kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日11月25日 1970三島由紀夫事件、ほか、写真wikipedia現在の阿佐ヶ谷駐屯地防衛省

11月25日

20251125火曜日旧暦10月6日先負(戊戌つちのえいぬボジュツ)月齢 4.8

乙巳きのとみ年丁亥ひのとい月戊戌つちのえいぬ日  年末まであと36日

吉方位 隠遁日 戊戌つちのえいぬ日 北西 大吉

https://ja.wikipedia.org/wiki/11%E6%9C%8825%E6%97%A5

11月25日の出来事

1034年 – スコットランド王マルカム2世が反対派に殺害される。孫のダンカン1世が即位。
1120年 – ホワイトシップの遭難。イングランド王子ウィリアム・アデリンほか、多数の王族・貴族が死亡。
1177年 – モンジザールの戦い。ボードゥアン4世率いるエルサレム王国軍がサラーフッディーン率いるアイユーブ朝軍を破った。戦争:アイユーブ・エルサレム戦争 年月日:1177年11月25日 場所:モンジザール 結果:エルサレム王国の勝利 損害 十字軍 1100戦死 750負傷 アイユーブ軍 26000人中 23000人戦死傷。

1554年(天文23年11月1日) – 尼子晴久が尼子国久、誠久親子ら新宮党幹部を粛清。
1934年 – 長崎県の松島炭鉱の坑道が水没(鉱区は海底下に広がっていた)。54人死亡[1]。
1935年 – 福島県桧原湖で渡船が沈没、乗客ら14人が死亡[2]。
1949年 – 金融業『光クラブ』の経営者・山崎晃嗣が青酸カリを前夜遅く服毒し自殺。(光クラブ事件)

1965年 – コンゴ民主共和国でジョゼフ=デジレ・モブツがクーデターを起こし、独立以来続いてきた混乱(コンゴ動乱)が事実上終結[5]。

約30年余の動乱で10人以上が死んだとされる。
1970年 – 三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊・東部方面総監部で割腹自決。(三島事件)
1970年 – 静岡県の東伊豆道路を走行中の観光バスに落石が直撃。バスは路外へ20m転落して死者6人、重軽傷者21人[5]。

1973年 – 五島勉著『ノストラダムスの大予言』の初版が刊行される。

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1034年 – スコットランド王マルカム2世が反対派に殺害される。孫のダンカン1世が即位。

*マルカム2は、1034年11月25日、グラームズの砦近くで、反対派に殺害された[4]。

*ダンカン1世は、1039年のイングランド北部にあるダラムへの侵攻が失敗して重臣たちの信望を失い、1040年に従弟のマクベスに殺害された[2]。

*このダンカン1世のいとこが マルカム2世の次女ドウナダ(Donada)とマリ領主フィンレック(Findlaich)の間に生まれたマクベスである。異父兄にオークニー伯トールフィン(ソーフィン)がいる。マクベスの名は、ゲール語で「生命の子(マク・ベーサ)」の意味である[3]。

1120年 – ホワイトシップの遭難。イングランド王子ウィリアム・アデリンほか、多数の王族・貴族が死亡。

ホワイトシップの遭難(The Sinking of the White Ship)は、12世紀(1120年11月25日)の海難事故。イングランド王ヘンリー1世の世継ぎウィリアム、王の庶子2人を始めとして、イングランド、ノルマンディーの王族、貴族多数が水死した。生き残ったのは船員1人と言われる。

ヘンリー1世とホワイトシップ号の遭難を描いた中世の写本
ウィリアムは、1120年11月25日、イギリス海峡を渡るため、ホワイトシップ号でバルフルールを出航した。ヘンリー1世は既に日暮れ前に出航していたが、ウィリアムと彼の郎党は、日が暮れるまで陸上で飲酒していた。自分たちが乗るホワイトシップ号は王家の艦船で最も速く最新の船であり、すぐにヘンリー1世に追いつけると思っていたからである。酔っ払った操舵手が真夜中に湾内の岩にホワイトシップ号をぶつけなければ、それは間違いではなかったであろう。

衝突後、岩から船を引き離す試みは失敗し、船は急速に浸水を始めた。ウィリアムと幾人かの近習は初め、救命艇を下ろし船を見捨てようとしたが、ウィリアムは異母妹であるペルシュ伯妃マティルダ・フィッツロイを助けようと船に戻った。一方、救命艇も大勢に飛び込まれて過積載となり沈没した。[1]

1177年 – モンジザールの戦い。ボードゥアン4世率いるエルサレム王国軍がサラーフッディーン率いるアイユーブ朝軍を破った。戦争:アイユーブ・エルサレム戦争 年月日:1177年11月25日 場所:モンジザール 結果:エルサレム王国の勝利 損害 十字軍 1100戦死 750負傷 アイユーブ軍 26000人中 23000人戦死傷。

モンジザールの戦い(モンジザールのたたかい、英:Battle of Montgisard)は、アイユーブ朝とエルサレム王国によって1177年11月25日に戦われた。この戦いではハンセン病を病んでいた16歳のエルサレム王ボードゥアン4世がアイユーブ朝のスルタン・サラディンの大軍に数の上で圧倒されていたキリスト教軍を率いていたが、ボードゥアンはイスラーム軍を敗走させ、イスラム軍の損害は甚大でなんとか逃げ出せたのはわずかだった。

1934年 – 長崎県の松島炭鉱の坑道が水没(鉱区は海底下に広がっていた)。54人死亡[1]。
1935年 – 福島県桧原湖で渡船が沈没、乗客ら14人が死亡[2]。
1949年 – 金融業『光クラブ』の経営者・山崎晃嗣が青酸カリを前夜遅く服毒し自殺。(光クラブ事件

光クラブ事件(ひかりクラブじけん)とは、1948年に東京大学の学生による闇金融企業が法律違反として警察に検挙された事件。高金利で取り立てが厳しかったが、東大生社長の会社としてもてはやされ、目立つ広告で出資者を集め、東京・銀座に進出した。「アプレゲール犯罪」の代表例とされさまざまに論じられる。社長の山崎晃嗣は三島由紀夫の『青の時代』や高木彬光の『白昼の死角』などの小説のモデルとなった[1]。

1965年 – コンゴ民主共和国でジョゼフ=デジレ・モブツがクーデターを起こし、独立以来続いてきた混乱(コンゴ動乱)が事実上終結[5]。

コンゴ動乱(コンゴどうらん、フランス語: Crise congolaise、1960年 – 1965年)は、1960年6月30日にベルギー領コンゴがコンゴ共和国(コンゴ・レオポルドヴィル、現在のコンゴ民主共和国)として独立した直後に勃発した反乱から始まる混乱である。

1960年7月11日に、旧宗主国のベルギーから支援されたモイーズ・チョンベは、この混乱の拡大に乗じて南部カタンガ州がカタンガ国として分離独立することを宣言したため、混乱を収拾するためにアメリカ合衆国とソビエト連邦の一致[1]で国際連合安全保障理事会決議143が採択されてコンゴ国連軍が投入された。しかし、国際連合がカタンガへの介入に消極的であったことから、初代首相パトリス・ルムンバは支援を求めてソ連に急速に接近し、これがアメリカ寄りの初代大統領ジョゼフ・カサブブとの対立を生んだ。

他方、ジョゼフ=デジレ・モブツは、1960年9月14日に、政治状況の打開を口実として無血クーデターを起こし、ルムンバは自宅軟禁下に置かれた。モブツによって、カタンガのチョンベの元に送り込まれたルムンバは、1961年1月17日に処刑された。また、1961年9月18日には、カタンガ側との仲介を試みた国連事務総長ダグ・ハマーショルドが、コンゴ動乱の停戦調停に赴く途上で、搭乗機のダグラス DC-6B(機体記号SE-BDY)が北ローデシア(現在のザンビア)のンドラで墜落し(1961年国連チャーター機墜落事故)、死亡するという悲劇も発生した。

ハマーショルド死後の国連は新しく選ばれた事務総長ウ・タントの下、カタンガに積極的に介入する方針に転換し、米ソ双方の支持を取り付けた(国際連合安全保障理事会決議169)。1963年1月21日に、コンゴ国連軍がチョンベ派の最後の拠点を制圧したことで、カタンガの分離活動は沈静化に向かった。次いで毛沢東主義に感化されて左傾化した旧ルムンバ派の一部が、シンバの反乱(英語版)を引き起こして、1964年7月末からコンゴ中部及び東部で急速に勢力を拡大したが、スタンリーヴィルに監禁された人質を救出する目的で、1964年11月24日からアメリカとベルギーが合同で展開したドラゴン・ルージュ作戦によって、シンバの反乱軍勢力は大打撃を受け、その直後に崩壊した。

その後は、カサブブと、亡命先から帰国して暫定首相に就任したチョンベとの間で新たな政治的対立が生まれたが、1965年11月25日に、モブツが政治状況の打開を口実として二度目の無血クーデターを起こして権力を掌握し、独立以来続いていた混乱は事実上終結した。このコンゴ動乱は、冷戦を主導したアメリカとソ連による代理戦争でもあり、動乱の期間中に、約10万人が殺害されたと見られている[2]。

1970年 – 三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊・東部方面総監部で割腹自決。(三島事件

三島事件(みしまじけん)とは、1970年(昭和45年)11月25日に作家の三島由紀夫(本名・平岡公威)が、憲法改正(憲法第9条破棄)のため自衛隊に決起(クーデター)を呼びかけた後に割腹自殺をした事件である。三島が隊長を務める「楯の会」のメンバーも事件に参加したことから、その団体の名前をとって楯の会事件(たてのかいじけん)とも呼ばれる[1][2]。

1970年 – 静岡県の東伊豆道路を走行中の観光バスに落石が直撃。バスは路外へ20m転落して死者6人、重軽傷者21人[5]。
1973年 – 五島勉著『ノストラダムスの大予言』の初版が刊行される。

チャットgpt先生の11月25日のエッセイ


11月25日 ― 終わりと予兆のあいだに

暦の上で11月25日は、冬の入口。
月齢4.8、細く冴えた月が空に浮かび、年の瀬まで残り36日。
この日の干支は「戊戌(つちのえいぬ)」――大地が締まり、内なるものを守り固める性質を持つ日だという。
そして方位では北西が大吉。隠遁の日。動よりも、むしろ沈思黙考にふさわしい日である。

だが歴史の中の11月25日は、むしろ「動乱」や「終焉」を刻んできた。

1034年、スコットランド王マルカム2世が反対派に討たれ、王権の座は孫のダンカン1世へと移った。
そのダンカンもまた6年後、従弟マクベスに討たれる。
「王殺し」の連鎖は、のちにシェイクスピアの悲劇『マクベス』に昇華される。
この日、血によって継がれた王位は、文学の象徴として不朽の物語となった。

時を経て1120年、イングランドではホワイトシップ号が沈む。
ヘンリー1世の世継ぎウィリアム王子をはじめ、王族・貴族多数が海に消えた。
生き残ったのはたった一人の船員。
この「一夜の悲劇」は、国の後継問題を空白にし、やがてイングランドを内戦「無政府時代」へと導いた。
静かな海の底に沈んだのは、王国の未来そのものだった。

さらに1177年、エルサレム王ボードゥアン4世が、病身を押してサラディンの大軍に挑む。
数で圧倒されたはずの十字軍が奇跡的勝利を収めた「モンジザールの戦い」。
王の身体は崩れていくが、信仰の意志が軍を支えた。
その姿は、滅びゆくものの中に宿る一瞬の光を思わせる。

そして時代を下って20世紀――
1970年11月25日、日本の文学と思想に深い影を落とす出来事が起こる。
作家・三島由紀夫の割腹自決である。
自衛隊市ヶ谷駐屯地のバルコニーでの演説は嘲笑に終わり、彼は刀を取った。
その鮮烈な死は、戦後という時代の“精神的な空白”を暴き出した。
ちょうど40年前、ホワイトシップが沈んだ夜のように、
そこには「失われた継承」と「何かを取り戻そうとする焦燥」が同居していた。

同じ日、遠いコンゴではモブツがクーデターを成功させ、
5年にわたるコンゴ動乱に終止符を打っていた。
ここでも「終わり」が新しい秩序の幕開けを告げる。
だがその秩序が安定をもたらすか、停滞を呼ぶかは、誰も知らない。

歴史の11月25日は、奇妙なまでに「転換点」が重なる。
王が倒れ、船が沈み、思想家が命を絶ち、政権が変わる。
そのすべてが、“ひとつの時代の終わり”を象徴している。

けれど、干支でいう「戊戌(つちのえいぬ)」の本質は「守り」だ。
それは単なる死ではなく、「終わりを受け入れて次を支える」性質を持つ。
壊れることの中に、新しい芽を育てる静かな力がある。

だからこそ、この日を迎えるとき、
私たちは“終わること”を恐れずに、“継ぐこと”を意識したい。
沈むもの、朽ちるもの、静まるものの中にこそ、
次の春への予兆があるのだから。


11月25日。隠遁の日。北西、大吉。
静けさの中に、世界の息づかいが変わる音がする。