kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日11月4日  1921ナチスSA突撃隊発足、ほか写真wikipedia1933ヒトラー首相就任時の松明行進するSA

11月4日

20251104火曜日旧暦9月15日大安(丁丑ひのとうしテイゴ)月齢 13.6

乙巳きのとみ年戊辰つちのえたつ月丁丑ひのとうし日  年末まであと57日

吉方位 隠遁日 南 大吉

https://ja.wikipedia.org/wiki/11%E6%9C%884%E6%97%A5

11月4日の出来事

1921年 – 原敬暗殺事件: 原敬首相が東京駅で刺殺される[3]。

1921年 – ナチスの突撃隊 (SA) が発足。

1948年 – 京都市内でジフテリア予防接種を受けた者が次々と発熱する医療事故が発生。1949年1月15日までに死者68人を記録[4]。最終的に84名が亡くなった[5]。

1989年 – オウム真理教による坂本弁護士一家殺害事件。死亡3人。

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1921年 – 原敬暗殺事件: 原敬首相が東京駅で刺殺される[3]。

標的        原敬内閣総理大臣

日付        1921年(大正10年)11月4日

概要        暗殺事件

武器        短刀

死亡者    原敬

犯人        中岡艮一

対処        逮捕

1921年11月4日、翌日に予定されていた京都の立憲政友会近畿大会へ出席のために、原は東京駅へ午後7時10分頃に到着した。その後、駅長室に立ち寄り、多数の見送り人に囲まれながら歩いて乗車口の改札口へと向かっていた。午後7時25分頃、周囲をとり囲んでいた右側群衆の中から突進してきた青年(後に中岡と判明)が短刀を原の右胸に突き刺し、原はその場で倒れた。凶行に及んだ青年はその場で逮捕され、原に随行していた望月圭介・元田肇・中橋徳五郎・小川平吉らと東京駅長の高橋らが、原を駅長室に運び込み応急処置を施した。凶変の知らせを受けた夫人が東京駅へ午後7時40分頃に駆けつけ、8時10分頃に自動車で芝公園の自宅へ運んで診察と治療を施したが、突き刺された傷は右肺から心臓に達しており、ほぼ即死状態であったという。

逮捕された中岡は、死刑の求刑に対して、東京地裁で無期懲役の判決を受けた。その後の東京控訴院・大審院でも判決は維持され確定した。なおこの裁判は異例の速さで進められ、また調書などもほとんど残されていないなど謎の多い裁判であり、その後の中岡には特別な処遇がなされ、3度もの減刑で1934年には早くも釈放された。

さらに戦時中には、比較的安全な軍司令部付の兵となっていた(中岡艮一の項参照)こともあいまって、本事件に関する政治的背景の存在を推測する論者もいる[1]。中岡は第二次世界大戦後の1980年に、77歳の生涯を閉じている。

1921年 – ナチスの突撃隊 (SA) が発足。

概要

突撃隊はナチスの前身であるドイツ労働者党(DAP)集会の会場警備隊が改組されて創設された。初期の頃はエルンスト・レームの斡旋により義勇軍から流れてきた者を多く受け入れたため、党からの半独立的な性格を持っていた。1923年11月のミュンヘン一揆に参加したが、失敗によって党と共に一時期禁止された。1925年に再建され、党に従属する組織として再出発した。党集会の警備やパレード行進の他、ドイツ社会民主党(SPD)の国旗団やドイツ共産党(KPD)の赤色戦線戦士同盟などとの街頭闘争を行った。はじめフランツ・プフェファー・フォン・ザロモンが突撃隊最高指導者として指揮したが、党首アドルフ・ヒトラーとの軋轢から1930年に辞職。以降はヒトラー自らが最高指導者に就任するとともに、日常的指揮は突撃隊幕僚長に任命されたレームに委ねられた。1933年にナチスが政権を獲得すると、突撃隊は補助警察となり、政敵の摘発や弾圧にあたった。しかし突撃隊は失業に喘ぐ下層民が多い大衆組織であったため、社会主義的な思想を持つ隊員も多く、国防軍などの保守勢力との連携を深めるヒトラーにとって厄介な存在となり、1934年6月末から7月初旬にかけてレーム以下突撃隊幹部が親衛隊(SS)によって粛清された(長いナイフの夜)。粛清後は勢力を失い、重要な役割のほとんどが親衛隊に移され、突撃隊は国防軍入隊予定者の訓練を主任務とするようになり、第二次世界大戦の敗戦まで存続した。

1948年 – 京都市内でジフテリア予防接種を受けた者が次々と発熱する医療事故が発生。1949年1月15日までに死者68人を記録[4]。最終的に84名が亡くなった[5]。

1989年 – オウム真理教による坂本弁護士一家殺害事件。死亡3人。

場所        日本の旗 日本: 神奈川県横浜市磯子区洋光台三丁目35番7号 サンコーポ萩原C 201号室(坂本堤方)[1]

日付        1989年(平成元年)11月3日 – 11月4日

標的        坂本堤と妻、息子

攻撃手段                 窒息

死亡者    3人

犯人        麻原彰晃率いるオウム真理教徒ら

岡崎一明・村井秀夫・新実智光・早川紀代秀・中川智正・端本悟

動機        教団を批判する弁護士の殺害

坂本堤弁護士一家殺害事件(さかもとつつみべんごしいっかさつがいじけん)は、1989年(平成元年)11月4日に日本の神奈川県横浜市磯子区洋光台三丁目で発生した殺人事件。旧オウム真理教の幹部6人が、オウム真理教問題に取り組んでいた弁護士の坂本堤(当時33歳)とその妻子合わせて3人を殺害した事件である[2][3]。坂本弁護士一家殺害事件[4]とも呼称される.

チャットgpt先生の11月4日のエッセイ


11月4日 ― 歴史の影と人の祈り

11月4日。
旧暦では九月十五日、満月の光が秋の夜空に澄んで浮かぶころである。月齢13.6、ほぼまんまるの月が、冷え始めた大気を透かして白く輝く。暦の上では大安、隠遁日。吉方は南にあり、心を静めるにはよい日だという。
しかし、歴史の記録をめくると、この日には不思議なほど「闇」が刻まれている。

1921年(大正10年)11月4日。
東京駅の雑踏の中、ひときわ静かな悲鳴が走った。原敬首相、刺殺。
政党政治の父と呼ばれた一人の政治家が、わずか一瞬のうちにこの世を去った。
中岡艮一という青年の手に握られた短刀は、国家の未来を切り裂く刃にも似ていた。
民主主義がまだ揺籃期にあったこの国で、政治的暴力がいかに深い傷を残すか──その始まりを示した事件でもある。
そして、その裁判が異例の早さで進み、記録が乏しいまま終わったことが、さらに「闇」を濃くしている。

同じ年のこの日、遠いドイツではナチスの突撃隊(SA)が誕生していた。
時代は世界的に不安定だった。戦争の記憶、失業、貧困、混乱。
人々が「秩序」を求めて過激な思想に惹かれる時代。
それは日本も、ドイツも、どの国も例外ではなかった。

戦後の1948年、京都ではジフテリアの予防接種が悲劇を生む。
善意の医療が一転して災厄となり、子どもたちの命を奪った。
人の手による「救い」が、「死」を招いたという逆説に、戦後の人々は愕然とした。
医療の信頼、命の尊厳──その問いは、現代にも続いている。

そして、1989年(平成元年)11月4日。
横浜の一角で、静かに、しかし決定的な惨劇が起きた。
坂本堤弁護士一家殺害事件。
正義を信じ、宗教団体の実態を告発しようとしていた一家が、夜の闇に消えた。
この事件がやがて、オウム真理教という巨大な悪の連鎖を暴くきっかけとなる。
けれど、それを知る由もなく、3人の命は理不尽な暴力に奪われた。

奇しくもこの日、歴史は何度も「正義」と「暴力」、「信仰」と「権力」、「人の理性」と「狂気」とのせめぎ合いを映してきた。
11月4日は、ただの暦の一日ではない。
それは、人間の内に潜む光と影が、交錯する日である。

今日、私たちはその過去を「記念」するのではなく、「記憶」しなければならない。
原敬の死も、坂本弁護士の死も、そして名もなき命の喪失も──
それらはみな、平和や民主主義が決して「与えられたもの」ではなく、
日々守り、問い続けなければ消えてしまう「灯火」であることを教えている。

満ちゆく月の光は、清らかでありながらも、
長い夜を越えてこそ輝く。
11月4日、その光の下で、私たちは過去を見つめ、静かに祈る。
二度と同じ闇を繰り返さないように。