10月23日
20251023木曜日旧暦9月3日大安(乙丑きのとうしイッチュウ)月齢 1.6
乙巳きのとみ年戊辰つちのえたつ月乙丑きのとうし日 年末まであと69日
吉方位 隠遁日 乙丑きのとうし日
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10月23日の出来事
紀元前42年 – ローマ内戦: フィリッピの戦い。年月日:紀元前42年10月3日、10月23日 場所:フィリッピ(ピリッポイ)結果:三頭政治側の勝利 損害 共和主義者リベラトゥス軍 10万人中 戦死9000人 第2回三頭政治軍 10万人強中 戦死18000人。
1086年 – レコンキスタ: サグラハスの戦い。
戦争:レコンキスタ
年月日:1086年10月23日
場所:スペイン、エストレマドゥーラ州のバダホス北東のサラカ(サグラハス)
結果:イスラム連合軍の圧勝
損害:カスティリヤ軍 6万中 59000以上 イスラム軍3万中 僅少
1642年 – イングランド内戦: エッジヒルの戦い。戦争:第一次イングランド内戦 議会軍と国王軍の戦い 年月日:1642年10月23日 場所:ウォリックシャー州エッジヒル
結果:引き分け 損害 死者2000人+死者2000人。
1864年 – 南北戦争: ウェストポートの戦い。時 1864年10月23日 場所 Present-day ミズーリ州カンザスシティ 結果 北軍の勝利 victory 損害 北軍2万5千人中 死者 1500人 南軍 8千人中 死者 1500人。
1870年 – 普仏戦争: メス攻囲戦が終結。年月日:1870年9月3日 – 10月23日
場所:フランス北東部モゼル県メス 結果:プロイセン王国の圧勝 損害 プロイセン軍 13万4千人中 損害僅少 フランス軍 19万人中 186000人捕虜。
1942年 – 第二次世界大戦・北アフリカ戦線: 第二次エル・アラメイン会戦が始まる。年月日:1942年6月 – 8月2日、同年11月11日 [1]
場所:英領エジプト、エル・アラメイン 結果:連合軍の勝利[1] 損害 連合軍 1次2次で20万人中 2次で 13600人戦死傷 枢軸国 13万5千人中 ナチス 30000人戦死傷 イタリア軍 45000人 戦死傷。
1983年 – レバノン内戦: ベイルートで駐留米海兵隊司令部と仏軍本部が爆破され、309人が死亡(ベイルート・アメリカ海兵隊兵舎爆破事件)。
2011年 – トルコ東部地震: トルコ東部で、M7.2の地震が発生[2]。死者1000人。
2017年 – マラウィの戦い: フィリピン政府が戦闘終結宣言[7]。時 2017年5月23日 – 10月23日(5ヶ月間) 場所 フィリピン南ラナオ州マラウィ市 結果
フィリピン政府の圧勝[1] 過激派による地方のISIL領土(ウィラーヤ)の設立失敗
戦闘を受けて2017年5月にミンダナオ島に出された戒厳令は2019年末に解除[2]
アブ・サヤフのリーダーで東南アジアにおけるISILのアミールのイスニロン・ハピロンが戦死 7人のマウテ兄弟全員がフィリピン陸軍に殺害された[3] 領土の変化 2017年10月23日にフィリピン軍がマラウィを奪還 死者 双方で1000人以上。
1981年 – 北炭夕張新炭鉱ガス突出事故で、59名の安否不明者を取り残したまま坑内への注水作業を開始する。93人死亡。
1983年 – レバノン内戦: ベイルートで駐留米海兵隊司令部と仏軍本部が爆破され、309人が死亡(ベイルート・アメリカ海兵隊兵舎爆破事件)。
2011年 – トルコ東部地震: トルコ東部で、M7.2の地震が発生[3]。604人死亡。
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紀元前42年 – ローマ内戦: フィリッピの戦い。年月日:紀元前42年10月3日、10月23日 場所:フィリッピ(ピリッポイ)結果:三頭政治側の勝利 損害 共和主義者リベラトゥス軍 10万人中 戦死9000人 第2回三頭政治軍 10万人強中 戦死18000人。
三頭政治側の最初にして最大の目標はカエサル暗殺事件の首謀者であるマルクス・ブルトゥスとカッシウスを討ってカエサルの復讐を果たし、更にはローマ世界全体の支配権を得ることであった。
そして、その通りとなったのである。
1086年 – レコンキスタ: サグラハスの戦い。
戦争:レコンキスタ
年月日:1086年10月23日
場所:スペイン、エストレマドゥーラ州のバダホス北東のサラカ(サグラハス)
結果:イスラム連合軍の圧勝
損害:カスティリヤ軍 6万中 59000以上 イスラム軍3万中 不明
サグラハス(サラカ)の戦い(スペイン語:Batalla de Sagrajas/Zalaca、アラビア語: معركة الزلاقة ma‘rika al-Zallāqa)は、1086年10月23日に、現在のスペイン・エストレマドゥーラ州のバダホス北東のサラカ(サグラハス)において、ムラービト朝のユースフ・イブン・ターシュフィーンとカスティーリャ王アルフォンソ6世の間で行なわれた戦い。
1642年 – イングランド内戦: エッジヒルの戦い。戦争:第一次イングランド内戦 議会軍と国王軍の戦い 年月日:1642年10月23日 場所:ウォリックシャー州エッジヒル
結果:引き分け 損害 死者2000人+死者2000人。
エッジヒルの戦い(Battle of Edge Hill)は、1642年10月23日に起こった清教徒革命のイングランド内戦(第一次イングランド内戦)における最初の戦闘である。戦死者は両軍あわせて4000人といわれる。
1864年 – 南北戦争: ウェストポートの戦い。時 1864年10月23日 場所 Present-day ミズーリ州カンザスシティ 結果 北軍の勝利 victory 損害 北軍2万5千人中 死者 1500人 南軍 8千人中 死者 1500人。
ウェストポートの戦い(ウェストポートのたたかい、英:Battle of Westport)は、時としてミズーリ州のゲティスバーグとも呼ばれ、南北戦争中の1864年10月23日に、現在のミズーリ州カンザスシティで行われた戦闘である。サミュエル・R・カーティス少将指揮する北軍が、スターリング・プライス少将指揮する勢力で劣る南軍に対して決定的な勝利を挙げた。この戦闘はプライスのミズーリ州遠征の転回点となり、プライス軍はアーカンソー州を抜けて撤退することになった。
1870年 – 普仏戦争: メス攻囲戦が終結。年月日:1870年9月3日 – 10月23日
場所:フランス北東部モゼル県メス 結果:プロイセン王国の圧勝 損害 プロイセン軍 13万4千人中 損害僅少 フランス軍 19万人中 186000人捕虜。
概要
グラヴェレットの戦いに敗北した後、バゼーヌ元帥率いるフランス第三軍団はさらなる攻撃を見越して要塞があるメスへの退却を余儀なくされた。プロイセン第1軍および第2軍の合わせて15万人がメス要塞を包囲したため、バゼーヌ元帥はメスに籠城した。兵力の不足が懸念されたため、マクマオン公爵のアルザス軍が救援として送られた。マクオマンはランスの北部へ移動し、そこから南へ転進してプロイセン軍の左側面から攻撃する計画を立て、8月21日に実行に移した。9月1日にプロイセン軍主力部隊によって全軍が捕虜となってしまった。フランス軍は救援を得ることができず、しかも戦意をほとんど喪失してしまう。そのため、しばらくは持ちこたえたもののほとんど戦うことなく10月23日には降伏勧告を受け入れた。メス攻囲戦とセダンの戦いでの損害を合わせると30万人となり、フランス帝国の戦争の勝利はほとんど不可能となものとなった[1]。
1942年 – 第二次世界大戦・北アフリカ戦線: 第二次エル・アラメイン会戦が始まる。年月日:1942年6月 – 8月2日、同年11月11日 [1]
場所:英領エジプト、エル・アラメイン 結果:連合軍の勝利[1] 損害 連合軍 1次2次で20万人中 2次で 13600人戦死傷 枢軸国 13万5千人中 ナチス 30000人戦死傷 イタリア軍 45000人 戦死傷。
モントゴメリーは攻撃開始前に全軍に対して、ロンメルが病気療養中で戦場にいないことや、兵力が減少し燃料や食料の備蓄が少なくなっていることを説明した。そして以下のような訓示を行い、将兵の戦意を煽った[119]。
諸君はドイツ軍を殺すために訓練を受けたのだ。
だから、敵の戦車を撃ち、ドイツ兵を撃つのだ。
— バーナード・モントゴメリー
10月23日の夜間に砲撃を開始したイギリス軍QF 25ポンド砲
10月23日午後8時40分、満月の下でイギリス軍が北部戦線のイタリア軍陣地に向けて集中砲撃を開始した。イギリス軍の砲撃はドイツ第164軽機械化師団とイタリア第102自動車化師団「トレント」(英語版)が守る北部戦区約10kmの範囲に集中した。イギリス軍の火砲数は約1,000門であり、10mごとに1門の火砲が5時間に渡って休みのない猛射を加えた。ドイツ軍とイタリア軍の陣地にはイギリス軍の砲弾が1分毎に900発着弾し、コンクリート製のトーチカは破壊され、塹壕も陥没した。ロンメルが精魂込めて築き上げ、絶対の自信を持っていた「悪魔の庭」も例外ではなく、鉄条網は砂や小石と混じって間欠泉の様に吹き上がり、地雷や航空爆弾も空中に舞い上がるか、激しく誘爆した[120]。このような地雷処理はロンメルには想像もできなかったもので、ドイツ兵とイタリア兵はイギリス軍の砲弾で身体に何の痕跡も残さず死ぬか、誘爆する地雷や航空爆弾の爆発で、土砂に埋もれてしまった[121]。
砲撃は事前の入念な観測により正確にドイツ軍、イタリア軍陣地に着弾した。また、空からはイギリス空軍の爆撃機や戦闘爆撃機がひっきりなしに飛来し、砲撃と連携して銃爆撃を浴びせた。砲撃開始早々に通信網が断絶されてしまったので、第一線で何が起こっているのかまったくわからなかった。激しい砲撃によりイタリア第102自動車化師団「トレント」隷下の歩兵連隊の一部は陣地を放棄して退却を開始し、ドイツ第164軽機械化師団の2個大隊は砲撃により壊滅状態となった[122]。砲撃が開始されたとき、ドイツ第164軽機械化師団長カール・ハンス・ルンガースハウゼン(ドイツ語版)少将は、部下将校たちと前線司令部の待避壕のなかで酒盛りをしていた。そんなときに次々と砲弾が着弾し、炭酸水を作るソーダ サイフォン(英語版)が床に落ちて砕け、将校は慌ててワインの瓶が転げ落ちないように手で押さえた。しかし、すぐに酒の心配をしている場合ではないことがわかり、ルンガースハウゼンは夜空に輝く閃光を呆然と眺めながら「攻撃だ・・・」と信じられないような声で呟いた[120]。
1981年 – 北炭夕張新炭鉱ガス突出事故で、59名の安否不明者を取り残したまま坑内への注水作業を開始する。93人死亡。
1983年 – レバノン内戦: ベイルートで駐留米海兵隊司令部と仏軍本部が爆破され、309人が死亡(ベイルート・アメリカ海兵隊兵舎爆破事件)。
ベイルート・アメリカ海兵隊兵舎爆破事件は、レバノン内戦中の1983年にレバノンの首都のベイルートにあるアメリカ海兵隊の兵舎が車爆弾を使用した自爆テロで狙われた事件である。
アメリカ海軍・アメリカ陸軍の兵士も含め241人が死亡、60人が重軽傷を負った。1日の死者としてはアメリカ海兵隊の歴史上、太平洋戦争の硫黄島の戦いに次ぐ犠牲者数となった。
この事件の2分後、同じく国際平和維持部隊を構成していたベイルートにあるフランス陸軍の空挺部隊の兵舎も同じように自爆テロで攻撃され、58人のフランス軍兵士が死亡、15人が重軽傷を負った。こちらもアルジェリア戦争以来の死者数だった。
2011年 – トルコ東部地震: トルコ東部で、M7.2の地震が発生[2]。死者1000人。
2017年 – マラウィの戦い: フィリピン政府が戦闘終結宣言[7]。時 2017年5月23日 – 10月23日(5ヶ月間) 場所 フィリピン南ラナオ州マラウィ市 結果
フィリピン政府の圧勝[1] 過激派による地方のISIL領土(ウィラーヤ)の設立失敗
戦闘を受けて2017年5月にミンダナオ島に出された戒厳令は2019年末に解除[2]
アブ・サヤフのリーダーで東南アジアにおけるISILのアミールのイスニロン・ハピロンが戦死 7人のマウテ兄弟全員がフィリピン陸軍に殺害された[3] 領土の変化 2017年10月23日にフィリピン軍がマラウィを奪還 死者 双方で1000人以上。
概要
フィリピン軍とサラフィー・ジハード主義グループのマウテとアブ・サヤフなどの過激派組織との戦闘は2017年5月23日から始まり、10月23日にフィリピン政府が終結宣言を行っている。
フィリピン政府は、武力衝突はISILの関連組織アブ・サヤフのリーダーのイスニロン・ハピロンが恐らくマウテの過激派と会うためにマラウィ市内に滞在しているとの報告を受け、ハピロンを確保するために市内で攻勢を開始したときに起こったと主張している[23][24]。軍の広報担当者によれば、ハピロンの軍勢が軍と警察の合同チームに対し発砲を始め、ISILに忠誠を誓い2016年のダバオ市爆破事件の実行犯として考えられている武装組織「マウテ・グループ」からの増援を求めた時に激しい銃撃戦が起きたという[25]。
マウテの過激派はキャンプ・ラナオを攻撃し、マラウイ市庁舎、ミンダナオ州立大学、病院及び市刑務所など都市の一部の建造物を占拠した[25]。彼らはメインストリートを占領し、聖マリア教会、ニノイ・アキノ学校及び、フィリピンキリスト合同教会(UCCP)が運営するダンサラン・カレッジに放火した[23][26]。マウテはまたマラウィ大聖堂を攻撃し、神父と一部の教区民を人質に取った[27]。
2017年5月26日、フィリピン軍はテロリストの一部は外国人であり、フィリピンに長期間滞在してマラウィのマウテ・グループを支援していたと述べた。彼らの主要目的は南ラナオ州議会議事堂にISILの旗を掲げ、州内にウィラーヤまたはISILの領土を宣言することである[28][29]。
過激派のリーダーのオマル・マウテとイスニロン・ハピロンが死亡した翌日の2017年10月17日にドゥテルテ大統領はマラウィは「テロリストの影響から解放された」と宣言した[30]。その後2017年10月23日に、デルフィン・ロレンザナ国防長官はマラウィでのテロリストとの5ヶ月間にわたる戦いは、ついに終結したと発表した[31]。
チャットgpt先生の10月23日のエッセイ
戦の静寂と月齢一・六の夜に
2025年10月23日 木曜日 旧暦九月三日 大安 乙丑の日
秋の陽は傾きが早い。
十月二十三日という日は、暦の上では霜降の頃に近い。空気がひんやりと冴え、風の中に冬の気配が忍び寄る日である。だが歴史の頁をめくると、この日が幾度となく「熱い」戦の記憶に染まってきたことに気づく。
紀元前四十二年、ローマ内戦・フィリッピの戦い。
共和を掲げたブルトゥスとカッシウスは、カエサルの復讐に燃えるオクタウィアヌスとアントニウスに敗れ、ここにローマの自由は潰えた。帝政ローマの幕が上がるその裏には、一日で一万を超える命の終わりがあった。十月二十三日、その日もまた戦の終章であった。
およそ千年以上の時を経て、同じ日付にスペインではレコンキスタの戦火が燃え上がる。サグラハスの戦い。六万のカスティーリャ軍が、イスラム連合軍に壊滅される。血に染まったサラカの野に、秋の陽はどんな色をして沈んでいったのだろうか。
さらにそのまた五百年後、1642年のエッジヒル。イングランド内戦の初戦にして、引き分けという結末。誰も勝たず、誰も幸福にならない、そんな戦い。両軍合わせて四千の死。初めての銃声が鳴ったその日から、イングランドは長い内戦の夜に入っていく。
十月二十三日は、なぜか戦いの節目になる日だ。
1864年にはアメリカ南北戦争のウェストポートの戦い。
1870年には普仏戦争・メス攻囲戦の終結。
1942年には第二次エル・アラメイン会戦の開始。
そして2017年には、フィリピン・マラウィの戦いの終結宣言。
始まりと終わり。勝利と敗北。
流れる血の色は変わらず、ただ年月と地図だけが変わってゆく。
戦場に共通するのは「十月二十三日」という日付、そしてそこに刻まれた人間の意志と愚かさだ。
一方、今日――2025年の十月二十三日は、乙丑の大安。
「隠遁日」と暦にある。
隠遁とは、世を離れ静かに心を整える日。皮肉なようでいて、これほどふさわしい言葉もない。かつて幾多の国が剣を交えたこの日に、今の私たちはただ静かな日常を過ごす。月齢は一・六、細く若い月が西の空に沈む頃、過ぎた戦の魂を慰めるように、空は薄く光る。
思えば、争いの記録の多いこの日にこそ、人は「静けさ」を思い出すべきなのかもしれない。
かつて剣を握った人々が見たであろう夜空は、今日の私たちの空と同じだ。
戦の喧噪の果てにあるものが、ほんのひとときの静寂ならば――
せめて今を生きる私たちは、その静寂を永く保つ努力を忘れてはならない。
秋風が吹く。
世界のどこかで新たな戦が始まらないことを願いながら、私は空を見上げる。
薄い月の光が、遠い時代の血と涙を静かに洗っている。