kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日10月30日 1598泗川の戦い、ほか写真wikipedia今も残る泗川古城城壁

10月30日

20251030木曜日旧暦9月10日赤口(壬申みずのえさるジンシン)月齢 8.6

乙巳きのとみ年戊辰つちのえたつ月壬申みずのえさる日 年末まであと62日

吉方位 隠遁日 壬申みずのえさる日

https://ja.wikipedia.org/wiki/10%E6%9C%8830%E6%97%A5

10月30日の出来事

1270年 – 第8回十字軍とチュニスの包囲が終了。

1598年(慶長3年10月1日) – 慶長の役・泗川の戦い:島津義弘、泗川城で明・朝鮮軍を大破する。年月日:慶長3年/万暦26年10月1日(1598年10月30日) 場所:朝鮮慶尚道泗川  結果:日本(島津軍)の勝利  損害 島津軍7000人中 3000人戦死 明朝鮮軍8万人中 40000人戦死。

1938年 – アメリカでオーソン・ウェルズが、HGウェルズの小説をもとに、火星人のニュージャージー侵攻を伝えるフェイクニュース『宇宙戦争』を放送。

1950年 – 山口県若沖炭鉱(広義の宇部炭鉱)で海水流入事故。逃げ遅れた35人死亡[4]。

1960年 – 北海道白糠町の明治鉱業庶路鉱業所でガス爆発事故が発生。作業員18人が死亡[6]。

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1270年 – 第8回十字軍とチュニスの包囲が終了。

第8回十字軍(だい8かいじゅうじぐん、1270年)は、フランス国王ルイ9世が主導した十字軍。イスラム教国であるチュニジアを攻撃したが、飲み水の劣悪さや暑さにより病気がはびこり、ルイ9世も死去したため撤退した。

第7回十字軍の失敗の後、ルイ9世は内政に励んできたが、健康の不調で先が長くないと感じ、死ぬ前に再び十字軍を起こすことを望んだ。この間にマムルーク朝スルタンとなったバイバルスは、シリアにおけるキリスト教都市の大部分を征服することに成功していた。

ルイ9世の弟で、ホーエンシュタウフェン朝を滅ぼしシチリア国王となっていた野心家のシャルル・ダンジュー(カルロ1世)は、自己の勢力拡大のため、かつてシチリア王国に貢納していたがその後自立したハフス朝チュニジアの征服を提案した。チュニジアのスルタンは、以前からカタルーニャやイタリアのキリスト教徒との付き合いがあり、キリスト教への改宗も考えているといわれており、ルイ9世はそれを支援してチュニジアを十字軍の供給基地にしようと考えた。

しかし、十字軍がチュニジアに上陸すると現地勢力の抵抗を受け、滞陣中に飲み水の劣悪さや暑さにより病気が蔓延しだし、8月にルイ9世が没した他、娘婿のナバラ国王テオバルド2世が帰途シチリアで没するなど、死亡者が相次いだ。シャルルと王太子フィリップ(フィリップ3世)は10月まで滞陣し、チュニジアとの貿易の回復、キリスト教徒の保護、賠償金等の条件でスルタンと和睦した。フィリップはフランスに戻り、シャルルは新たに到着したイングランド王太子エドワード(後の国王エドワード1世)と共にアッコンへ向かった(これを第9回十字軍と呼ぶことがある)。

1598年(慶長3年10月1日) – 慶長の役・泗川の戦い:島津義弘、泗川城で明・朝鮮軍を大破する。年月日:慶長3年/万暦26年10月1日(1598年10月30日) 場所:朝鮮慶尚道泗川  結果:日本(島津軍)の勝利  損害 島津軍7000人中 3000人戦死 明朝鮮軍8万人中 40000人戦死。

泗川の戦い(しせんのたたかい)は、文禄・慶長の役における合戦の一つ。日本の慶長3年/明の万暦26年9月(1598年10月)、朝鮮半島の泗川で島津義弘が率いる島津軍2千が明の武将董一元の率いる10万の明・朝鮮連合軍と戦って撃退した戦いである[9]。絶望的な戦力差があったにもかかわらず、劣勢な島津軍が勝利した伝説的な戦いとして知られているが、明軍の数および死者数については資料ごとにかなりの差がある。

篭城戦で立ち向かった島津軍は敵軍を集中射撃してしのぎ、午後まで熾烈な接戦が繰り広げられた。戦闘が続く中、明軍の火薬庫に引火し爆発、火薬の煙が視野を遮ったことで明・朝鮮連合軍は混乱に陥った。折から白と赤の2匹の狐が城中より明軍陣営の方へ走って行った。これを見た島津軍は、稲荷大明神の勝戦の奇瑞を示すものとして大いに士気が高まったという[13]。この機に乗じて、島津軍は城門を開き打って出た。義弘は伏兵を出動させて敵の隊列を寸断して混乱させ、義弘本隊も攻勢に転じた。義弘自ら4人斬り、忠恒も槍を受け負傷するも7人斬るなどして奮戦した。混乱した連合軍は疲労していたことも手伝って、壊滅的被害を受けた。島津軍は南江の右岸まで追撃を行い、混乱し壊走する連合軍は南江において無数の溺死者を出した。10月1日夜、島津軍は泗川の平原において勝鬨式を挙行し、戦闘は幕を閉じた。

その後、集結して撤退できた連合軍の兵力は1万ほどであったという。この戦いにより義弘は「鬼石蔓子」(おにしまづ・グイシーマンズ)と恐れられ、その武名は朝鮮だけでなく明国まで響き渡った[14]。

『朝鮮王朝実録』には、三路の戦い(第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天の戦い)において、明・朝鮮軍は全ての攻撃で敗退し、これにより、三路に分かれた明・朝鮮軍は溶けるように共に潰え、人心は恟懼(恐々)となり、逃避の準備をしたと記述されている[15]。

絵本太閤記での記述

『絵本太閤記』では、泗川古城を守備していたのは伊勢兵部少輔定正(貞昌)となっている。また、泗川新城は新塞城となっている。また「鬼・島津」ではなく、「怕ろし(おそろし)のしまんず」となっている。明軍の兵力は4万余。島津軍の兵力は、義弘の5千余、忠恒の1千余、伊勢兵部少輔定正(貞昌)の300余、併せて6千3百余である。討ち取った明人の首は3万余とある。

1938年 – アメリカでオーソン・ウェルズが、HGウェルズの小説をもとに、火星人のニュージャージー侵攻を伝えるフェイクニュース『宇宙戦争』を放送。

1938年7月からはCBSラジオにて、小説や演劇を斬新な形式で短編ドラマ化する番組『マーキュリー放送劇場(英語: The Mercury Theatre on the Air)』を毎週演ずることになったが、大衆の反応は今ひとつだった。しかし、同年10月30日にH.G.ウェルズのSF小説『宇宙戦争』の翻案『宇宙戦争』を放送する際、舞台を現代アメリカに変え、ヒンデンブルク号炎上を彷彿とさせるような臨時ニュースで始め、以後もウェルズ演じる目撃者による回想を元にしたドキュメンタリー形式のドラマにするなど、前例のない構成や演出と迫真の演技で放送を行った。

この放送について、かつてはラジオ放送の聴取者が火星人の襲来を事実と信じこんでパニックが起きたと言われ、長く「名優ウェルズ」の実力を裏づける伝説的なエピソードとして扱われてきた[4]。しかし近年の研究ではパニック現象は全く確認できず、番組を事実と信じた聴取者はほとんどいなかったことが分かっている[5][6][7][8]。

1950年 – 山口県若沖炭鉱(広義の宇部炭鉱)で海水流入事故。逃げ遅れた35人死亡[4]。

1960年 – 北海道白糠町の明治鉱業庶路鉱業所でガス爆発事故が発生。作業員18人が死亡[6]。

チャットgpt先生の10月30日のエッセイ

10月30日 ― 歴史の波間に浮かぶ日

秋も深まり、空気が澄んでくる10月30日。
暦を見れば、旧暦では9月10日。壬申(みずのえさる)の日にして赤口、静かなる陰の気が漂う一日。月齢は8.6、ちょうど半ばを過ぎた月が、夜空で淡く輝きを増している。年末まであと62日。時間の流れが、少しずつ終わりに向かっているのを感じる頃だ。


この日を歴史の頁でたどると、幾つもの「戦い」と「放送」と「事故」が並んでいる。
1270年、第8回十字軍の終焉。遠くフランスの王ルイ9世がチュニスの地で病に倒れた。
熱と渇きに蝕まれた砂漠の空の下、信仰と野心の混ざりあった遠征は静かに幕を閉じた。聖地を夢見た人々の足跡は、風に消え、砂に埋もれた。戦いの果てに残るのは、祈りと疲弊、そして「これで良かったのか」という問いばかりだ。

同じ日、時を経て1598年。日本の南、朝鮮の泗川で島津義弘が戦った。
わずか数千の兵で、数万の明・朝鮮軍を退けたと伝えられる。火薬庫の爆発、戦場を駆ける白と赤の狐――それは神話のような光景だったに違いない。
「鬼島津」と呼ばれた義弘の名は、敵国にまで響いた。だがその勝利の裏には、三千の命が失われている。勇ましさと無常は、いつも隣り合わせだ。

さらに1938年、アメリカの空に響いたのは銃声ではなく声。
オーソン・ウェルズの『宇宙戦争』がラジオから流れ、人々は火星人の襲来を信じた――と長く語られてきた。
今では誇張だったと分かっているが、それでもこの放送は、想像力がいかに現実を揺さぶるかを示した瞬間だった。
「恐怖」と「物語」の境界は、音の中で曖昧になる。
人間は、見えないものを信じる生き物だ。

そして1950年と1960年、日本では炭鉱で命を落とした人々がいた。
地の底で働く者たちの労苦と危険は、今日の私たちの光の暮らしの礎になっている。
彼らの名前は多くが記録に残らない。だが、彼らの生きた日もまた確かに「10月30日」だった。


こうして見ると、10月30日は「声」と「戦」と「祈り」が交錯する日である。
人は信じるもののために戦い、語り、そして時に過ちも犯す。
十字軍の兵も、島津の武士も、ラジオに耳を傾けた市民も、みな「何かを信じたい」と願っていた。
それが神であれ、祖国であれ、あるいは物語であれ。

今日の私たちが静かな秋空の下で日常を過ごせるのは、
その信念と愚かさを繰り返してきた先人たちの歴史の上に立っているからだろう。


夜、月を見上げる。
戦いの煙も、放送のざわめきも、今はもう届かない。
ただ、光だけが千年を超えて、静かに照らし続けている。
10月30日――それは、時代を超えて「信じる」という人間のかたちを映す日である。