今日という日10月24日 1648 三十年戦争ヴェストファーレン条約締結、ほか写真wikipedia条約締結図
10月24日
20261024土曜日旧暦9月14日仏滅(8番辛未かのとひつじシンビ)月齢 13.4
43番丙午ひのえうま年 35番戊戌つちのえいぬ月 8番辛未かのとひつじ日
吉方位 隠遁日 辛未かのとひつじ日 北西 大吉 年末まであと68日
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10月24日の出来事
1648年 – 三十年戦争の講和条約・ヴェストファーレン条約調印。三十年戦争 年月日:1618年–1648年 場所:ヨーロッパ(主に、現在のドイツ)結 果:新教徒勢力の勝利、ヴェストファーレン体制の成立 ハプスブルク家の縮減、神聖ローマ帝国とローマ教皇を世俗的および宗教的な首長とする中世的体制の崩壊[1]、封建体制の衰退[2] フランス王国、バルト帝国の興隆と主権国家体制の成立 損害 プロテスタント勢力 詳細不明 カトリック勢力 ドイツ中心に 800万人以上戦死(ドイツ国民の20%以上)。
1876年 – 神風連の乱。年月日:1876年10月24日 – 10月25日 場所:日本の旗 日本 熊本県 熊本市 結果:政府軍の勝利 損害 明治政府軍 戦死60人 負傷200人 反乱軍 戦死124人 逮捕50人。
1886年 – ノルマントン号事件。英仏乗組員26人は全員救助 日本人25人は全員溺死。
1917年 – 第一次世界大戦: カポレットの戦いが始まる。年月日:1917年10月24日-11月19日 場所:オーストリア=ハンガリー帝国のカポレット(現在スロベニアのコバリード)
結果:中央同盟軍の圧勝 損害 イタリア王国軍 65万人中死傷 31000人 捕虜270000人 オーストリアハンガリードイツ同盟軍 40万人中死傷20000人。
1929年 – 暗黒の木曜日。ニューヨーク株式市場が大暴落し、世界恐慌が始まる。
1942年 – 第二次世界大戦: ガダルカナル島の戦いで第二師団が総攻撃を開始。ガダルカナルの戦い 年月日:1942年8月7日 – 1943年2月7日(約7ヶ月)[2] 場所:ソロモン諸島ガダルカナル島 結果:連合軍の勝利 損害 日本軍 全兵力3万人中 20000人戦死 10000人撤退。米軍 全兵力6万人中 死傷15000人(死者7000人)。
1944年 – 第二次世界大戦・レイテ沖海戦: 日本海軍の空母瑞鶴と戦艦武蔵が撃沈される。
武蔵の沈没に伴う戦死者は全乗組員2399名中、猪口敏平艦長以下1023名、生存者は1376名、長門派遣下士官兵7名[198]。*約1000名の武蔵の生存者は日本に戻れずクラークフィールド航空基地作業隊に編入された。彼らはそのままフィリピン守備隊に残され、陸戦隊としてマニラ市街戦に参加させられたりしたが、その多くは戦死した[232]。その他の戦線に戦局悪化の口封じに駆り出された兵士も少なくなかった。生還者は56名だったとされる[233]。
瑞鶴の戦死は25日時点で約800人。瑞鶴は連合艦隊の当初6隻の最後の正規空母であった。
1954年 – 三重県二見町小松池ノ浦で三重交通の観光バスが入り江に転落。13人が死亡、50人が重軽傷[1]。
1960年 – ニェジェーリンの大惨事。ソ連のバイコヌール宇宙基地で発射台上の大陸間弾道ミサイルR-16が爆発。約120人が死亡。
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1648年 – 三十年戦争の講和条約・ヴェストファーレン条約調印。三十年戦争 年月日:1618年–1648年 場所:ヨーロッパ(主に、現在のドイツ)結 果:新教徒勢力の勝利、ヴェストファーレン体制の成立 ハプスブルク家の縮減、神聖ローマ帝国とローマ教皇を世俗的および宗教的な首長とする中世的体制の崩壊[1]、封建体制の衰退[2] フランス王国、バルト帝国の興隆と主権国家体制の成立 損害 プロテスタント勢力 詳細不明 カトリック勢力 ドイツ中心に 800万人以上戦死(ドイツ国民の20%以上)。
戦争の結果、オランダとスイスが独立し、ドイツ諸侯も独立性が強化され、神聖ローマ皇帝は名目的存在となり、ハプスブルク家は大打撃を受けた[8]。アルザス地方を獲得したフランスは大陸最強国となり、北ドイツの諸要地を獲得したスウェーデンも強国となった[1]。
この戦争はフランスブルボン家およびネーデルラント連邦共和国と、スペイン・オーストリア両ハプスブルク家のヨーロッパにおける覇権をかけた戦いであった[9]。また政治的優位性をめぐるフランスとハプスブルク家の対立だけでなく、ハプスブルク家がドイツで帝国の権威を再構築しようとしたことの延長線上にあったとも解説される[10]。
「最後で最大の宗教戦争」ともいわれ[8]、ドイツの人口の20 %を含む800万人以上の死者を出し、人類史上最も破壊的な紛争の一つとなった[6]。
ヴェストファーレン条約
ラテン語・英語読みでウェストファリア条約とも呼ばれる。近代における国際法発展の端緒となり、近代国際法の元祖ともいうべき条約である[1][2]。
この条約によって、ヨーロッパにおいて30年間続いたカトリックとプロテスタントによる宗教戦争は終止符が打たれ、条約締結国は相互の領土を尊重し内政への干渉を控えることを約し、新たなヨーロッパの秩序が形成されるに至った[1][2]。この秩序を「ヴェストファーレン体制」ともいう。
評価
ヴェストファーレン条約は、元より集権制が弱く統一された「帝国」としての立ち位置が不安定だった神聖ローマ帝国が、明確に統一性を失った出来事だった。同条約は「神聖ローマ帝国の死亡診断書」と呼ばれ、「神聖でなければローマでもなく、帝国ですらない」(ni saint, ni romain, ni empire)というヴォルテールが評した大空位時代と並んで、ドイツ地方の非中央集権制を象徴する物として知られている[12]。
従ってドイツ史の専門家達が「なぜドイツはスペイン・フランスに比べ、地域統一が大きく遅れたのか」という問いを立てたとき、神聖ローマ帝国が集権化に失敗したことが第一に提示される[11]。そして、ヴェストファーレン条約と大空位時代はその象徴的なできごととしてみなされることが多い。
事実、皇帝権が決定的に失墜した事で帝国の集権化という発想は棄却され、バイエルン王国を初め各地方の領邦国家が独自に集権化を進めていった。同じドイツ人地域を含むオーストリア帝国を切り捨てる形で後世にドイツ統一を達成したドイツ帝国も、領邦国家の自治権を完全に廃することはできなかった。加えてナチス時代と東西分断を経た今日のドイツも、政体として連邦制を採用している。これはドイツの地方意識の強さを反映していると指摘される。
この条約によって、ナポレオン戦争(1803年 – 1815年)までのヨーロッパ国際秩序(「ヴェストファーレン体制」)が形成された[注釈 1]。
1876年 – 神風連の乱。年月日:1876年10月24日 – 10月25日 場所:日本の旗 日本 熊本県 熊本市 結果:政府軍の勝利 損害 明治政府軍 戦死60人 負傷200人 反乱軍 戦死124人 逮捕50人。
挙兵
1876年10月24日深夜、敬神党が各隊に分かれて、熊本鎮台司令官種田政明宅、熊本県令安岡良亮宅を襲撃し、種田・安岡ほか県庁役人4名を殺害した。その後、全員で政府軍の熊本鎮台(熊本城内)を襲撃し、城内にいた兵士らを次々と殺害し、砲兵営を制圧した。
しかし翌朝になると、政府軍側では児玉源太郎ら将校が駆けつけ、その指揮下で態勢を立て直し、本格的な反撃を開始。加屋・斎藤らは銃撃を受け死亡し、首謀者の太田黒も銃撃を受けて重傷を負い、付近の民家に避難したのち自刃した。指導者を失ったことで、他の者も退却し、多くが自刃した。
敬神党側の死者・自刃者は、計124名。残りの約50名は捕縛され、一部は斬首された。政府軍側の死者は約60名、負傷者約200名。
1886年 – ノルマントン号事件。英仏乗組員26人は全員救助 日本人25人は全員溺死。
沈没事故
1886年(明治19年)10月24日午後8時ごろ、横浜港から日本人乗客25名と雑貨を載せて神戸港に向かったイギリス貨物船「ノルマントン」(240トン)が、航行途中、暴風雨によって三重県四日市より和歌山県樫野崎までの沖合で難破、座礁沈没した[1]。その際、ジョン・ウイリアム・ドレーク(John William Drake)船長以下イギリス人やドイツ人からなる乗組員26名は全員救命ボートで脱出し、漂流していたところを沿岸漁村の人びとに救助されて手厚く保護された[1][注釈 1]。
ところが、日本人乗客25名は一人も避難できた者がおらず、船中に取り残されてことごとく溺死した。 [注釈 2]。
1917年 – 第一次世界大戦: カポレットの戦いが始まる。年月日:1917年10月24日-11月19日 場所:オーストリア=ハンガリー帝国のカポレット(現在スロベニアのコバリード)
結果:中央同盟軍の圧勝 損害 イタリア王国軍 65万人中死傷 31000人 捕虜270000人 オーストリアハンガリードイツ同盟軍 40万人中死傷20000人。
カポレットの戦い(カポレットのたたかい、Battle of Caporetto)は、第一次世界大戦中のイタリア戦線で、1917年10月24日から11月9日にかけて、カポレット(現スロベニアのコバリード)で戦われた戦い。先の第十一次イゾンツォの戦いに準えて第十二次イゾンツォの戦いと呼ばれる場合もある。十一度に亘るイゾンツォ戦線の攻勢によって弱体化したオーストリア=ハンガリー帝国軍による再三の援軍要請に対して、長らくこれを戦力不足から拒否してきたドイツ帝国軍が遂に援軍派遣を承認した。イタリアでは”カポレットの惨敗” (La disfatta di Caporetto)と呼ばれている。
1929年 – 暗黒の木曜日。ニューヨーク株式市場が大暴落し、世界恐慌が始まる。
1942年 – 第二次世界大戦: ガダルカナル島の戦いで第二師団が総攻撃を開始。ガダルカナルの戦い 年月日:1942年8月7日 – 1943年2月7日(約7ヶ月)[2] 場所:ソロモン諸島ガダルカナル島 結果:連合軍の勝利 損害 日本軍 全兵力3万人中 20000人戦死 10000人撤退。米軍 全兵力6万人中 死傷15000人(死者7000人)。
ガダルカナル島の戦い(ガダルカナルとうのたたかい、英: Battle of Guadalcanal)は、第二次世界大戦において1942年8月以降日本軍と連合軍が西太平洋ソロモン諸島のガダルカナル島を巡って繰り広げた戦いである。ミッドウェー海戦と共に太平洋戦争における攻守の転換点となった。日本側は激しい消耗戦により、戦死者だけでなく兵員に多数の餓死者を発生させたうえ、軍艦、航空機、燃料、武器等多くを失った。
1944年 – 第二次世界大戦・レイテ沖海戦: 日本海軍の空母瑞鶴と戦艦武蔵が撃沈される。
武蔵の沈没に伴う戦死者は全乗組員2399名中、猪口敏平艦長以下1023名、生存者は1376名、長門派遣下士官兵7名[198]。*約1000名の武蔵の生存者は日本に戻れずクラークフィールド航空基地作業隊に編入された。彼らはそのままフィリピン守備隊に残され、陸戦隊としてマニラ市街戦に参加させられたりしたが、その多くは戦死した[232]。その他の戦線に戦局悪化の口封じに駆り出された兵士も少なくなかった。生還者は56名だったとされる[233]。
瑞鶴の戦死は25日時点で約800人。瑞鶴は連合艦隊の当初6隻の最後の正規空母であった。
1954年 – 三重県二見町小松池ノ浦で三重交通の観光バスが入り江に転落。13人が死亡、50人が重軽傷[1]。
1960年 – ニェジェーリンの大惨事。ソ連のバイコヌール宇宙基地で発射台上の大陸間弾道ミサイルR-16が爆発。約120人が死亡。
チャットgpt先生の10月24日のエッセイ
10月24日――秩序が崩れるとき、次の秩序が生まれる
10月24日という日付を歴史の中に置くと、ひとつの共通した構造が浮かび上がる。
それは、秩序は永遠には続かず、崩壊した秩序の後には、必ず別の秩序が組み立てられるということだ。
1648年、三十年戦争を終結させたヴェストファーレン条約が調印された。宗教をめぐる対立、王朝間の覇権争い、神聖ローマ帝国内部の権力闘争が絡み合い、ヨーロッパは長期間にわたって消耗した。戦争を終わらせたのは、信念の一致ではなかった。各勢力が、戦争を続けるコストと、妥協によって得られる利益を比較した結果である。
ここに政治の現実がある。
対立する勢力が同じ価値観を共有する必要はない。互いに相手を信用する必要もない。必要なのは、武力による現状変更よりも、合意されたルールの中で利益を確保するほうが合理的になる状況だ。
ヴェストファーレン条約は、そうした状況を制度として固定する試みだった。主権や領土、外交上の取り決めが、戦争を終わらせるための実務的な基盤になったのである。
ただし、ひとつの秩序が成立することと、その秩序が公平であることは別問題だ。新しい仕組みは、戦争を終わらせると同時に、戦争の結果として生まれた勢力関係も固定する。平和とは、すべての対立が消えた状態というより、対立を管理する方式が確立した状態に近い。
1876年の神風連の乱にも、異なる秩序が衝突する構図が見える。
明治維新によって、旧来の身分秩序や武士の特権は急速に解体されていた。新政府にとって、それは中央集権国家をつくるための再編だった。一方、旧制度の中で地位や役割を持っていた人々にとっては、自分たちが依拠してきた社会の基盤そのものが失われる過程でもあった。
旧秩序から見れば、改革は喪失である。新秩序から見れば、改革は国家建設である。
同じ変化でも、どこに立つかによって意味が変わる。
重要なのは、旧制度が失われるとき、それに代わる制度が新たな利益や役割を十分に配分できるとは限らないことだ。制度の変更は、法律や組織図を書き換えるだけでは完結しない。旧制度に組み込まれていた人間の生活、収入、地位、誇りまで変えてしまう。
だからこそ、制度改革には必ず摩擦が生じる。その摩擦が政治的な交渉に吸収されるのか、武力衝突に転化するのかによって、社会が支払うコストは大きく変わる。
1886年のノルマントン号事件は、さらに別の構造を示している。
イギリス船籍の貨物船が沈没し、イギリス人などの乗組員は救助された一方、日本人乗客25人は全員死亡した。この事件は、当時の日本社会において、外国人に対する裁判権や領事裁判権、不平等条約の問題を強く意識させる契機となった。
ここで問題になるのは、個々人の能力や意思だけでは説明できない、制度上の立場の違いである。
同じ船に乗っていても、同じ法的条件の下に置かれていたわけではない。国家間の条約、裁判権の所在、外交交渉における力関係が、個人の置かれる条件を左右した。
近代国家にとって、法制度は国内を統治するためだけのものではない。国際社会における交渉力を反映し、またその交渉力を維持するための基盤でもある。
制度の文面が同じでも、制度を動かす力が異なれば、実際の結果は同じにならない。
1917年のカポレットの戦いでは、イタリア軍が大敗し、大量の捕虜と損害を出した。戦線の一部が崩れたとき、その影響は前線だけにとどまらない。部隊間の連絡、補給、指揮系統、後方への退却経路が連鎖的に影響を受け、局地的な後退が全体の崩壊へと拡大する。
組織の強さは、構成員の数を単純に足し合わせたものではない。
兵力が多くても、情報伝達が遅れ、指揮命令が機能せず、補給が途絶えれば、その戦力は十分に発揮されない。逆に、規模が小さくても、情報、機動力、指揮系統を組み合わせれば、相手の弱点に集中して大きな効果を生み出せる。
この構造は軍隊に限らない。
企業でも、行政でも、金融市場でも、組織の一部分で起きた問題が、接続部分を通じて全体に波及する。普段は効率化のために組み込まれている相互依存が、障害発生時には連鎖的な損失の経路になる。
1929年10月24日、ニューヨーク株式市場は大きな混乱に見舞われた。暗黒の木曜日である。
株価の下落そのものよりも重要なのは、価格の変化が人々の判断を変え、その判断がさらに価格を動かすという循環だ。
価格が上がると、上昇が続くという期待が投資を呼び込む。投資の増加が価格を押し上げ、上昇そのものが期待の根拠になる。だが、何らかのきっかけで期待が崩れると、今度は売却が売却を呼ぶ。
このとき市場で起きているのは、単なる数字の変化ではない。
担保価値が下がり、借入金の返済圧力が高まり、資金調達が難しくなり、資産を売らざるを得ない主体が増える。個々の投資家が合理的に損失を抑えようとしても、その行動が市場全体の価格下落を加速させることがある。
個人にとって合理的な行動が、全体にとって不安定な結果を生む。
これが金融システムの難しさだ。
そして市場の崩壊は、資産を保有していた人だけでなく、融資を行う銀行、設備投資を計画する企業、雇用を維持する経営者、収入を得る労働者へと波及する。金融市場と実体経済は、別々に存在しているわけではない。
1942年のガダルカナル島、1944年のレイテ沖海戦で失われた兵力や艦艇も、単純に数を補充すれば元に戻るものではなかった。
艦艇には建造時間が必要であり、熟練した乗員には訓練時間が必要になる。航空機を増やしても、搭乗員、整備員、燃料、部品、飛行場、輸送船がそろわなければ、継続的な作戦能力にはつながらない。
戦力とは、個々の資産の合計ではなく、それらが互いに機能することで生まれる能力である。
戦争が長引くほど、この差は大きくなる。目の前の戦闘に勝つことと、戦争を継続できることは同じではない。局地的な勝利を得るために、将来の補充能力や輸送能力まで消耗させれば、戦術上の成果が戦略上の損失に変わることもある。
国家の実力を測る際には、保有する資産だけでなく、それを維持し、補充し、必要な場所へ運び、長期間にわたって運用する能力を見る必要がある。
この視点に立つと、戦争の帰趨は前線の勇敢さだけでは説明できない。工業生産、輸送網、資源調達、訓練制度、情報収集、同盟関係といった、目立たない仕組みが最終的な結果を左右する。
1960年、ソ連のバイコヌール宇宙基地で発生したニェジェーリンの大惨事では、発射準備中のR-16ミサイルが爆発し、多数の死者を出した。
巨大な技術システムでは、性能の高さと安全性が必ずしも同じ方向を向かない。開発日程、組織の指揮命令、作業手順、技術的な不確実性が重なったとき、個々の工程が成立していても、全体として重大な事故が起こり得る。
特に、組織が期限や目標の達成を強く求める場合、現場で把握されたリスクが意思決定に反映されにくくなることがある。問題は単に誰かが誤ったということではない。誤りを発見し、作業を止め、計画を修正するための仕組みが十分に機能していたかどうかである。
高度なシステムほど、失敗を個人の能力不足に還元するだけでは原因を捉えられない。
設計、手順、情報共有、権限、納期、資源配分。それらの組み合わせが、事故の発生確率と被害の大きさを決める。
こうして10月24日の歴史を並べてみると、宗教戦争、国内反乱、海難事故、金融危機、戦場での敗北、技術事故という、一見ばらばらの出来事がひとつの構造でつながってくる。
それは、人間や組織の運命を左右するのは、個々の意思だけではなく、意思が作用する仕組みそのものであるということだ。
強い信念があっても、資源が尽きれば行動は制限される。大きな資産を持っていても、それを動かす仕組みが壊れれば能力は失われる。優れた技術があっても、情報と権限の流れが機能しなければ事故を防げない。そして、長く続いてきた秩序であっても、それを支える力関係が変われば、維持するためのコストは上昇する。
現実を読むというのは、出来事の表面に現れた善悪や勝敗を数えることではない。
誰が資源を持っているのか。誰が意思決定を行うのか。誰が費用を負担し、誰が利益を得るのか。情報はどこで止まり、損失はどこへ伝わるのか。制度が変わったとき、誰の立場が強まり、誰の立場が弱まるのか。
こうした問いを重ねることで、出来事は単なる過去の記録から、現在を分析するための材料に変わる。
歴史は同じ形では繰り返さない。しかし、人間がつくる組織には、似た構造が何度も現れる。
拡大を続ける仕組みは、拡大できるという前提に依存する。秩序を維持する仕組みは、維持するための費用を必要とする。効率化されたシステムは、効率化の代償として特定の接続部分に依存する。そして、成功を支えていた条件が失われたとき、それまでの強みが弱点へと反転する。
だから、見るべきなのは現在の強さだけではない。
その強さは何によって成立しているのか。どの条件が変われば維持できなくなるのか。崩れ始めたとき、損失はどこまで広がるのか。そして、崩壊後に誰が新しい仕組みを設計する力を持つのか。
1648年のヨーロッパでは、戦争の終結とともに国際秩序が組み直された。1929年には金融市場の崩壊が、経済と社会の仕組みを揺さぶった。戦場でも、技術開発でも、既存の仕組みが機能しなくなったとき、その影響は当初の想定を超えて広がる。
秩序は、存在しているだけでは維持されない。資源、権限、情報、利害の調整によって、日々支えられている。
そして、その条件が変わるとき、表面上は突然に見える変化も、内部では長い時間をかけて準備されている。
10月24日が示すのは、歴史の偶然ではなく、仕組みの限界が表面化する瞬間である。
出来事が起きてから原因を探すことはできる。しかし、現実を読む力とは、仕組みがまだ動いている段階で、その成立条件と限界を見抜くことにある。
崩壊は、ある日突然始まるように見える。
だが、崩壊を可能にした条件は、その日よりもずっと前から存在している。
「崩壊」以外の軸で組み直す各事例の比較表を本文に組み込む

