11月10日
20241110日曜日旧暦10月10日先勝(戊寅つちのえとらボイン)月齢 8.5
甲辰きのえたつ年乙亥きのとい月戊寅つちのえとら日 年末まであと51日
吉方位 北西 吉。
https://ja.wikipedia.org/wiki/11%E6%9C%8810%E6%97%A5
11月10日の出来事
1444年 – ヴァルナの戦い。オスマン帝国のスルタン・ムラト2世軍が、キリスト教国連合軍を敗退させた戦い。時 1444年11月10日 場所 現在のブルガリア、ヴァルナ近郊
結果 オスマン帝国の決定的勝利 損害 キリスト教連合軍 2万人中 甚大 オスマン帝国軍 5万人中 甚大。
1567年(永禄10年10月10日) – 松永久秀、三好義継軍が三好三人衆が陣取る東大寺を急襲し、大仏を含めた堂宇が焼失。(東大寺大仏殿の戦い)年月日:永禄10年(1567年)4月18日-10月11日 場所:東大寺、多聞山城周辺 結果:松永久秀軍の勝利 損害 松永久秀軍 不明 不明 三好軍 2万人中 300人以上死亡。
1915年 – 第一次世界大戦: 第四次イゾンツォの戦い。イタリア戦線 イタリア軍とオーストリアハンガリー帝国の戦い 年月日:1915年11月10日 – 12月2日 場所:イタリア北西部のイゾンツォ川付近 結果:イタリアの戦略的辛勝 損害 イタリア軍 戦死傷49500人 オーストリハンガリー軍 戦死傷32100人。
1939年 – 岩手県松尾鉱山で落盤事故が発生。死者・行方不明者83人以上[2]。
1944年 – ゲシュタポと親衛隊がケルンでエーデルヴァイス海賊団団員ら13名の公開処刑をおこなう。
1946年 – ペルーのアンカシュ(内陸)でM 7.2の地震。死者1500人。
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1444年 – ヴァルナの戦い。オスマン帝国のスルタン・ムラト2世軍が、キリスト教国連合軍を敗退させた戦い。時 1444年11月10日 場所 現在のブルガリア、ヴァルナ近郊
結果 オスマン帝国の決定的勝利 損害 キリスト教連合軍 2万人中 甚大 オスマン帝国軍 5万人中 甚大。
11月9日夕刻、4万から6万人を擁する大規模なトルコ軍が、西からヴァルナへ接近した。翌10日から始まった戦闘が進むにつれ、キリスト教国混成軍が劣勢となった。ハンガリー軍の主力はヴァルナ湖の泥に馬の足を取られてトルコ歩兵の餌食となり、瞬時のうちに撃破された、このハンガリー部隊と一緒にいた各国軍のうち、クロアチア軍のみが脱出に成功し、全軍の本陣に戻った。
ここでフニャディが配下のハンガリー部隊を率いて主力軍の救援に向かうことが決まり、フニャディは王にはフニャディの部隊が戻るまで本陣にとどまるようにと上奏した。しかし20歳の若きポーランド=ハンガリー王ヴワディスワフ3世はトルコ軍中央の陣が見た目ほど堅牢でないことを見抜くと、フニャディの上奏を無視し、精鋭のポーランド人騎士500人を連れて自軍の本陣から出撃、スルタンの本陣へ向かって中央から突撃した。彼らは、スルタンの周りを固めるイェニチェリを打ち破り、ムラト2世を捕虜にしようと企てたのだった。
この電撃作戦は成功し、イェニチェリの防衛線は撃破され、王の計画通りトルコ軍親衛隊は大混乱に陥った。ポーランド親衛隊はあと少しでスルタンを捕縛するところまで迫った。ところが、王が乗っていた馬がスルタンのすぐ目の前で陥穽に足を取られ、ヴワディスワフ王は落馬してしまったのである。そこへ集まったイェニチェリ親衛隊によって、不運にもヴワディスワフ3世は殺害された。伝承によると、殺害後に切り落とされた首は、トルコ宮廷へ送られた。王の死で落胆したポーランド騎兵隊はトルコ歩兵に包囲された。
王が戦死したことで、今度はヨーロッパ軍の指揮系統が混乱し、トルコ軍の反撃に対処することが難しくなった。王が落命したとの情報を得た摂政フニャディは王の遺体を取り返そうと試みたが、彼が全て完遂できたのは、ヨーロッパ軍の残存兵の退却を指揮することだった。捕虜となったキリスト教軍の兵士は、虐殺されるか奴隷として売られた。
1567年(永禄10年10月10日) – 松永久秀、三好義継軍が三好三人衆が陣取る東大寺を急襲し、大仏を含めた堂宇が焼失。(東大寺大仏殿の戦い)年月日:永禄10年(1567年)4月18日-10月11日 場所:東大寺、多聞山城周辺 結果:松永久秀軍の勝利 損害 松永久秀軍 不明 不明 三好軍 2万人中 300人以上死亡。
東大寺大仏殿の戦い(とうだいじだいぶつでんのたたかい)は、永禄10年(1567年)4月18日から10月11日のおよそ半年間にわたり松永久秀、三好義継と三好三人衆、筒井順慶、池田勝正らが大和東大寺周辺で繰り広げた市街戦。松永久秀の居城であった多聞山城の周辺でも戦闘があったため「多聞山城の戦い」とも呼ばれている。
東大寺攻め
三人衆・筒井連合軍が奈良に駐屯してから約6ヵ月が経過した。多聞山城を背後に松永・三好連合軍も奮闘しているが、兵力は三人衆・筒井連合軍が上で、有利に作戦を展開していた。膠着状態の中、10月10日に松永・三好連合軍は三人衆軍の本陣がある東大寺を奇襲した。この時の戦いの状況を「今夜子之初点より、大仏の陣へ多聞城から討ち入って、数度におよぶ合戦をまじえた。穀屋の兵火が法花堂へ飛火し、それから大仏殿回廊へ延焼して、丑刻には大仏殿が焼失した。猛火天にみち、さながら落雷があったようで、ほとんど一瞬になくなった。釈迦像も焼けた。言語道断」(『多聞院日記』)と記している。午後11時に戦闘が開始され、戦闘中に穀屋から失火し法花堂それから大仏殿回廊、そして日をまたいだ翌10月11日午前2時には大仏殿が焼失したようである。また、「四ツ時分から、大仏中門堂へ松永軍が夜討、三人衆側も死力を尽くして戦ったが対抗できず、遂には中門堂と西の回廊に火を放たれて焼失した。この戦いで多くの者が討ち死にした。」(『多聞院日記』)と記しており、『東大寺雑集録』にも午後10時と記載されているので、戦闘はこの時間帯から開始されたと思われている。十分な戦闘準備が整っていない三人衆軍の不意打ち狙いであり、東大寺は防備を目的とした砦でもなく、そのような中で懸命に防ごうとしたが支えきれず、浮き足だって崩れ去っていったのではないかと思われる。この戦いで三人衆軍は討ち死にしたり、焼け死んだりした者が300名を数えた。またルイス・フロイスの『日本史』では違う内容で記載している。「多聞山城を包囲した軍勢の大部分は、その大仏の寺院の内部とこの僧院のあらゆる場所に宿営した。その中には我らの同僚によく知られていた一人の勇敢な兵士もいたのであるが、我らは世界万物の創造者に対してのみふさわしい礼拝と崇敬のことに熱心な、誰かある人にたきつけられたからというのではなく、夜分、自分が警護していた間に、ひそかにそれに火を放った。そこで同所にあったすべてのものは、はるか遠くはなれた第一の場所にあった一つの門、および既述の鐘以外は何も残らず全焼してしまった」(『日本史』)と記してある。この文中にある「我ら」というのはイエズス会のことであり、三人衆軍の兵士でイエズス会に入信している誰かが放火したとしており、『多聞院日記』や『東大寺雑集録』とは違う記載になっている。切羽詰った久秀が三人衆軍を大仏殿ごと焼き殺そうとした兵火説や、不意打ち狙いの夜襲のためやむ得ず失火してしまった説、三人衆軍の一部の兵による放火説など、現在でも議論になっている。
奈良の大仏を「戦国時代に仏頭は松永久秀の兵火によって焼き落とされ」と紹介されたり、織田信長が徳川家康に松永久秀を紹介する時に、三悪事の1つとして東大寺大仏を焼討したと紹介したので、久秀が焼討したと現在でも語られている。しかし『 大和軍記』には「(三好軍の)思いがけず鉄砲の火薬に火が移り、」と記載されていたり、『 足利季世記』には「三好軍の小屋は大仏殿の周囲に薦(こも)を張って建っていた。誤って火が燃えつき、」と記載されている事から、『松永久秀の真実』では「松永方が放火して焼けたのではなく、罪があるとしても、過失により、大火を招いたものだろう。ましてや久秀が指示して大仏殿を焼いたということはあり得ない」としていたり、『筒井順慶の生涯』によると「大仏殿は久秀が意図的に焼いたものではなく、戦のさなかに三好方で起きた不慮の事故によって焼けてしまった」としていたり、今谷明によると「大仏炎上は久秀の仕業とされているが、実際は三好方の失火であった。信長に2回も謀反した悪辣ぶりが後世の付会を呼んで、すべての久秀の罪業に押付けられたのである」とする[2]。これより直ちに「松永久秀の放火説」がなかったとは言えないが、最近の研究によると「戦の最中の不慮の失火説」が有力である。
この時焼失したのは、大仏の仏頭、伽監、念仏堂、大菩提院、唐弾院、四聖坊、安楽坊などであった。鐘楼堂も火がついたがこちらは僧侶達の消火活動によって類焼を避けることができた。いずれにしてもこの火災で三人衆軍、池田軍は総崩れになり、摂津、山城に退いていった。また、滝山城の戦いで活躍した別所軍もいたようで、5月17日に岩成友通隊が布陣していた氷室山法雲院にいたが、大仏殿が焼けるとみるや自陣を焼いて播磨へ帰国した。一方の筒井軍は後方の大乗院山に布陣していたためか、大きな被害はでず筒井城に引き上げていったと思われている。また別の説では松永軍が次々と寺を焼き払うのを見かね、東大寺を主戦場とする三人衆と意見の相違があり、残留部隊のみを残し早々に筒井城に引き上げていたという見解もある。しかしこの時の順慶の詳細な行動については記録がなく、詳しいことは解っていない。
1915年 – 第一次世界大戦: 第四次イゾンツォの戦い。イタリア戦線 イタリア軍とオーストリアハンガリー帝国の戦い 年月日:1915年11月10日 – 12月2日 場所:イタリア北西部のイゾンツォ川付近 結果:イタリアの戦略的辛勝 損害 イタリア軍 戦死傷49500人 オーストリハンガリー軍 戦死傷32100人。
概要
本会戦は他のイゾンツォの戦いとは違い、短期間で終わった。そのため、第三次イゾンツォの戦いの続きと考えられることもある。
両軍は戦線の全域に均等配置されたが、戦闘の大部分は、ゴリツィアとクラス高原に集中した。ゴリツィアを攻撃目標に定めたイタリア第2軍は、ゴリツィアの西方に位置するオスラヴィエ(Oslavje、イタリア名:Oslavia)を占領した。その間、沿岸付近には陣取らなかった第3軍は、無意味な攻撃を実施しようとしていた。イタリア第3軍は5回に渡りMount Sei Busiを攻撃したが、すべて徒労に終わった。
戦闘の激しさが増しだした11月末にはトールミンの橋頭堡の両岸部において激しい爆破が起きた。死傷者の割合はそのときが最も高かった 。その後、12月の最初の15日間の間だけは戦闘は小規模になった。原因として本格的に冬季がせまってきたこと、補給物資が不足しがちとなり、作戦できなくなったためである。
莫大な損害を憂慮したオーストリア=ハンガリーの司令部は初めて、イタリアの行為(未回収のイタリア)に反対していたドイツ帝国に軍の派遣を要請した。ドイツ帝国のイタリア戦線に干渉するのは、ようやく第十一次イゾンツォの戦いが始まるとき(1917年8月)となる。
1939年 – 岩手県松尾鉱山で落盤事故が発生。死者・行方不明者83人以上[2]。
1944年 – ゲシュタポと親衛隊がケルンでエーデルヴァイス海賊団団員ら13名の公開処刑をおこなう。
エーデルヴァイス海賊団(エーデルヴァイスかいぞくだん、ドイツ語: Edelweißpiraten)は、ナチス政権下のドイツに存在した若者のグループである。これはヒトラーユーゲント内の厳しい統制生活に対抗した若者の自然発生的な運動として、ドイツ西部で1930年代末に発生した。彼らは主に14歳から18歳の若者で構成されていた。当時のドイツでは、少年たちは学校を卒業(当時は14歳で卒業する)した後、ヒトラーユーゲントに入隊、17歳でドイツ国家労働奉仕団に入り、兵役に就くことになっていた[1]が、このグループの若者たちはこれを避けようとしていた。
意義
エーデルヴァイス海賊団やモイテンの攻撃性、スウィング・ボーイの無関心さはナチスをいらだたせるものであったが、これはナチスが画一的な社会を形成しようとしていたことに対する明らかな反逆であり、独自の文化を発達させるものであったからである。彼等はナチスの押し付ける物を拒否し、それを認めないことを証明するためヒトラーユーゲントへの挑発を行い、独自の文化的主観性を作り出していた[36]。
エーデルヴァイス海賊団・モイテン
ナチス当局はこれらの原因を戦争や思春期に求めたが、その枠組みに当てはまることはなく、実際に社会に出た青少年が経験したもの、労働によって規定されるアイデンティティが反映したものであった。彼等はヒトラーユーゲントのように学生でなく、自ら働き、賃金を稼ぐ一人前の男であると言う自信を持っており[37]、また、ナチスの求める全体主義ではなく、個人を大事にしていた。それは労働が強制的なものと感じる態度にも反映され、強制に対抗するために仕事をサボるなど職場での反抗にもつながった[7]。彼等は伝統的熟練労働者や生産者としての誇りを持たなかった。
彼等はそれまで存在した労働者階級の基本文化を再編したのではなく、彼等の経験から新たな文化を形成したのであった。
スウィング・ボーイ
彼等の問題はナチスにとって危ういものであった。なぜならば、ナチスが政権に就いたときの主な支持層が彼等の親であったからである。しかし、親の価値観を彼等が受け継ぐことはなく、それを無価値と考えていたとされる。つまり「ジャズを聴いて踊る」ことや「のらりくらりとした生活」はナチスにとって大きな破壊力となる恐れが存在した[38]。
ナチスの報告書によれば、スウィングと教育程度には強い関連性が存在するとされており、事実、彼等はある程度の教育を受けており、合理的な解決を行うことを好み、ナチスの美辞麗句では自分たちを表現することができないと感じていた。また、ヒトラーユーゲントの軍事訓練にも嫌気を感じていたのである[39]。
これについては明確な答えはまだ存在していないが、スウィング・ボーイの世代は、ドイツにおける天文学的インフレや世界恐慌を経験しており、それまでのドイツの価値観が大きく揺らいだ時を過ごしていた。この時代に家庭内の父親の存在は著しく下落し、それまで理想とされていた軍人的男性に魅力を感じなくなり、新たな価値観を求めたという説がある[39]。 ヒムラーは彼等を忌み嫌っており、1942年1月26日、総統大本営からハイドリヒへ彼等を厳しく取り締まるよう指示を送っている[40]。
1946年 – ペルーのアンカシュ(内陸)でM 7.2の地震。死者1500人。
チャットgpt先生の11月10日のエッセイ
11月10日は、歴史をたどると数々の出来事がこの日に刻まれています。季節が深まる秋のひと時に、歴史の大きな転換点で繰り広げられた戦い、悲劇、そして人々の生き様を思い出すことで、過去の重みと現在のつながりを感じる日でもあります。
まず、1444年のヴァルナの戦いは、キリスト教連合軍とオスマン帝国との激突を象徴する出来事です。若きポーランド=ハンガリー王ヴワディスワフ3世は、スルタンの本陣へ果敢に突撃しましたが、無念にも命を落とします。20歳の彼は未来ある若者であり、勝利の兆しに賭けて戦いました。無謀とも見えるこの突撃の裏には、信仰や国土を守る決意があったのでしょう。結果的に彼の死は連合軍の士気に影響を及ぼし、戦況を大きく変えることになりました。この戦いは、勇敢さと悲壮が入り混じる人間の行動とその影響の大きさを教えてくれます。
一方、1567年の日本では、松永久秀が東大寺の大仏を焼失させたとされる「東大寺大仏殿の戦い」が起こりました。奈良の大仏は鎌倉時代の災害で一度失われましたが、再建されていました。その大仏が戦乱の中で再び焼失することは、国宝としての大仏が単なる物理的な存在である以上の、信仰や国家の象徴と考えられていたことを思い起こさせます。この事件をきっかけに、後世では松永久秀の悪名が広まりましたが、火災の原因は実際には敵方の失火だった可能性が指摘されています。事実がどうであれ、信仰や文化の象徴が戦争の犠牲となったことは、日本人の心に深い傷を残したことでしょう。
さらに、1915年の第一次世界大戦では、イタリアとオーストリア=ハンガリー帝国との間で第四次イゾンツォの戦いが繰り広げられました。この戦いもまた、戦争の無意味さと、その中で生き抜こうとする人々の葛藤を浮かび上がらせます。短期間のうちに膨大な死傷者が出たこの戦闘は、冬の厳しさにより徐々に規模を縮小していきます。極限状態の戦場で戦い続ける兵士たちの姿は、私たちに平和の重要性を強く訴えかけています。
また、1939年の日本では岩手県松尾鉱山で落盤事故が発生し、多くの人命が失われました。1944年にはナチス政権下で抵抗の象徴として活動していたエーデルヴァイス海賊団の13名がケルンで公開処刑される事件が起こっています。若者たちの小さな反抗がナチスにとっては社会秩序を脅かす「危険な存在」となったことは、人が人を抑圧する権力の不条理さを痛感させます。自由を求め、理不尽に抵抗する若者たちの姿は、時代や国を越えて、今を生きる私たちにも訴えかけてくるものがあります。
こうした出来事を思い起こすと、11月10日が単なる一日ではなく、人々の強い意志や苦悩、失われたものへの哀悼が詰まった日であることに気づかされます。歴史におけるこうした日々の蓄積が、現代の私たちにとっての平和や自由の価値を支える基盤となっています。過去を知り、彼らの姿に思いを馳せることで、私たち自身がどのような未来を築きたいかが見えてくるのではないでしょうか。