kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日11月6日  1868会津戦争終結、ほか写真wikipedia戦争直後の会津城

11月6日

20251106木曜日旧暦9月17日先勝(己卯つちのとうキボウ)月齢 15.6

乙巳きのとみ年丙戌ひのえいぬ月年己卯つちのとう日 年末まであと55日

吉方位 隠遁日 己卯つちのとう日 東 西 中吉

https://ja.wikipedia.org/wiki/11%E6%9C%886%E6%97%A5

11月6日の出来事

1868年(明治元年9月22日) – 戊辰戦争: 会津藩が降伏し、会津戦争が終結。年月日:(旧暦)慶応4年閏4月20日 – 明治元年9月22日 (グレゴリオ暦)1868年6月10日 – 1868年11月6日 場所:陸奥国(現在の福島県)結果:新政府軍(官軍)の勝利

損害 新政府軍 7万5千人中 戦死傷僅少 会津軍 9千5百人中 戦死 2977人。

1972年 – 北陸トンネル火災事故: 北陸本線の北陸トンネルで列車火災事故が発生。乗客29人、乗務員1人が犠牲になった[3]。

2016年 – 2016年アメリカ合衆国大統領選挙の投票が行われ、ドナルド・トランプが当選。

2024年 – 2024年アメリカ合衆国大統領選挙の投票が行われ、ドナルド・トランプが当選。

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1868年(明治元年9月22日) – 戊辰戦争: 会津藩が降伏し、会津戦争が終結。年月日:(旧暦)慶応4年閏4月20日 – 明治元年9月22日 (グレゴリオ暦)1868年6月10日 – 1868年11月6日 場所:陸奥国(現在の福島県)結果:新政府軍(官軍)の勝利

損害 新政府軍 7万5千人中 戦死傷僅少 会津軍 9千5百人中 戦死 2977人。

概要

文久2年(1862年)、会津藩主・松平容保は京都守護職に就任し、新撰組を配下にするなどして尊皇攘夷派志士の取り締まりを強力に推進し、禁門の変においても幕府方の中核として、尊皇攘夷派の排除を行った。

鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が破れ、徳川慶喜と共に江戸に退去した松平容保は、明治新政府の追討令を受けた慶喜の恭順方針に従って、自らも恭順の姿勢を示すため会津へ帰国し謹慎するが、藩内では主戦論が支配的であり、それを察知していた新政府側でも、会津の恭順姿勢を信用してはいなかった。

慶応4年(1868年)3月11日、江戸城が無血開城され(江戸開城)、慶喜が水戸藩で謹慎すると、薩摩藩・長州藩を中心とした新政府の矛先は、佐幕派の重鎮として敵視されていた容保に向けられる。

追討を命じられていた仙台藩・米沢藩など、東北諸藩は会津に同情的で、会津赦免の嘆願を行う一方、奥羽越列藩同盟を結成して結束を強めた。奥羽14藩では会議を開いて、会津藩と庄内藩の赦免嘆願を目的として、新政府の奥羽鎮撫総督・九条道孝に嘆願書(閏4月12日)を提出したが、後述の会津の回答書を受けて東征大総督府下参謀・林通顕による「会津は実々死謝を以ての外に之これなく」という基本方針は既に決定しており[2]、朝廷へ直接建白を行う(太政官建白書)も認められることはなかった。

奥羽越藩同盟の結成時点(白石会議)では、赦免嘆願を目的としていたが、会津が明治新政府の通達(4月25日)に対して罪を認めず、謝罪を拒否する回答書(閏4月15日)を示した事[3]と、明治新政府の鎮撫使である世良修蔵が、仙台藩士によって殺害された事件から、戦争に傾くことになる。

処遇

会津が降参するにあたり、会津藩士らは主君・松平容保が「素衣面縛」即ち罪人のように縄で縛られた状態で引きずり出され辱められるのではないかと危ぶんだが、板垣は藩主としての体面を保たせ「輿」に乗った状態で城から出て降伏する事を許した。この事に会津藩士らは感激した[5]。さらに「降伏した以上は、我ら等しく王民(日本の臣民)である」として、会津藩の罪を減ずるよう「寛典論(穏便なる処遇を求める嘆願)」を上奏。その趣意は「これからは海外諸国と対峙せねばならず、過酷な処分によって後世に遺恨を残し、日本民族統合の障壁になってはならない」とするものであった。また「有能な人材は、積極的に政府へ登用すべき」との意見を述べた。これに対して木戸孝允らは「厳罰論(厳しく処分すべきとする意見)」を唱え[注釈 6]、処遇問題に総督府内で意見対立があった。本来ならば、勅許の無き日本領土の割譲 [注釈 7]は万死に値する罪であったが、結局は会津攻略戦の主将である板垣が言うのならばと、意見が容れられ、家老が詰腹を切る事を条件に、藩主・松平容保の切腹や藩の改易処分を逃れ、減封処分が下る。さらに会津藩が斗南藩へ減石転封となった時は、板垣は藩士らが貧する様を見て特別公債の発給を書面で上奏している。板垣は会津攻略戦の官軍側・主将でありながら、維新後すぐから賊軍となった会津藩の心情を慮って名誉恢復に努めるなど、徹底して公正な価値観の持ち主であったため、多くの会津人が維新後、感謝の気持ちから土佐を訪れている。また、自由民権運動も東北地方では福島県を中心として広がりを見せることになった[6]。

脱走兵

旧幕府軍の残存兵力は会津を離れ、仙台で榎本武揚と合流し、蝦夷地(北海道)へ向かった(箱館戦争)。

会津藩が降伏したことで、今まで藩の重税に苦しんでいた農民たちにより、会津世直し一揆が起きた[7]。

戦場での残虐行為等について

石井孝の『戊辰戦争論』(1984年)には「政府軍は、征服者の常として、ずいぶん略奪・暴行を演じたようである」との記述がある。一方、石井が同書の中で引用している、英国医師ウィリアム・ウィリスの報告書の中には、「両軍の戦闘が熾烈を極めたにもかかわらず、ミカドの軍隊は、捕虜をかなり寛大に取扱ったようだ。これに対して、会津藩の軍隊は、ミカドの軍隊の兵士たちばかりか、捕えた人夫たちまでも殺したといわれる。この話の確証として、4日間も雪の中に倒れていて、両足の機能を失った一人の人夫に会ったことを私はここに記しておきたい。その人夫は、もし会津藩の兵士に捕まっていたならば、酷い死に目に遭わされていただろう、と私に語った」「そのほか、私は、会津若松で、世にも悲惨な光景を見た。たくさんの死体が堀から引き上げられた。彼らは、両手を背中にうしろ手に縛られ、腹を深く切り裂かれていた。私は会津藩の軍隊の兵士たちの、残酷行為の物語をいろいろと耳にした。長岡では、彼らは、ミカドの軍隊の病院にいる負傷者や医師たちを皆殺しにした、と聞いた。会津藩の軍隊の兵士たちは、退却して行く途中で女たちを強姦した。家々に盗みに入り、反抗する者は、みな、殺害した」「ミカドの軍隊も、会津藩の軍隊に負けず劣らず、残酷・残虐であった。会津の国で、ミカドの軍隊は、各地で略奪し、百姓の道具類までも盗んだという話を聞いた。これらの話は事実だろうか?どちらにしても、両軍の戦闘が会津若松に近づくにつれて、残酷・残虐の度合いが増していったことだけは疑いない事実である。」[8] との記述がある。

1972年 – 北陸トンネル火災事故: 北陸本線の北陸トンネルで列車火災事故が発生。乗客29人、乗務員1人が犠牲になった[3]。

2016年 – 2016年アメリカ合衆国大統領選挙の投票が行われ、ドナルド・トランプが当選。

2024年 – 2024年アメリカ合衆国大統領選挙の投票が行われ、ドナルド・トランプが当選。

チャットgpt先生の11月6日のエッセイ


11月6日という日 ― 歴史と祈りのあわいに

十一月六日。
暦の上では旧暦九月十七日、月齢十五・六。空には満月が名残をとどめ、夜空に秋の光を漂わせる頃である。
干支は己卯(つちのとう)、吉方は東と西。年の瀬まで残り五十五日。
季節は深まりつつも、まだ冬の入り口に立つ静かな一日だ。

この日は、歴史の頁に幾つもの印が刻まれている。
百五十余年前のこの日、戊辰戦争の会津戦争が終結した。会津藩は降伏し、東北を焦がした戦火はようやく鎮まった。
敗れた藩士たちの多くは、主君を思い、土地を守ろうとしながら命を落とした。
しかし、その戦いの終わりは単なる「敗北」ではなかった。彼らが流した血と涙は、やがて明治という新しい国の礎に沈み込み、次の世代が歩むための土台となった。
板垣退助が会津の名誉を守ろうとした逸話は、勝者の中にある「公正」の光を今に伝えている。
人の誠実さは、勝ち負けを超えて残るものなのだろう。

それから一世紀を経た1972年のこの日には、北陸トンネル火災事故が起きた。
真っ暗な長大トンネルの中で、煙が人々をのみ込み、乗客二十九名、乗務員一名が命を落とした。
文明の象徴である鉄道が、突如として死の空間に変わる恐怖。
安全とは、技術ではなく「人の想像力」によって支えられているということを、私たちは幾度となく思い知らされる。

そして近年、この十一月六日は、アメリカ大統領選挙の日としても記憶されている。
2016年、2024年──いずれもドナルド・トランプが当選した年だ。
遠い国の出来事でありながら、その波は世界を揺らす。
国の方向を決める一票の重みを、私たちも改めて考えさせられる。

それぞれの十一月六日は、戦争の終わり、事故の悲劇、政治の転換点──まるで人間社会の「光と影」を交互に映す鏡のようだ。
けれどそのどの日にも共通しているのは、「変わりゆく時代を前に、私たちはどう生きるか」という問いである。

今日という日を生きる私たちは、歴史の結果の上に立ち、次の時代へと橋を架けている。
十五夜を過ぎた月が静かに傾きながらも、なお光を放つように、
過ぎ去った悲劇や争いの中にも、未来への教えと希望はきっと残っているのだろう。

十一月六日。
それは、過去を悼み、未来を思い、いまを生きる人間の祈りが最も静かに響く日なのかもしれない。