11月29日
20251129土曜日旧暦10月10日先勝(壬寅みずのえとらジンイン)月齢 8.8
乙巳きのとみ年 丁亥ひのとい月 壬寅みずのえとら日 年末まであと32日
吉方位 隠遁日 南 大吉
https://ja.wikipedia.org/wiki/11%E6%9C%8829%E6%97%A5
11月29日の出来事
1864年 – インディアン戦争・コロラド戦争: サンドクリークの虐殺。北軍(アメリカ軍)が無抵抗のシャイアン族とアラパホー族インディアンの村に対して行った、無差別虐殺。50人程度の集落インディアンを米軍が虐殺殲滅。
1872年 – インディアン戦争・モードック戦争: ロスト川の戦い。米軍殺戮数詳細不明。
1942年 – 新潟県松ヶ崎村の村営渡船「富士丸」が阿賀野川で沈没。乗客ら27人が死亡・行方不明[5]。
1947年 – 第一次インドシナ戦争: ミーチャック村虐殺。フランス軍はミーチャック村で326軒の家屋を焼き払い、多くの女性を強姦してから虐殺した。犠牲者は300人ほどで、一家皆殺しにされたものが多く、犠牲者のうち170人は女性であり、157人は子供であった。
1963年 – トランスカナダ航空831便墜落事故。死亡118人(全員)。
1973年 – 大洋デパート火災。 買い物客と店員数千人が被害に遭い、犠牲者は103人。デパート火災としては史上最悪の惨事[9]。
2023年 – 屋久島沖米軍オスプレイ墜落事故が発生。死亡8人(全員)。
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1864年 – インディアン戦争・コロラド戦争: サンドクリークの虐殺。北軍(アメリカ軍)が無抵抗のシャイアン族とアラパホー族インディアンの村に対して行った、無差別虐殺。50人程度の集落インディアンを米軍が虐殺殲滅。
背景
コロラド州ではこの虐殺に先駆けて、白人の大集会が開かれ、有志の寄付によって「インディアンの頭の皮の買い取り資金」として5000ドルが集まった。「耳まで付いている頭の皮」なら、25ドルの高額な賞金が設定されたのである。金鉱に群がった侵略者たちにとって、周辺のインディアンはフロンティアを害する障害にすぎなかった。「野蛮なインディアンの絶滅」は、入植者の悲願だったのである。
コロラド準州の近辺でも、インディアンと白人侵略者との激しい戦いが続いていた。両者ともに、ぞっとするような残虐なやり方で死者の身体が損傷され、互いの憎しみ合いは果てがなかった。シャイアン族の襲撃は、ことにデンバーの白人たちを恐れさせていた。
この年3月、『ロッキー山脈ニュース』の編集者は社説でこう書いた。
やつら(インディアン)は、この地上から消し去るべき、自堕落で、宿無し同然で、残忍で恩知らずな人種である。
エバンス知事はもう一つの発言を行った。
あらゆる証拠において、平原インディアンのほとんどは実際に敵対的だった。したがって、市民が彼ら全員を「追いかけて、殺して、破壊する」ことは、市民として当然の行動である。
米軍コロラド軍管区の指揮官ジョン・チヴィントン大佐
インディアンに同情する奴は糞だ!… 私はインディアンを殺さなければならない。そして神の天国のもとではどのような方法であってもインディアンを殺すことは正しく名誉あることであると信じる。
チヴィントンはインディアンをシラミに喩えるのが好きだった。彼は「事件」の数か月前に、白人大衆を前にこうも演説している。
小さいのも大きいのも、すべて殺して頭の皮を剥ぐべきです。卵はシラミになりますから。
騎兵と歩兵がこのシャイアン族とアラパホー族の野営に突入し、男も女も子供も問わず、無差別銃撃を浴びせた。人々は散りぢりになり、走り始めた。チヴィントンは大砲を、最初にインディアンのうろたえて右往左往している集団に向けて発射すよう命令した。ホワイトアンテロープ酋長は英語で「やめろ! やめろ!」と叫んだが、意味がないことを悟り、腕組みをして矢面に立った。これを見て、白人たちは彼を射殺してしまった。
女子供は泣き叫びながら後の砂山の方へ逃げた。丸腰の戦士たちは抗議しながら川上へと退却した。ブラックケトルはしばらくティーピーのそばにとどまったが、やがて妻を連れて退却した。彼の妻は9発も撃たれたが命を取り留めた。白人たちはブラックケトルを仕留めたと思い、そう報告したが、実際には彼は生き延びた。
白人による無差別銃撃は、午後になっても続けられた。シャイアンの戦士たちは交戦を試みたと言うが、人数も武装も足りず、戦闘と呼べるものではなかった。老若男女を問わない皆殺しだった。ロバート・ベントは、後にこのように報告している。
数少ない男たちは、全くの丸腰だった。女たちは自分たちと子供たちを隠すために、死に物狂いで土手の砂を爪で引っ掻いて穴を掘っていた。私はインディアンたちを保護しようと、そちらに近付いて行った。
土手の陰に、5人のインディアンの女たちが隠れていた。軍隊が近づいてくると、彼女らは走り出て、自分たちが女であることを知らせようとしたが、兵隊たちは彼女らを撃ち殺してしまった。 3~40人の女子供が穴に隠れていたが、女たちは6歳くらいの女児に白旗を持たせて送りだした。この女の子が2、3歩足を踏み出したか踏み出さないかのうちに、彼女も射殺されてしまった。穴の外に4、5人女がいて、慌てて走り出した。彼女らは全く抵抗の気配を見せなかった。殺されたインディアンたちのすべてが、米兵によって頭の皮を剥がれていた。
一人の女は腹を斬り裂かれて、胎児を引きずり出され、その胎児は脇に転がっていた。これはスーレ大尉も事実であると私に証言している。私は何人か、武装した幼い子供が母親と一緒に射殺されるのを見た。「戦い」のすぐ後に、私は地面を調べてみた。
私は、死んだインディアンの数を400~500人だったと判断しなければならない[2]。ほとんどすべて、男も女も子供たちも、頭の皮を剥がれていた。私は、不具にされた1人の女性に会った。どの体も恐ろしく切り裂かれており、頭蓋骨が叩き割られていた[3]。私は彼らが射殺された後、このようにされたものと判断している。指輪を取るために、指が鋸で切り取られており、また男だけでなく女も、いくつかの体が兵士によってのこぎりで切断されていた。次の朝、私は男の子がインディアンの死体の間でまだ生きているのを見た。私は、第3連隊の少佐がピストルを取り出して、この男の子の頭を吹き飛ばすのを見た。私は、一部の男たちが指輪を奪うために死体の指を切り落とし、銀の装飾品を奪うために、死体の耳を切り落しているのを見た。
私は、先ほどの少佐と仲間たちが、夜の間にインディアンたちの頭の皮を剥いで、埋葬された死体を掘り起こして装飾品を奪うのを見た。私はインディアンの女が、殺される前に頭を打ち砕かれるのを見た。次の朝、彼らが死んで固くなったあとで、この男たちはインディアン女の体を引っぱり出して、不作法に足を開いていた。私は男たちが「女たちの女性器を切り取ったが、自分では見なかった」と言っているのを聞いた。
私は、何人かの男たちが、殺したインディアン女から女性器を剥ぎとったあとに棒を突っ込んだことに抗議した。女・子供の死体は、見るもおぞましい方法[4]で切断された。私は、わずか8人しか見ていない、それ以上はとても正視に堪えなかった。彼らは、とてつもなく切り刻まれていた。…彼らは頭の皮を剥がれて、むごいやりかた…で切り裂かれていた。ホワイトアンテロープ酋長の死体は、鼻、耳、男性器を切り取られて転がっていた。一人の兵士が、「この酋長の陰嚢で煙草入れを作るのだ」と言っていた。女たちは女性器をえぐり取られていた。
ありとあらゆる略奪が、彼らの身体に加えられた[5]。彼らは頭の皮を剥がれた、彼らの頭は打ち砕かれていた。男たちはナイフを使って女性を切り開き、小さな子供たちは、銃尻で頭を潰されて脳味噌を飛び散らせていた …彼らの体を損壊したやりかたは、どんな言葉でも言い尽せない。それはこれまで見たこともないものだった。女は全員、バラバラに切断されていた… まだ生まれて2、3ヵ月の乳飲み子から戦士まで、すべての世代がそこに転がっていた。
兵士たちは指輪を奪うために指を切断し、子どもも合わせた男性の陰嚢は「小物入れにするため」切り取られた。男性器と合わせ、女性の女性器も「記念品として」切り取られ[6]、騎兵隊員たちはそれを帽子の上に乗せて意気揚々とデンバーへ戻った。私は1人の兵士がインディアンの女の女性器を抜き取り、見せるためにそれを棒に張り付けていたと言っているのを聞いた。私はまた、兵士たちが女たちの女性器を切り出して鞍頭に張り付けたり、なかには帽子に張り付けたりする者もいたという数多くの事例を聞いた。
1872年 – インディアン戦争・モードック戦争: ロスト川の戦い。米軍殺戮数詳細不明。
「戦争」と名は付いているが、実情は合衆国の民族浄化に反抗して、溶岩地帯に立てこもったインディアンの抵抗戦である。この「戦争」はカリフォルニア州あるいはオレゴン州で起こった「インディアン戦争」としては最後のものになり、白人の将軍が戦死した最初で最後の「インディアン戦争」となった。エドワード・マイブリッジがこの戦争の初期を写真に収めている。
モードック戦争のいかなる時にも、戦闘に加わったモードック族戦士は53名以上ではなかった。
モードック戦争の損失は下表の通りである。
| 身分 | 戦死 | 負傷 |
| 米軍士官 | 7 | 4 |
| 兵士 | 48 | 42 |
| 市民 | 16 | 1 |
| インディアン斥候 | 2 | 0 |
| 総計 | 83 | 46 |
クラマス砦で絞首刑となったインディアン4名を含み、キャプテン・ジャックのバンドでは17名の戦士が殺された。
「モードック戦争」で、アメリカ合衆国には400万ドル以上の費用が掛かったと見積もられた。関わった戦力が小さかったにも拘らず、人命と費用の損失は大きかった。これとは対照的に、別の保留地としてモードック族に要請された土地の購入費用は2万ドルと見積もられた。
1942年 – 新潟県松ヶ崎村の村営渡船「富士丸」が阿賀野川で沈没。乗客ら27人が死亡・行方不明[5]。
1947年 – 第一次インドシナ戦争: ミーチャック村虐殺。フランス軍はミーチャック村で326軒の家屋を焼き払い、多くの女性を強姦してから虐殺した。犠牲者は300人ほどで、一家皆殺しにされたものが多く、犠牲者のうち170人は女性であり、157人は子供であった。
1963年 – トランスカナダ航空831便墜落事故。死亡118人(全員)。
1973年 – 大洋デパート火災。 買い物客と店員数千人が被害に遭い、犠牲者は103人。デパート火災としては史上最悪の惨事[9]。
2023年 – 屋久島沖米軍オスプレイ墜落事故が発生。死亡8人(全員)。
チャットgpt先生の11月29日のエッセイ
11月29日という日――静かに刻まれた叫びを聴く
11月29日という日は、暦の上では年末へ向けて淡々と積み重なっていく一日にすぎない。しかし、歴史をたどってみると、この日は世の光とは反対側、影の濃いほうへと私たちを導く出来事がいくつも立ち並んでいる。そこで起きたのは、単なる事故や戦いではなく、人間という存在の弱さ、醜さ、そして儚さが露わになる瞬間だった。
この日は、世界のさまざまな場所で「声を奪われた人々」がいる。
例えば、1864年のサンドクリークの虐殺。コロラドの大地に暮らしていたシャイアン族とアラパホー族の人々は、武器を構えた「敵」ではなく、家族であり、生活者であり、ただそこに「生きていた」だけだった。しかし彼らの存在は、鉱山を求めて押し寄せた入植者たちにとっては邪魔者にすぎず、「絶滅の対象」と公然と語られた。
その日の朝、白旗を掲げたテントの中には、戦士よりも女性と子どもと老人が多かった。だが、その事実は銃口を鈍らせることはなかった。
人間は、ときに「正義」「秩序」「文明」といった言葉を鎧のように身にまとい、そこにいる誰かの当たり前の命を踏みにじる。サンドクリークはその象徴のように思える。
1872年のモードック戦争も同じ匂いを放っている。戦士は53名、対するアメリカ軍は数百。戦いというより、国の都合が民族の生存を追い詰めていく構図だった。400万ドルもの費用をつぎ込んだ「戦争」は、モードック族のわずかな抵抗が「赦されなかった」ことを示している。
また、戦場ではない場所でも、人の命は脆く奪われうる。
1942年の阿賀野川の渡船沈没事故。
1963年のトランスカナダ航空墜落事故。
1973年の大洋デパート火災。
どれも突然、日常と生の時間を断ち切られてしまった出来事だ。
そして1947年、インドシナの村で起きたミーチャック村事件。ここでも、戦争が人間を狂わせ、女性と子どもが真っ先に犠牲になった。「戦争」は、武器を持つ兵士同士の対決として描かれがちだが、その裏で最も深い傷を負うのは、武器を持たない人々なのだということを、この日は繰り返し示している。
さらに近年では、2023年の屋久島沖オスプレイ墜落。
その日、国境や文化を越えて働く隊員たちが任務中に命を落とした。高度な技術の象徴のような航空機であっても、空はいまだ完全な安全を保証してくれないという事実が残る。
沈黙の歴史が語りかけてくるもの
11月29日に連なる出来事を見ると、そこには共通する “痛み” の影が流れている。
それは、
語ることができないまま失われた人々の痛み。
助けを求める暇もなく飲み込まれた命の痛み。
歴史の表には出てこない、ひっそりと消された声の痛み。
暦の上では先勝で、吉方位は南。
日常の運勢を語れば朗らかさもあるだろう。
しかし、同じ11月29日という日に確かに生き、確かに死んでいった人々がいるということを、私たちは忘れてはいけない。
歴史は、時に人間の残酷さを照らす鏡になる。しかし同時に、そこから何かを学び、次へ進むための灯にもなる。
11月29日は、その両方を私たちに突きつけてくる日だ。
過去の痛みと向き合うことは、決して気分のいい作業ではない。だが、知らぬふりをすることはもっと危険だ。人間の残酷さは、忘れたときに、また静かに芽を出す。
今日という日に、静かに祈る
11月29日は、ただ黙って過ぎ去る日ではない。
この日に静かに祈り、胸の奥に沈黙した声をそっと迎え入れること。
それは、悲劇を美化することでも、過剰に悼むことでもなく、未来への小さな責任のようなものかもしれない。
今年の11月29日もまた、その歴史を抱えながら巡ってくる。
私たちはその日、何を見て、何を感じ、何を次へつないでいけるのだろう。
そんなことを思いながら、年末までの残り32日を、静かに歩いていきたい。

