川慶喜は大政奉還を宣言した。

一般には、江戸幕府が政権を朝廷に返した歴史的転換点として説明される。

しかし、構造的に見ると、これは単純な政権放棄ではない。

徳川慶喜が目指したのは、徳川家を中心とする公議政体への移行だった。

つまり、統治権の形式を変更しながら、徳川家が政治的な影響力を維持する構想である。

ここで押さえておくべきなのは、政治的な権限と、実際に権力を行使する能力は別物だという点だ。

将軍職、軍事指揮権、領地、財政、人材、諸藩との関係。これらは一つの宣言によって同時に消滅するものではない。

大政奉還の後も、徳川家は依然として巨大な政治的・軍事的基盤を持っていた。

しかし、討幕派はその基盤を温存したままの新体制を受け入れなかった。

そして王政復古の大号令、鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争へと進んでいく。

これは制度変更における典型的な問題である。

旧体制の権限を形式的に移転しても、旧体制の実力が残っていれば、権力移行は完了しない。

制度の変更と、実力の移転は別々のプロセスなのである。

4.ミュンヘン一揆と親衛隊――失敗した政治運動が組織へ変わる

1923年11月9日、ミュンヘン一揆は鎮圧された。

ヒトラーらが企てたクーデターは失敗し、首謀者は逮捕された。

通常、組織の失敗はその組織の衰退につながる。しかし、必ずしもそうとは限らない。

ヒトラーは投獄された後、政治運動の戦略を修正する。武力による一挙の政権奪取ではなく、既存の政治制度を利用した権力獲得へと方向を変えていった。

さらに1925年には、ヒトラーの護衛組織として親衛隊(SS)が発足する。

当初は小規模な組織だったが、後にヒムラーの指揮下で急速に拡大し、ナチス体制の警察、諜報、収容所、軍事などを支える巨大な組織へと変貌した。

この過程で注目すべきなのは、政治運動が単なる支持者の集合から、制度的な権力装置へと変わっていったことである。

政治的なスローガンだけでは国家を運営できない。

必要なのは人事、情報、監視、命令系統、資源配分、実力組織である。

政治運動がこれらの機能を獲得すると、社会に対する影響力は質的に変化する。

ミュンヘン一揆の失敗と親衛隊の発足は、異なる出来事ではあるが、ナチス運動が政治的主張から組織的な権力装置へと変化していく過程を考えるうえで重要な節目となる。

5.1938年の水晶の夜――国家機構が社会の破壊装置になるとき

1938年11月9日から10日にかけて、ドイツ各地でユダヤ人に対する大規模な襲撃が発生した。

シナゴーグへの放火、店舗や住宅の破壊、逮捕、暴行。

この事件は、ナチス政権下におけるユダヤ人迫害が、制度的な排除から大規模な暴力へと進んだ重要な転換点だった。

構造的に見れば、これは社会の内部に敵対対象を設定し、国家権力と政治組織を通じて排除を実行する過程である。

重要なのは、暴力が自然発生的な群衆心理だけでは説明できないことだ。

当時のドイツには、党組織、警察、行政、宣伝機構が存在していた。それらがどのように機能し、どのように不作為や加担を選択したのか。

ここに国家システムの実態が表れる。

国家の能力は、法律や行政文書の整備だけで測れるものではない。

組織が何を命令し、何を実行し、何を放置するのか。その運用実態こそが、国家の性格を決定する。

水晶の夜は、迫害が社会全体に可視化された転換点であり、その後のホロコーストへと至る過程の重要な節目となった。

6.1963年の二つの大事故――高度な産業社会ほど、故障の規模も大きくなる

1963年11月9日、日本では二つの重大事故が発生した。

三井三池三川炭鉱の炭じん爆発では458人が死亡。

鶴見事故では列車の多重衝突によって161人が死亡した。

一日のうちに、合わせて619人もの命が失われた。

この二つの事故を単なる不運として片づけることはできない。

炭鉱は、地下空間、可燃性ガス、炭じん、換気、採掘設備、作業員の配置が複雑に結びついた巨大なシステムである。

鉄道もまた、線路、信号、車両、運行管理、保守、人的判断によって成立している。

どちらも、個々の構成要素が正常に機能しているだけでは安全を保証できない。

問題は、複数の要素が連鎖したときに発生する。

一つの異常が次の異常を引き起こし、それが一定の閾値を超えると、システム全体が制御不能になる。

現代社会は効率性を追求する。

大量輸送、大量生産、高密度運行、高度な設備集約。これらは経済成長を支える一方、障害が発生したときの影響範囲も拡大させる。

効率化によって余裕を削れば、通常時の生産性は上がる。しかし、異常時に吸収できる余力は小さくなる。

これは産業社会に内在する構造的な問題である。

7.1974年の第十雄洋丸事件――巨大システムの制御限界

1974年11月9日、東京湾でLPG・石油タンカー第十雄洋丸が衝突炎上した。

33人が死亡し、7人が負傷した。

この事故では、船舶、可燃性物質、海上交通、消火活動、周辺環境という複数の要素が同時に問題となった。

特に注目されるのは、事故発生後の対応である。

巨大なタンカーに積載された危険物が燃焼し続ける状況では、通常の消火活動だけで解決することが難しい。

最終的には、海上自衛隊による処分作戦が実施され、船体は沈没した。

ここにも現代社会の特徴がある。

技術が高度化すれば、扱えるエネルギーや物質の規模も大きくなる。しかし、扱える規模が大きくなることと、制御能力が完全になることは同じではない。

巨大な設備や輸送手段は、平常時には経済活動を支えるインフラである。

ところが、事故が起きれば、その巨大さ自体が対処を困難にする。

技術の進歩とは、単純に危険を減らすことではない。新しい能力と同時に、新しい種類のリスクを生み出すことでもある。

11月9日から見える歴史の共通構造

ここまでの出来事を並べると、時代を超えて繰り返される五つの構造が見えてくる。

出来事表面に現れた現象背後にある構造
富士川の戦い平氏軍の撤退兵站と組織維持の限界
ブリュメールのクーデタナポレオンの台頭実行能力と権力の集中
大政奉還幕府の政権返上制度と実力の乖離
ミュンヘン一揆・SS政治運動の変質組織化による権力装置の形成
水晶の夜大規模な迫害国家機構の運用と社会統制
三井三池・鶴見事故大規模な産業災害複合システムの連鎖的破綻
第十雄洋丸事件タンカーの炎上巨大技術システムの制御限界

これらは一見すると、戦争、革命、政治、産業事故という別々のカテゴリーに属している。

しかし、共通しているのは、システムが平常時に隠している弱点が、特定の条件下で表面化するという点だ。

平時には組織の不整合は見えにくい。
制度が機能している間は、権力の所在も曖昧なままである。
設備が正常に動いている間は、潜在的な危険も意識されにくい。

ところが、危機が発生すると、実際に何が機能し、何が機能しないのかが明らかになる。

そのとき、表向きの肩書や制度よりも、実際に資源を動かせる者、命令を通せる者、情報を握る者、損失を処理できる者が重要になる。

歴史を動かすのは、理念だけでも、個人の野心だけでもない。

それらを現実の力に変換する組織と制度、そして資源の配置である。

11月9日の歴史が示しているのは、秩序というものが決して固定された状態ではないということだ。

秩序は、権力、制度、資源、技術、人員の均衡によって維持されている。

その均衡が崩れれば、政権は交代し、軍隊は撤退し、国家は変質し、産業システムは破綻する。

そして新しい秩序は、旧体制が残した資源や組織を再編成することによって成立する。

歴史とは、出来事の羅列ではない。権力と資源の配置が変わり、組織が再編され、システムの限界が露呈していく過程の記録である。

11月9日は、そのことを考えるうえで、実に多くの材料を提供する日である。