kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日11月14日 1940ドイツ軍コヴェントリー空襲決行、ほか写真wikipedia空襲後の市街

11月14日

20251114金曜日旧暦9月25日先負(丁亥ひのといテイガイ)月齢 23.6

乙巳きのとみ年丁亥ひのとい月丁亥ひのとい日  年末まであと47日

吉方位 隠遁日 丁亥ひのとい日 北 北東 北西 大吉

https://ja.wikipedia.org/wiki/11%E6%9C%8814%E6%97%A5

11月14日の出来事
1868年(明治元年10月1日) – 戊辰戦争: 弘道館戦争。年月日:(旧暦)明治元年10月1日(グレゴリオ暦)1868年11月14日 場所:常陸国、弘道館 結果:天狗党の勝利、諸生党の敗走。損害 新政府軍天狗党 戦死87人 旧幕府軍諸生党 戦死90人。
1930年 – 濱口雄幸首相が東京駅で右翼青年佐郷屋留雄に狙撃され重傷。
1940年 – コヴェントリー空襲(英語版)。ドイツ空軍がイギリスのコヴェントリーを空襲する。この日のみで死者568人以上。
1965年 – ベトナム戦争: イア・ドラン渓谷の戦いが始まる。年月日:1965年11月14日 – 11月18日 場所:南ベトナムイア・ドラン渓谷(英語版) 結果:双方とも勝利を主張損害 アメリカ軍1000人中戦死305人 負傷524人 ベトナム軍4000人中戦死1519人負傷不明。

1982年 – 浜松基地で行われた航空祭で展示飛行していたブルーインパルスに所属しているT-2練習機のうち1機(4番機)が「下向き空中開花」演技中に墜落、パイロット1名が死亡し、周辺住民12名が負傷。

2009年 – 釜山射撃場火災。15人が死亡。

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1868年(明治元年10月1日) – 戊辰戦争: 弘道館戦争。年月日:(旧暦)明治元年10月1日(グレゴリオ暦)1868年11月14日 場所:常陸国、弘道館 結果:天狗党の勝利、諸生党の敗走。損害 新政府軍天狗党 戦死87人 旧幕府軍諸生党 戦死90人。

弘道館戦争(こうどうかんせんそう)は、明治元年10月1日(1868年11月14日)に水戸城三の丸内にあった水戸藩藩校・弘道館において行われた、水戸藩内の保守派(諸生党)と過激派(天狗党)の戦い。

1930年 – 濱口雄幸首相が東京駅で右翼青年佐郷屋留雄に狙撃され重傷。

佐郷屋 留雄(さごうや[1][2] とめお、1908年12月1日 – 1972年4月14日[3])は、日本の右翼活動家。熊本県出身。別名は佐郷屋 嘉昭(さごうや よしあき)。玄洋社系右翼団体愛国社党員。濱口雄幸首相暗殺未遂犯。

濱口首相暗殺未遂事件


1930年11月14日午前8時58分、東京駅構内にて、特急燕に乗り込むためホームを移動中の濱口雄幸首相を至近距離より銃撃、重傷を負わせる(濱口首相遭難事件)[5]。佐郷屋は銃撃直後に周囲の手で取り押さえられ、現行犯逮捕された。佐郷屋は背後の右翼団体を表には出さず、「濱口は社会を不安におとしめ、陛下の統帥権を犯した。だからやった。何が悪い」と供述したが、「統帥権干犯とは何か」という質問には答えられなかった。

濱口首相は一命を取り留めたものの、翌年、この時の傷がもとで死去した。ただし、濱口首相が特殊な細菌の保有者であったことから、死因は、この細菌が傷口に侵入したことによる化膿によるものと判断された。佐郷屋は殺人未遂罪で起訴[4]、一審では殺人罪が適用され死刑判決、二審では殺人未遂罪が適用され死刑判決が言い渡され、1933年11月6日に上告が棄却されたことにより死刑判決が確定した[6][7][8]。1934年恩赦で無期懲役に減刑された。1940年に仮出所している[3]。

出所後
出所したのち、愛国社社長岩田愛之助の娘婿になり後を継いで右翼活動を続け、戦後は公職追放を受けるが、佐郷屋嘉昭と改名した。1954年、血盟団事件の中心人物である井上日召と共に右翼団体護国団を結成、副団長となる。団は、メンバーが企業・宗教団体あるいは団員になることを断った者への恐喝や監禁・リンチ等の暴力事件をたびたび繰り返し、逮捕されている[9][10]。佐郷屋自身も繰返し逮捕されている[11]が、団長の井上日召が責任を取るとして、団及び団長を辞めたことで、かえって佐郷屋が団長となっている[3]。1959年には児玉誉士夫らがいる全日本愛国者団体会議(全愛会議)の初代議長となる。

弟子に藤元正義がいる。「極真会館」のナンバー2となり日本とオランダでキックボクシングを育てた黒崎健時は『格闘技通信』で、母親を心配させるのが苦しくて地元から出ようと考えたときに紹介してくれる人がいたため世話になったが、佐郷屋より思想的教育を受けた事実はないと答えている。

1972年4月14日、入院先の東京慈恵会医科大学付属病院で肝硬変により死去。同年9月8日、東急建設専務が自社株売買をネタに恐喝されていた事件で相模工業学園理事長、右翼団体塾長の2人が逮捕されたが、佐郷屋も生前に恐喝に関与していたとして書類送検された[12]

1940年 – コヴェントリー空襲(英語版)。ドイツ空軍がイギリスのコヴェントリーを空襲する。この日のみで死者568人以上。

コヴェントリー・ブリッツ(電撃戦:ドイツ語で「電光石火の戦争」を意味するブリッツクリークから聞く(イ))は、イギリスの都市コヴェントリーで行われた一連の爆撃でした。この都市は、第二次世界大戦中にドイツ空軍(Luftwaffe)によって何度も爆撃されました。これらの攻撃の中で最も壊滅的なものは1940年11月14日の夜に発生し、11月15日の朝まで続いた。

一晩で、コベントリーの4,300軒以上の家屋が破壊され、市内の建物の約3分の2が被害を受けました。市内中心部の大部分が破壊されました。2つの病院、2つの教会、警察署も被害を受けた。[13][14] 地元の警察は、この電撃戦で9人以上の巡査や伝令を失った。[15]市内の工場の約3分の1が破壊または深刻な被害を受け、さらに3分の1が大きな被害を受け、残りは軽微な被害を受けました。破壊された工場の中には、ダイムラーの主要工場、ハンバー・ヒルマン工場、アルフレッド・ハーバート社の工作機械工場、9つの航空機工場、2つの海軍兵器庫があった。戦争生産への影響は一時的なものに過ぎず、重要な戦争生産の多くがすでに都市郊外の「影の工場」に移されていた。また、被害を受けた工場の多くはすぐに修理され、数ヶ月でフル生産に回復しました。[3]:155名

11月14日の空襲後の市内中心部
この襲撃で推定568人が死亡し(正確な数字は正確に確認されていない)、さらに863人が重傷を負い、393人が軽傷を負った。空襲の激しさを考えると、多くのコヴェントリアンが以前の空襲の後、夜に都市を出て近くの町や村で眠るために「トレッキング」したという事実によって、死傷者は限定的でした。また、防空壕に避難した人も、死傷者はほとんど出ませんでした。3万3000人を収容する79の公共防空壕のうち、破壊されたのはごくわずかだった。[3]:155名

1965年 – ベトナム戦争: イア・ドラン渓谷の戦いが始まる。年月日:1965年11月14日 – 11月18日 場所:南ベトナムイア・ドラン渓谷(英語版) 結果:双方とも勝利を主張
損害 アメリカ軍1000人中戦死305人 負傷524人 ベトナム軍4000人中戦死1519人負傷不明。

イア・ドラン渓谷の戦い(イア・ドランけいこくのたたかい)とは、ベトナム戦争中の1965年11月14日 – 11月18日にイア・ドラン渓谷(英語版)においてアメリカ軍と北ベトナム軍との間で行われた戦闘である。

1965年11月14日、前日にアメリカ軍基地を襲撃した北ベトナム軍を追撃するため、アメリカ軍はカンボジア国境の近くのイア・ドラン渓谷に第7航空騎兵連隊の内、1個大隊約450名をヘリボーンで派遣する。

同日10:48、最初の部隊が現地に到着し、ヘリの着陸地点(X-レイ)を確保するが、待ち構えていた4000名近くの北ベトナム軍によって即座に全周包囲されてしまい、戦闘開始早々、兵力・地理共に絶望的な状況に陥ってしまう。しかし空軍砲兵そしてUH-1のガンシップによる濃密な支援攻撃により、包囲されつつも壊滅を免れ、X-レイを防衛し、増援や補給路を確保することに成功する。

北ベトナム軍はアメリカ軍の砲爆撃に大きな犠牲を出しつつも昼夜を問わず攻撃を続け、一時はアメリカ軍の防衛ラインを突破するが、第7航空騎兵連隊の攻撃と航空戦力によって壊滅した。

アメリカ軍はこの戦いで北ベトナム軍に勝利したものの、最終的に北ベトナム軍の戦死者は1519人(負傷者数不明)に達し、アメリカ軍も約1000人中305人が戦死し、524人が負傷した。

これ以降、北ベトナム軍は物量に勝るアメリカ軍との正面的な衝突を避け、主にゲリラ戦を戦術として取るようになった。

1982年 – 浜松基地で行われた航空祭で展示飛行していたブルーインパルスに所属しているT-2練習機のうち1機(4番機)が「下向き空中開花」演技中に墜落、パイロット1名が死亡し、周辺住民12名が負傷。

2009年 – 釜山射撃場火災。15人が死亡。

釜山射撃場火災(プサンしゃげきじょうかさい)は、2009年11月14日に大韓民国釜山広域市の室内射撃場で発生した火災である[1][2]。

この火災では日本人観光客10人を含む15人が死亡し、日本人観光客1人が負傷した[3][4][5]。

チャットgpt先生の11月14日のエッセイ


11月14日 ― 炎と静寂のはざまで

晩秋の空気が冷たく冴えるころ、暦は11月14日を示す。
2025年のこの日は、旧暦では9月25日、先負の金曜日。月齢23.6──夜空に残る月は痩せて、秋の終わりを照らしている。
年末まであと47日。ふと、時の速さに息を呑む。

この日をめくれば、幾度も「炎」が歴史の中に立ち上っている。
1868年の弘道館戦争。
水戸藩内で信念を違えた者たちが、藩校の庭先で刃を交えた。教育の場で血が流れるという皮肉。学問と忠誠、理想と現実がすれ違い、国は新しい時代を迎えるために、古い信義を焼き尽くした。

そのおよそ60年後の1930年、東京駅のプラットホーム。
特急「燕」に乗り込もうとする濱口雄幸首相が銃弾を受け倒れた。
狙撃者は「陛下の統帥権を守るため」と叫んだという。だが、統帥権の意味さえ正確に知らぬまま引き金を引いた。
信念なき正義ほど、悲しいものはない。弾丸が貫いたのは一人の身体ではなく、理性と狂信の境界だった。

さらにその十年後、遠く離れた英国の空ではコヴェントリーが燃えていた。
ドイツ軍の爆撃により街の三分の二が破壊され、五百人を超える命が奪われた夜。
聖堂の瓦礫の上に、焼け焦げた鉄骨が十字架のように残ったという。
祈りも工場も等しく炎に包まれ、それでも翌朝には人々が瓦礫を片づけ、パンを焼いた。
破壊の翌日に生活が続く――それが人間の強さなのだろう。

1965年、ベトナムのイア・ドラン渓谷。
ヘリのプロペラが巻き上げた砂煙の下で、アメリカ兵と北ベトナム兵が互いを見失うほど近くで撃ち合った。
双方が「勝利」を主張しながら、戦死者は数千。
それ以後、戦いの形はゲリラ戦へと変わり、戦争はより見えないものとなっていく。
「戦争の始まり」と「終わり」はいつも曖昧だ。だが、死者の数だけ確かな“結果”が残る。

1982年、青い空を描いたブルーインパルスの演技が一瞬にして悲劇に変わる。
訓練された技術の極みにあっても、人間の限界は紙一重。
見上げていた観客の歓声が悲鳴に変わったとき、空という舞台が持つ危うさが露わになった。

そして2009年、釜山の射撃場。
観光客が笑顔で銃を構えた数時間後、炎が建物を呑み込んだ。
15人の命が奪われ、そのうち10人は日本人だった。
炎は国境を知らず、悲しみもまた国を越える。


11月14日は、静かな晩秋の日でありながら、歴史の中ではいつも何かが燃えていた。
それは戦いの火であり、信念の火であり、あるいは人間の誇りの火でもある。
けれど同時に、この日は「隠遁日」とも言われる。
喧騒を離れ、心を静めるにふさわしい日。
北・北東・北西が吉方とされるのも、冬の冷気がその方向からやってくるからだろうか。
冷たさの中に、清浄な静けさがある。

人は過去を振り返ることで、自らの足元を確かめる。
炎の記憶を知ることで、いま目の前にある穏やかな日常の尊さを知る。
11月14日──それは、歴史の傷跡に手をあてながら、静かに生きることを思い出す日だ。