kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日11月12日  1970ボーラサイクロンパキスタンに上陸、ほか写真wikipediaボーラサイクロン

11月12日

20251112水曜日旧暦9月23日先勝(乙酉きのととりイツユウ)月齢 21.6

乙巳きのとみ年丁亥ひのとい月乙酉きのととり日 年末まであと49日

吉方位 隠遁日 乙酉きのととり日

https://ja.wikipedia.org/wiki/11%E6%9C%8812%E6%97%A5

11月12日の出来事

1793年 – フランス革命: パリ・コミューン初代市長ジャン=シルヴァン・バイイが処刑。

1944年 – 第二次世界大戦: ドイツ海軍の戦艦「ティルピッツ」がイギリス空軍の12,000ポンド爆弾「トールボーイ」を使用した爆撃を受け沈没。死者500人以上。

1945年 – 二又トンネル爆発事故、アメリカ軍の杜撰な火薬処理により爆発事故が発生。死者147人、負傷者149人の大惨事。

1948年 – 極東国際軍事裁判で、25人の戦犯に対し東條英機ら7人の絞首刑を含む有罪判決。

1949年 – 香川県小豆島沖合で八千代汽船の貨客船「美島丸」(138トン)が沈没。乗員・乗客57人のうち行方不明47人[1]。

1969年 – ベトナム戦争: アメリカの調査報道記者シーモア・ハーシュが前年3月のソンミ村虐殺事件を暴露。

1970年 – ボーラ・サイクロンが東パキスタンに上陸。30万から50万人が死亡。

1996年 – ニューデリー空中衝突事故が起こる。312人(全員)+37人(全員)=349人死亡

2001年 – アメリカン航空587便墜落事故が起こる。260人(全員+地上5人)死亡。

2017年 – イラクとイランの国境でMw 7.3の地震。400人以上が死亡。(イラン・イラク地震)[2]

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1793年 – フランス革命: パリ・コミューン初代市長ジャン=シルヴァン・バイイが処刑。

生誕        1736年9月15日

 フランス王国 パリ

死没        1793年11月12日(57歳没)

 フランス共和国 パリ

死因        ギロチン(死刑)

国籍        フランス

政党        愛国党(英語版) (1790–1791)

フランス革命により、バイイの研究は中断させられた[1]。1789年の三部会においてパリの第三身分代表の1人に選出され、5月5日に第三身分の議長に選出され、6月20日の球戯場の誓いを主導した[1]。バスティーユ襲撃の後、1789年7月15日にパリ・コミューンの最初のパリ市長に選ばれたが、1791年7月17日のシャン・ド・マルスの虐殺でデモを鎮圧するために国民衛兵に発砲を命じたため人気を失い、同年11月16日にパリ市長を退任して、ナントに引退した[1]。

1793年末、ムランで友人ピエール=シモン・ラプラスに合流しようとしてナントから移動したが、そこで逮捕され、11月10日にパリの革命裁判所で裁判にかけられた[1]。12日、群衆の罵声の中ギロチンにかけられて処刑された[1]。

ナントで著した、フランス革命の回想録はフランス復古王政期の1821年から1822年にかけて3巻で出版された[1]。

1944年 – 第二次世界大戦: ドイツ海軍の戦艦「ティルピッツ」がイギリス空軍の12,000ポンド爆弾「トールボーイ」を使用した爆撃を受け沈没。死者500人以上。

ティルピッツ(Tirpitz)は、第二次世界大戦時のドイツ海軍の戦艦(独:Schlachtschiff)。ビスマルク級の2番艦。名前は第一次世界大戦時の海軍元帥アルフレート・フォン・ティルピッツにちなむ。ドイツが建造した最後の戦艦であり、また、ドイツ海軍軍人の名を冠した唯一の戦艦であった。 イギリスが発動したパラヴェーン作戦によって停泊中のティルピッツは戦略爆撃機ランカスターの爆撃を受け大破、航行不能に陥り、カテキズム作戦によって同じくランカスターの爆撃を受け完全に沈没することとなった。

1945年 – 二又トンネル爆発事故、アメリカ軍の杜撰な火薬処理により爆発事故が発生。死者147人、負傷者149人の大惨事。

二又トンネル爆発事故(ふたまたトンネルばくはつじこ)は、1945年(昭和20年)11月12日に福岡県田川郡添田町で発生した爆発事故。

同町落合の日田彦山線彦山駅から南方500メートルにあった二又トンネル(鉄道路線は未開通)において、アメリカ軍が当トンネル内に保管されていた大日本帝国陸軍の火薬を焼却処理しようとしたところ、点火から約2時間後に大爆発を起こし、山全体と多数の民家が吹き飛ばされて死者147人、負傷者149人、家屋135戸が被災する[1]大惨事となった。

1948年 – 極東国際軍事裁判で、25人の戦犯に対し東條英機ら7人の絞首刑を含む有罪判決。

1949年 – 香川県小豆島沖合で八千代汽船の貨客船「美島丸」(138トン)が沈没。乗員・乗客57人のうち行方不明47人[1]。

1969年 – ベトナム戦争: アメリカの調査報道記者シーモア・ハーシュが前年3月のソンミ村虐殺事件を暴露。

1970年 – ボーラ・サイクロンが東パキスタンに上陸。30万から50万人が死亡。

1970年のボーラ・サイクロン(英:1970 Bhola cyclone)とは、1970年11月12日に東パキスタン(今日のバングラデシュ)のボーラ地方とインドの西ベンガル州を襲ったサイクロンである。ベンガル・デルタ地帯の標高が低い島々が高潮に襲われ、これを主な原因としてもっとも控えめな見積でも20万5000人以上、最大50万人と推定される人命が失われ、サイクロンとしては史上最大級の犠牲者を出した。近代以降の自然災害全般の中でも最悪のものの一つである。この被害が余りに激甚であったことが直接的な契機の一つとなって、以後パキスタンは内戦状態に陥り、翌年バングラデシュが独立した。

総説

このサイクロンは1970年の北インド洋サイクロンとしては6番目のもので、11月7日にベンガル湾中央付近で発生した後、勢力を強めつつ北上し、カテゴリー3ハリケーンに相当する勢力に達した。11月12日には最盛期となって風速 51m/s[1]となり、同夜に東パキスタン沿岸に上陸した。これによる高潮は沖合の島にあった村々に対して壊滅的な被害を与えた。最大の被害を出したのはタズムッディンで、人口167,000のうち45%以上が死亡した。

東パキスタンの政治指導者と国際社会は、被害発生に続く災害救助活動についてパキスタン政府が消極的であった事を激しく非難した。この結果12月の普通選挙にて野党のアワミ連盟が東パキスタンで地滑り的圧勝を収め、翌1971年には東パキスタンと中央政府間の政争が激化して遂にバングラデシュ独立戦争が勃発、同年12月には第三次印パ戦争へと拡大し、結果として新国家バングラデシュが建国された。

1996年 – ニューデリー空中衝突事故が起こる。312人(全員)+37人(全員)=349人死亡

2001年 – アメリカン航空587便墜落事故が起こる。260人(全員+地上5人)死亡。

2017年 – イラクとイランの国境でMw 7.3の地震。400人以上が死亡。(イラン・イラク地震)[2]

チャットgpt先生の11月12日のエッセイ


11月12日 ― 記憶の交差点に立って

11月12日という日付をたどると、世界のあちこちで、まるで時の糸が幾重にも結び直されるような出来事が浮かび上がる。
この日を静かに見つめていると、人間の叡智と愚行、希望と悲劇、そのすべてが入り混じった「歴史の呼吸」が聞こえてくる気がする。


1793年 ギロチンの刃の下で

この日のフランス・パリでは、ジャン=シルヴァン・バイイが処刑された。
科学者であり哲学者であった彼は、革命の初期に「自由」を夢見た一人だった。
しかしその理想は、革命の渦に呑まれて「秩序」へと変質し、彼自身がその秩序に裁かれる立場となった。
「革命は人を救うのか、それとも呑み込むのか」――この問いはいまもなお、世界のあちこちで響き続けている。


1944年 ティルピッツの沈黙

冷たい北の海で沈んだ巨大な戦艦ティルピッツ。
鉄の巨体が海に沈む音は、20世紀の軍事技術の栄光と傲慢の終焉を象徴しているようだ。
戦艦を沈めた爆弾は、敵を倒すために作られたが、その爆風は人間の心の奥底にある「破壊への衝動」をも暴き出した。


1945年 二又トンネルの炎

戦争が終わったばかりの日本で、福岡の山中に眠るトンネルが爆ぜた。
アメリカ軍の火薬処理の不手際により、山は裂け、147人の命が奪われた。
戦争の「終わり」は、爆弾が止む瞬間ではなく、人々の生活が戻るその時まで来ない。
敗戦の影は、爆音の中にも、静かな日常の隙間にも残っていた。


1970年 風が国を変えた夜

東パキスタンを襲ったボーラ・サイクロン。
30万、あるいは50万人という信じ難い数の命が、たった一夜で奪われた。
自然災害は、単なる気象現象ではなく、政治と社会の歪みをあぶり出す鏡でもある。
救助の遅れに怒った人々の声は、やがて国を動かし、翌年、バングラデシュという新しい国を生んだ。
破壊の中から生まれた独立――それは痛みと誇りの入り混じった夜明けだった。


同じ日を生きるということ

11月12日。
過去には悲劇が重なり、歴史の上では血と涙に染まった一日かもしれない。
だが、2025年の今日、私たちは同じ日付の下で、穏やかに空を見上げることができる。
月齢21.6、下弦の月が夜空にかすかに光る。
その月を、200年前のパリの人々も、80年前の福岡の人々も、きっと見上げたことだろう。
時代は変わっても、月の形は変わらない。
だからこそ、人間はこの「同じ日」を通して、過去と静かに向き合うことができるのだ。


終わりに

11月12日――この日は、偶然のように悲劇と変革が交錯する。
だが同時に、記憶をたどり、過去を語り継ぐための日でもある。
年末まであと49日。
忙しさに追われる日々の中で、この「日付の記憶」に立ち止まり、
一人ひとりが「今をどう生きるか」を思い返すこと。
それが、過去の犠牲に対する、もっとも静かな祈りになるのではないだろうか。