kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日10月18日 1561川中島の戦い、ほか写真wikipedia信玄と謙信

10月18日

20251018土曜日旧暦8月27日仏滅(庚申かのえさるコウシン)月齢 26.2

乙巳きのとみ年戊辰つちのえたつ月庚申かのえさる日 年末まであと74日

吉方位 隠遁日 庚申さのえさる日  南西 大吉

https://ja.wikipedia.org/wiki/10%E6%9C%8818%E6%97%A5

10月18日の出来事

1009年 – ファーティマ朝のカリフ・ハーキムの命によりエルサレムの聖墳墓教会が完全に破壊。

1081年 – ロベルト率いるノルマン人とアレクシオス帝率いる東ローマ帝国軍がアルバニアで衝突。 デュッラキウムの戦いが勃発した。

戦争:ノルマン・東ローマ戦争

年月日:1081年10月18日

場所:デュッラキウム

現在のアルバニアの地中海沿岸部

結果:ノルマン人の勝利 損害:ビザンツ軍 1万5千人中 戦死傷甚大 ノルマン軍 2万5千人中 戦死5000人 行方不明7000人。

1561年(永禄4年9月10日) – 川中島の戦い: 八幡原の戦い。第一次から第五次にわたる川中島の戦いの中で唯一大規模な戦いとなり、多くの死傷者を出した。この戦による死者は、上杉軍が3000余、武田軍が4000余と伝えられる。計7000人の死者。

1860年 – アロー戦争: 英軍が清による捕虜殺害の報復として円明園を焼き払う。

1889年 – 大隈重信が玄洋社の来島恒喜に手投げ弾を投げつけられ片足を失う重傷。来島はその場で自害。(外国人司法官任用問題#大隈遭難事件)

1915年 – 第一次世界大戦: 第三次イゾンツォの戦い。

年月日:1915年10月18日 – 11月3日

場所:イゾンツォ川、西スロベニア

結果:オーストリア軍の勝利 損害: イタリア軍 戦死傷67100人 オーストリア軍 戦死傷40400人。

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1009年 – ファーティマ朝のカリフ・ハーキムの命によりエルサレムの聖墳墓教会が完全に破壊。

伝えられているところによれば、コンスタンティヌスの母ヘレナが326年にエルサレムを訪れ、当時はヴィーナス神殿となっていたこの地で磔刑に使われた聖十字架と聖釘などの聖遺物を発見したとされ、ゴルゴタと比定した。神殿を取り壊して建てられたのが現在の聖墳墓教会である。教会の中の小さな聖堂がイエスの墓とされている。

1081年 – ロベルト率いるノルマン人とアレクシオス帝率いる東ローマ帝国軍がアルバニアで衝突。 デュッラキウムの戦いが勃発した。

戦争:ノルマン・東ローマ戦争

年月日:1081年10月18日

場所:デュッラキウム

現在のアルバニアの地中海沿岸部

結果:ノルマン人の勝利 損害:ビザンツ軍 1万5千人中 戦死傷甚大 ノルマン軍 2万5千人中 戦死5000人 行方不明7000人。

この戦闘はアレクシオス帝の大敗となった。歴史家のジョナサン・ハリス(英語版)によれば、「デュッラキウムでの敗北は、マラズギルトの戦いでの敗北に匹敵するほどの大敗であった」とされる[24]。デュッラキウムでビザンツ軍は5,000人もの戦死者を出し、ヴァリャーグ親衛隊に至ってはほぼ壊滅したとされる。対するノルマン軍の戦死者の規模は明らかになっていないが、歴史家ジョン・ハルドン(英語版)は「ノルマン軍は戦闘で両翼部隊が壊滅し潰走していることから、相当数の死傷者を出したはずだ」としている[25]。また軍事歴史家リチャード・ホームズ(英語版)はこの戦いにおいて、『ランスを脇に抱えて敵陣に突撃するという新しい騎士戦術が、戦闘に於いて勝利を導く有用な戦法であることが証明された 』と言及している[26]。

1561年(永禄4年9月10日) – 川中島の戦い: 八幡原の戦い。第一次から第五次にわたる川中島の戦いの中で唯一大規模な戦いとなり、多くの死傷者を出した。この戦による死者は、上杉軍が3000余、武田軍が4000余と伝えられる。計7000人の死者。

9月9日(ユリウス暦では1561年10月17日、現在のグレゴリオ暦に換算すると1561年10月27日[23])深夜、高坂昌信・馬場信房らが率いる別働隊1万2千が妻女山に向い、信玄率いる本隊8000は八幡原に鶴翼の陣で布陣した。しかし、政虎は海津城からの炊煙がいつになく多いことから、この動きを察知する。政虎は一切の物音を立てることを禁じて、夜陰に乗じて密かに妻女山を下り、雨宮の渡しから千曲川を対岸に渡った。これが、頼山陽の漢詩『川中島』の一節、「鞭声粛々夜河を渡る」(べんせいしゅくしゅく、よるかわをわたる)の場面である。政虎は、甘粕景持、村上義清、高梨政頼に兵1000を与えて渡河地点に配置し、武田軍の別働隊に備えた。当初はこの武田別働隊の備えに色部勝長、本庄繁長、鮎川清長ら揚北の諸隊も含まれていたらしいが、これらの部隊は八幡原主戦場での戦況に応じて移動をしたらしく最終的には甘粕隊のみとなったとされる。

10日(ユリウス暦では1561年10月18日、現在のグレゴリオ暦に換算すると1561年10月28日)午前8時頃、川中島を包む深い霧が晴れた時、いるはずのない上杉軍が眼前に布陣しているのを見て、信玄率いる武田軍本隊は動揺した。政虎は、柿崎景家を先鋒に、車懸り(波状攻撃[24])で武田軍に襲いかかった。武田軍は完全に裏をかかれた形になり、鶴翼の陣(鶴が翼を広げたように部隊を配置し、敵全体を包み込む陣形)を敷いて応戦したものの、上杉軍先鋒隊の凄まじい勢いに武田軍は防戦一方で信玄の弟の武田信繁や山本勘助、諸角虎定、初鹿野忠次らが討死、武田本陣も壊滅寸前であるなど危機的状況であったという。

乱戦の最中、手薄となった信玄の本陣に政虎が斬り込みをかけた。『甲陽軍鑑』では、白手拭で頭を包み、放生月毛に跨がり、名刀、小豆長光を振り上げた騎馬武者が床几(しょうぎ)に座る信玄に三太刀にわたり斬りつけ、信玄は床几から立ち上がると軍配をもってこれを受け、御中間頭の原大隅守(原虎吉)が槍で騎馬武者の馬を刺すと、その場を立ち去った。後にこの武者が上杉政虎であると知ったという。

頼山陽はこの場面を「流星光底長蛇を逸す」と詠じている。川中島の戦いを描いた絵画や銅像では、謙信(政虎)が行人包みの僧体に描かれているが、政虎が出家して上杉謙信を名乗るのは9年後の元亀元年(1570年)である。信玄と謙信の一騎討ちとして有名なこの場面は、歴史小説やドラマ等にしばしば登場しているが、確実な史料上からは確認されない。なお、上杉側の史料である『北越太平記』(『北越軍談』)では一騎討ちが行われた場所を御幣川の渦中とし、信玄・謙信ともに騎馬で信玄は軍配でなく太刀を持ち、信玄は手を負傷して退いたとしている。また、大僧正・天海の目撃談も記している。江戸時代に作成された『上杉家御年譜』では、斬りかかったのは荒川伊豆守だと書かれている[25]。また、盟友関係にあった関白・近衛前久が政虎に宛てて、合戦後に送った書状では、政虎自ら太刀を振ったと述べられており、激戦であったことは確かとされる。

政虎に出し抜かれ、もぬけの殻の妻女山に攻め込んだ高坂昌信・馬場信房率いる武田軍の別働隊は、八幡原に急行した。武田別働隊は、上杉軍のしんがりを務めていた甘粕景持隊を蹴散らし、昼前(午前10時頃)には八幡原に到着した。予定より遅れはしたが、武田軍の本隊は上杉軍の攻撃に耐えており、別働隊の到着によって上杉軍は挟撃される形となった。形勢不利となった政虎は、兵を引き犀川を渡河して善光寺に敗走した。信玄も午後4時に追撃を止めて八幡原に兵を引いたことで合戦は終わった。上杉軍は川中島北の善光寺に後詰として配置していた兵5000と合流して、越後国に引き上げた。

この戦による死者は、上杉軍が3000余、武田軍が4000余と伝えられ、互いに多数の死者を出した。信玄は、八幡原で首実検を行い、勝鬨を上げさせて引き上げ、政虎も首実検を行った上で越後へ帰還している。『甲陽軍鑑』はこの戦を「前半は上杉の勝ち、後半は武田の勝ち」としている。合戦後の書状でも、双方が勝利を主張しており、明確な勝敗がついた合戦ではなかった。

1860年 – アロー戦争: 英軍が清による捕虜殺害の報復として円明園を焼き払う。

1889年 – 大隈重信が玄洋社の来島恒喜に手投げ弾を投げつけられ片足を失う重傷。来島はその場で自害。(外国人司法官任用問題#大隈遭難事件)

逸話

大隈の治療は、池田謙斎を主治医とし、手術は佐藤進・高木兼寛・橋本綱常・エルヴィン・フォン・ベルツの執刀で行われた[3]。大隈はその後、来島について「爆裂弾を放りつけた奴を、決して気違いの人間で、憎い奴とは寸毫も思わず。」「華厳の滝に飛び込む弱虫よりは、よっぽどエライ者と思うておる」「いやしくも外務大臣である我が輩に爆裂弾を食わせて世論を覆そうとした勇気は、蛮勇であろうと何であろうと感心する。」と語っている[5]。小久保喜七は毎年来島のために年忌を行っていたが、大隈は毎年法要に代理人を送ってきたという。大隈の没後も、養嗣子の大隈信常によって代理人の派遣は続けられた[6]。

来島の葬儀の際、弔辞を読むこととなった頭山満は「天下の諤諤は君が一撃に若かず」と、国民輿論を無視し条約改正に突き進む政府の政策を打ち破った来島を激賞した。

来島も学んだ興志塾(通称・人参畑塾)の塾長高場乱は、かつて塾生だった来島が爆弾テロ事件を起こしたことを聞くと、国際情勢や日本の国際環境を理解しない浅はかな者だと否定し、批判した[7]。一方で、自決したことには「ながらえて明治の年の秋なから心にあらぬ月を見るかな」という嘆きの歌を詠んでいる[8]。

博多の侠客「勇敢仁平」の異名をとる大野仁平と乱闘となり、燭台で大野仁平の頭をたたき割っている。

来島の墓碑を寄贈した石工の広田徳平は、後に首相となる広田弘毅の父。また、計画に加わっていた月成功太郎は弘毅の妻の父であり、岳父にあたる。

1915年 – 第一次世界大戦: 第三次イゾンツォの戦い。

年月日:1915年10月18日 – 11月3日

場所:イゾンツォ川、西スロベニア

結果:オーストリア軍の勝利 損害: イタリア軍 戦死傷67100人 オーストリア軍 戦死傷40400人。

第三次イゾンツォの戦い(イタリア語:Terza battaglia dell’Isonzo, ドイツ語:Dritte Isonzoschlacht)は、第一次世界大戦中のイタリア戦線で1915年10月18日から11月3日にかけて、イタリア王国とオーストリア=ハンガリー帝国の間で戦われた会戦である。

チャットgpt先生の10月18日エッセイ


10月18日という日 ―― 歴史の焔と静寂のあいだで

10月18日。
秋の気配が深まり、月齢26.2。夜空には細く欠けた月がかかり、季節は確かに冬へと傾きはじめている。
旧暦では八月二十七日、干支は庚申。隠遁日。南西、大吉。
暦の上では「静けさ」を示すこの日だが、歴史の頁をめくると、むしろこの日ほど「火」の立ちのぼった日も珍しい。


西暦1009年のこの日、遠いエルサレムでは、聖墳墓教会がファーティマ朝の命により焼き払われた。
それはただ一つの建築物の焼失ではなかった。キリスト教の中心、信仰の象徴が灰と化したという報せは、のちに十字軍の炎を呼ぶ遠因ともなった。
聖地とは、たとえ石で築かれていても、いつも人の心の上に建っている。
それが崩れるとき、崩れるのは建物ではなく、人の「祈りの形」そのものなのだ。

千年を経て、1081年のこの日。
アルバニアのデュッラキウムの海辺で、ノルマンの槍が東ローマ帝国の盾を突き破った。
敗れたアレクシオス帝はなおも帝国の再建に力を尽くすが、この敗北はマラズギルトに並ぶ屈辱と呼ばれる。
戦場は、国の命運を賭けた人々の叫びと鉄の響きで満ちていた。
戦いの記録に残る数字――戦死者五千、行方不明七千――それらは数ではなく、名もなき命の群れである。
けれど、勝者のノルマンたちも、彼らの勝利がやがて新たな血を呼ぶことを知らぬまま、夕焼けに槍を掲げたのだろう。

そして日本。
1561年、信濃の川中島。上杉政虎(のちの謙信)と武田信玄が雌雄を決した八幡原の戦い。
霧が晴れたとき、敵はすでに眼前にいた。
「鞭声粛々夜河を渡る」――頼山陽が詠んだその句のごとく、静寂を破る戦いの轟きが朝霧にこだまする。
この戦いもまた、勝敗を決しえぬまま終わった。
しかし、千年ののちも語り継がれるのは、勝ち負けではなく、敵味方を越えた「気迫」と「美」である。
川中島の霧の中で相まみえた二人の武将は、あるいは互いの生涯の鏡であったのかもしれない。

1860年、北京。
アロー戦争の末、英軍が円明園を焼き払った。世界が羨んだ極東の楽園は、三日三晩燃え続けたという。
文明の結晶を焼いた炎は、やがて「文化略奪」という言葉を生んだ。
炎はただ建物を焼いただけではない。文明と文明の「尊厳の差」を、赤裸々に照らし出してしまった。

1889年、東京・早稲田の外務省前。
一つの爆裂弾が投げられ、大隈重信は片足を失った。
だが、彼はその青年を「気違い」とは呼ばなかった。
「いやしくも外務大臣である我輩に爆裂弾を食わせて世論を覆そうとした勇気は、蛮勇であろうと感心する」と語ったという。
その言葉に、時代を生きる政治家の度量と、命を賭して抗う青年の情熱が交錯する。
爆炎の跡に残ったのは、肉体の傷よりも深い「思想の火傷」だったのかもしれない。

1915年、第一次世界大戦。
イゾンツォ川沿いで、イタリアとオーストリアが衝突した。
17日間で十万を超える死傷。
第三次イゾンツォの戦いは、わずか数キロの前線をめぐって、数万の命が砂塵と消えた戦であった。
山と川と霧のなかで、兵士たちは「国家」という見えぬ幻を信じて死んでいった。
その日もまた10月18日だった。


暦の上では「隠遁日」。
戦や炎の記録とは裏腹に、この日は本来、静かに過ごすべき日とされる。
隠遁とは、世を避けることではなく、世を見つめすぎた者が一時そのまなざしを内に向けること。
歴史の頁に刻まれた10月18日は、まるでその「隠遁」の意味を逆説的に照らしているように思える。
燃え、壊れ、失い、なお人は祈り、書き、築き続けてきた。
人間の営みとは、炎のあとに必ず訪れる「静寂」を探す旅なのかもしれない。

10月18日――
その日を迎えるたびに、私たちはふと立ち止まり、歴史の燃えさしを見つめ直す。
静かに息を吸い、南西の空を見上げる。そこには今日も、大吉の風が吹いている。