kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日11月3日  1914第一次大戦東アフリカ戦線開始、写真wikipediaタンガの戦い

11月3日

20251103月曜日旧暦9月14日仏滅(丙子ひのえねヘイシ)月齢 12.6

乙巳きのとみ年戊辰つちのえたつ月丙子ひのえね日  年末まであと58日

吉方位 隠遁日 南 大吉

https://ja.wikipedia.org/wiki/11%E6%9C%883%E6%97%A5

11月3日の出来事

644年 – 第2代正統代理人ウマルが2日前に奴隷に刺された傷が元で死去。

1793年 – フランス革命: ルイ16世の処刑に反対したオランプ・ド・グージュに反革命の罪によりギロチン刑の判決が下り、即日執行される。

1914年 – 第一次世界大戦: タンガの戦いが始まる。年月日:1914年11月3日 – 11月5日 場所:ドイツ領東アフリカ、タンガ 結果:ドイツ軍の勝利 損害 ドイツ軍1100中 死亡61人 負傷80人 イギリス軍 8000人中 死亡360人 負傷487人。

1951年 – 愛媛県で映画フィルムの引火から満員のバスが全焼し死者32人。以降、バスへの大量のフィルム持ちこみが禁止となる。

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644年 – 第2代正統代理人ウマルが2日前に奴隷に刺された傷が元で死去。

ジハード、死

マディーナの預言者のモスクにあるウマルの墓

644年11月、ウマルはマディーナのモスクで礼拝をしている最中に、個人的な恨みをもったユダヤ人ないしペルシア人の奴隷によって刺殺された。この奴隷はウマルの奴隷ではなく、教友のひとりでウマルによってバスラ、クーファの長官となっていたアル=ムギーラ・イブン・シュウバの奴隷(グラーム)のアブー・ルウルウであった。殺害の動機はウマルがハラージュ税を定めた時に彼の主人にも課税されたためこれを恨んだからであったという。ウマルはこの時6ケ所を刺される重傷を負い、3日後に非業の死を遂げた。ウマルはマディーナにある預言者のモスクに葬られた。

伝承によると、アブー・ルウルウは彼自身その場で取り押さえられて報復として殺害されているが、この時彼はモスク内で詰め寄ってきた人々をさらに11人刺しており、内9名が死亡するという大惨事となった。ウマルは刺された後、死の直前に後継のカリフを選ぶための、ウスマーン、アリー、タルハ・イブン・ウバイドゥッラー、アッ=ズバイル・イブン・アル=アッワーム、アブドゥッ=ラフマーン・イブン・アウフ、サアド・イブン・アビーワッカースの6人からなる有力者会議(シューラー)のメンバーを後継候補として指名し、さらにアンサールのアブー・タルハ・ザイド・イブン・サフルに命じて他のアンサールから50人の男を選んで、彼らの6人から一人を選ぶようにも命じた。このような経過の末ウマルの死の後、互選によってウスマーン・イブン・アッファーンが第3代カリフに選出された。

スンナ派、シーア派の評価

スンナ派では、ウマルは理想的な政治を行った指導者として非常に尊敬されている。もともと迫害側の有力者であったウマルの改宗は、ヒジュラ前の初期のイスラーム共同体にとって大きな転機となったので、ウマルはムスリムからは「ファールーク」 al-Fārūq الفاروق (「真偽を分かつ者」)と呼ばれる。しかし、ムハンマドの娘婿であり第4代カリフであるアリーのみが正統なムハンマドの後継者であると主張するシーア派においては、アブー・バクルとともにアリーが継承すべき指導者の地位を簒奪したとみなされ、呪詛の対象となることもある[注釈 1]。なお、ウマルはカリフとしてウマル1世と呼ばれることもあるが、これは後のウマイヤ朝第8代カリフ、ウマル・イブン・アブドゥルアズィーズ(ウマル2世)と区別するためである。

1793年 – フランス革命: ルイ16世の処刑に反対したオランプ・ド・グージュに反革命の罪によりギロチン刑の判決が下り、即日執行される。 45歳没。

オランプ・ド・グージュ[1](仏: Olympe de Gouges、1748年5月7日 – 1793年11月3日)は、フランスの劇作家、女優で、フェミニズム運動の世界的な先駆者である。本名はマリー・グーズ(仏 : Marie Gouze)で、オランプ・ド・グージュはペンネーム。

フランス革命においてはすべての女権論者は過激論者と見なされたが、彼女はその他の主張では政治思想的には穏健で、立憲君主主義者であったと見なされている。フランス革命における女性の権利の不在を糾弾し、共和主義者に近い立場を取りつつもルイ16世の処刑に反対した[2]。

1914年 – 第一次世界大戦: タンガの戦いが始まる。年月日:1914年11月3日 – 11月5日 場所:ドイツ領東アフリカ、タンガ 結果:ドイツ軍の勝利 損害 ドイツ軍1100中 死亡61人 負傷80人 イギリス軍 8000人中 死亡360人 負傷487人。

タンガの戦い(たんがのたたかい、英: Battle of Tanga、時にハチの戦い(Battle of the Bees)とあだ名される)は、第一次世界大戦中の1914年11月3日から5日にかけてイギリス領インド軍がドイツ領東アフリカ(のちのタンザニア大陸部、ルワンダおよびブルンジ)の都市タンガに上陸しようとして失敗した戦い。また、大戦中アフリカにおいて初めて発生した本格的な戦闘でもあった。

1951年 – 愛媛県で映画フィルムの引火から満員のバスが全焼し死者32人。以降、バスへの大量のフィルム持ちこみが禁止となる。

チャットgpt先生の11月3日のエッセイ


🍂十一月三日 ― 「真実」と「理想」をめぐる日

秋の深まりが一段と濃くなる十一月三日。
空は澄み、光は柔らかく、そして一年の終わりへ向けた時間の流れが、静かに人々の心に沁みてくる頃である。
旧暦では九月十四日、月齢十二・六。夜空にはほぼ満ちた月が浮かび、光と影の均衡が美しい。
暦注では「仏滅」とあるが、この言葉が告げるのは不吉というよりも、むしろ「何かが終わり、何かが始まる」節目の気配である。


■ 刺し貫かれた理想 ― 644年、ウマルの死

この日、古代イスラーム世界の第二代正統カリフ、ウマルがこの世を去った。
祈りの最中、信仰の場で刺されたその最期は、信仰と政治、正義と怨恨という、
人の営みの永遠の対立を映しているかのようだ。

ウマルは「ファールーク(真偽を分かつ者)」と呼ばれた。
彼の治世は、律法と秩序、信仰と社会の均衡を求める試みであった。
だが、その理想の厳しさは、時に人々に重くのしかかる。
税の不満から刺されたという彼の最期は、まるで「正義を掲げる者が、正義によって裁かれる」という人間の皮肉を象徴しているようでもある。


■ ギロチンの下で ― 1793年、オランプ・ド・グージュの声

一方、時を越えてヨーロッパ。
フランス革命の嵐の中、オランプ・ド・グージュはその生涯を終える。
彼女は「女性および女性市民の権利宣言」を著し、理性と平等を掲げた。
だが、理想を唱える声はしばしば現実にとって都合が悪い。
「自由、平等、博愛」を掲げた革命は、彼女の「違う自由」を許さなかった。

「女もまた、断頭台に上る権利を持つのなら、演壇に立つ権利もあるはずだ」
その言葉は、今もなお、歴史のどこかでこだまする。
十一月三日は、理想のために声をあげた者が沈黙を強いられた日でもある。


■ ハチの戦場 ― 1914年、タンガの戦い

そして、二十世紀初頭。第一次世界大戦の火はアフリカへも及び、
タンガの地で、英印軍八千とドイツ軍千百が激突した。
結果は、数で劣るドイツ軍の勝利。
混乱の中でハチの群れが襲いかかり、兵士たちは敵よりも自然の猛威に混乱したという。
「ハチの戦い(Battle of the Bees)」――その異名は、人間の戦争がいかに自然に比べて愚かであるかを思い出させる。

鉄と火薬の時代に、ハチが戦局を左右したという逸話は、
まるで自然が人間に「思い上がるな」と言っているようだ。


■ 炎に包まれたバス ― 1951年、愛媛の悲劇

日本でもこの日、痛ましい出来事があった。
満員のバスに積まれた映画フィルムが引火し、三十二人の命が奪われた。
フィルム――それは人々に夢を見せる「光の帯」でありながら、
同時に、火のように危うい「欲望の象徴」でもある。
この事件をきっかけに、バスへの大量のフィルム持ち込みは禁止された。
文明の進歩は、いつも誰かの犠牲の上に慎重なルールを刻んでゆく。


■ 理想と死と、そして静かな月

十一月三日。
この日には、理想を掲げた者たちの「死」が多い。
しかし、その死は終わりではない。
むしろ、人の正義、自由、信仰、そして愚かさを映す鏡のように、
後の時代に問いを残している。

旧暦九月十四日の月はほぼ満ちて、まだ欠けきらぬ明るさを湛える。
それはまるで、失われた命や理想の残光のようでもある。
たとえ人が倒れ、声が途絶えても、
真実を求める意志だけは、月のように沈まず、また昇るのだ。


🕊 十一月三日――理想を抱き、傷つき、それでも光を見上げる日。