kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日10月5日   1943関釜連絡船・崑崙丸撃沈ほか、写真wikipedia唯一全景写真

10月5日

20251005日曜日旧暦8月14日先負(丁未ひのとひつじテイビ)月齢 13.2

乙巳きのとみ年乙酉きのととり月丁未ひのとひつじ日  年末まであと87日

吉方位 隠遁日 丁未ひのとひつじ日

https://ja.wikipedia.org/wiki/10%E6%9C%885%E6%97%A5

10月5日の出来事

1813年 – 米英戦争: テムズの戦いで米軍勝利。場所  オンタリオ州チャタム近く

結果        アメリカ軍の決定的勝利 イギリスと大陸軍バックのインディアン部族の代理戦争 損害 イギリスインディアン軍 1千3百人中 戦死傷降服500人 アメリカインディアン軍 3千8百人中 戦死傷45人。

1864年 – インドのコルカタがサイクロンで破壊される。死者6万人。

1943年 – 第二次世界大戦: 関釜連絡船・崑崙丸が米艦の雷撃を受けて沈没。衆議院議員2人を含む544人が死亡。乗員(旅客と乗組員)655名中、死者行方不明者583人にのぼった。

1948年 – トルクメニスタンでマグニチュード7.4の大地震。数万人が死亡。

1965年 – 釧路市立共栄小学校の6年生が、炊事遠足で訪れた同市新富士海岸で不発弾の爆発に巻き込まれ、4名が死亡、30数名が重軽傷を負う。

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1813年 – 米英戦争: テムズの戦いで米軍勝利。場所  オンタリオ州チャタム近く

結果        アメリカ軍の決定的勝利 イギリスと大陸軍バックのインディアン部族の代理戦争 損害 イギリスインディアン軍テカムセ指揮1千3百人中 戦死傷降服500人 アメリカインディアン軍 3千8百人中 戦死傷45人。

テムズ川の戦い(Battle of the Thames /ˈtɛmz/)は、モラヴィアンタウンの戦いとも呼ばれ、1812年の米英戦争でテカムセの南軍とその同盟国イギリスに勝利したアメリカ軍である。それは1813年10月5日に、チャタム近くのアッパーカナダで行われました。イギリス軍は戦闘の結果、オンタリオ州(五大湖周辺)南西部の支配権を失った。テカムセは殺され、彼の同盟は大部分が崩壊した。

・アメリカ兵は、お土産を手に入れるために、死んだインディアンの一部に頭皮を剥ぎ、皮を剥いだ。[17]

1864年 – インドのコルカタがサイクロンで破壊される。死者6万人。

1943年 – 第二次世界大戦: 関釜連絡船・崑崙丸が米艦の雷撃を受けて沈没。衆議院議員2人を含む544人が死亡。乗員(旅客と乗組員)655名中、死者行方不明者583人にのぼった。

崑崙丸(こんろんまる Konron maru)は鉄道省の関釜航路の鉄道連絡船。天山丸型の第2船で、最後に建造された関釜連絡船である。船名は、中国西部の崑崙山脈に因む。

太平洋戦争(大東亜戦争)で最初に犠牲となった鉄道連絡船であり、当時、鉄道連絡船の就航以来最初の大事故であった。

沈没

竣工から2週間後の4月12日に運航を開始した「崑崙丸」だったが、半年後の10月5日1時15頃、下関から釜山に向け航行中、沖ノ島の東北約10海里(北緯34度14分 東経130度09分[5])付近でアメリカ海軍の潜水艦「ワフー」の雷撃を受けた。「ワフー」が放った魚雷は左舷後方部手荷物室付近に命中し、「崑崙丸」は左舷に傾斜、約4分後[5]に棒立ちとなった後に船尾から沈没した[1]。

「崑崙丸」は陸軍の部隊を乗せて10月4日22時30分に出航する予定だったが、軍用列車が遅延して到着しないため、23時に出航した。そのため、乗客は479名のみで定員に対して少なかったが、深夜で就寝していた乗客が多く、雷撃で船内が停電したことも重なり、乗員(旅客と乗組員)655名中、死者行方不明者583人にのぼった。夜が明けてから、「天山丸」と、「徳寿丸」、「昌慶丸」、「壱岐丸」による生存者の捜索が行われたが、当時は低気圧の通過で風速10-20mの暴風が吹くなど荒天で、沈没から半日近く経過したこともあって捜索は捗らず、夕方までに4隻が収容できた生存者は乗客479名中28名と乗組員165名中21名、乗船していた警察官や警備隊員11名中3名のみだった[1]。

「崑崙丸」の沈没は、鉄道連絡船で最初の戦争の犠牲であった。利用者の多い関釜航路での大惨事に政府も隠蔽できないと判断し、10月7日18時30分、鉄道省は「崑崙丸」撃沈の事実を発表した。「崑崙丸」が撃沈されたことによって関釜航路の夜間航行は不可能になり、10月8日以降、関釜航路は駆逐艦の護衛を伴う昼間航行に限られ、旅客は軍人と公務員、それらに準じる緊急用務者のみ、貨物も手荷物と軍需品、新聞のみに制限された[1]。

この事件で海軍は激怒し、逃走ルートとして予想された津軽海峡と宗谷海峡の対潜警備が強化された。そして「ワフー」は「崑崙丸」撃沈から一週間を経ない10月11日に、宗谷海峡で発見され撃沈された。

1948年 – トルクメニスタンでマグニチュード7.4の大地震。数万人が死亡。

1965年 – 釧路市立共栄小学校の6年生が、炊事遠足で訪れた同市新富士海岸で不発弾の爆発に巻き込まれ、4名が死亡、30数名が重軽傷を負う。

チャットgpt先生の10月5日のエッセイ


10月5日の記憶

暦の上ではただの一日。しかし10月5日を辿っていくと、人類の歩みの中で何度も「命」と「歴史」が大きく揺れたことが見えてくる。

1813年、カナダ・オンタリオ州の地で「テムズの戦い」が起きた。米英戦争の只中、アメリカ軍はイギリスと、その同盟である先住民の軍勢を破り、決定的な勝利を手にした。だが、その勝利はただの軍事的成果にとどまらない。先住民の英雄テカムセが戦死し、彼の築いた同盟は瓦解した。白人国家間の戦争は、先住民族の運命をも呑み込んでいく。戦場でアメリカ兵が死者から「戦利品」を得るために頭皮を剥いだという記録は、勝敗の陰に残された人間の残酷さを静かに語っている。

半世紀後の1864年、この日は遠いインドのコルカタを襲った大サイクロンの日でもある。死者は6万人。自然の力の前に、人間の営みはいかに脆いかを思い知らされる。

さらに1943年、日本近海では「崑崙丸」が米潜水艦の雷撃を受けて沈没した。鉄道連絡船として造られて間もない船は、わずか4分で海に沈んだ。乗員乗客655名のうち583名が命を失い、関釜航路の象徴的存在だった船は一夜にして悲劇の記録となった。戦時下の輸送船はどれも「戦場」であり、民間人であってもその渦に巻き込まれていたことを思い知らされる。

1948年には中央アジア・トルクメニスタンを大地震が襲い、数万人が犠牲となった。そして1965年、北海道・釧路では小学生たちが遠足先の海岸で不発弾の爆発に巻き込まれる。平和な日常の中にも、戦争の残骸が牙をむき、幼い命を奪った。

こうして並べてみると、10月5日という日は、人の力で起こされた戦争の惨禍と、自然がもたらす大災害、そして戦後にまで残る戦争の影が折り重なっている日だと言えるだろう。

年の終わりまで残り87日。秋の深まりの中で、今日という日を静かに見つめると、ただ「過去を知る」ことの意味が浮かび上がってくる。歴史に記された死者たちは、誰もが家族を持ち、生活を持ち、未来を夢見ていた。だがその命は一瞬で断たれた。私たちが今日を生きていることは、偶然ではなく、無数の犠牲の上に積み重なった必然のように感じられる。

10月5日は、歴史の重さを思い返し、日常の尊さを噛みしめる日にしたい。